第9話 空が明日を分かつとも(9)
〝黒鴨亭〟。
外観は土塀しっくいの居酒屋だ。店に入る前から、食器のぶつかる騒音が聞こえてくる。居酒屋なんだから当たり前だが、まだ朝の七時だ。
ドアを開けて入ると、酒精と体臭の匂いで鼻が曲がりそうになる。さらにここではタバコの煙が漂っていた。不健康・不健全・不節制のそろい踏みではあったが、即物主義の自由人どもが集まるロクでもない場所にふさわしかった。
「いらっしゃい」
カウンターから女性の声をかけられる。黒髪に泣きぼくろの、いなせな姐さんが俺を見て同情的な笑みを浮かべた。
「あんた、〝新黒鴨亭〟に行っただろ」
「わかりますか」
「ふふっ。ああ。あすこに顔出して、こっちに来るときゃ、みんなそんな損をした顔をしてるからね」
「王国訛りですね」
「ふぅん。あたしと腹の探り合いしようってのかい」
「いいえ。そんなつもりじゃ。あの沸騰鍋と二言三言話すくらいなら、こっちの方が話が通りやすそうだなって」
女性はかかかっと快活に笑うと、カウンター席を促した。俺は彼女の正面に据わり、左にフレイヤ、スコールと座った。
「あれでも、うちの親父の弟でね。元遣り手の商人だったんだが、船が海に沈んで儲けを全部、海底に沈めてね。親父が哀れんでここを手伝わせたら、ギルドの鑑札だけ持ってここを抜けやがったのさ」
俺は店内の冒険者風のメンツを見回すと、
「ということは、ここの冒険者はモグリで?」
「ただの飲み常連さ。それにこの辺には割のいいダンジョンもないし、協商連合もアスワンと海戦をしなくなったから、最近は冒険者も数が減ってね。商家風なのがたまにやって来て、用心棒になりそうなのを二、三人引っぱっていく程度さ」
俺はカウンターにギルドから持ってきていた依頼書を見せた。
「ん、ゴブリン?」
「この居酒屋に入ってきてるゴブリン絡みの依頼書を見せてほしいのですが」
「あんた、冒険者かい?」
「いいえ。もしよければ、ゴブリンの生態に詳しい人だけでも紹介して欲しいのですが」
女性は一瞬、視線を上げてから即答した。
「この町だったら、うちの親父だね。この依頼書。貼り出しから半年後に、ギルドと揉めた両親が親父に泣きついてね。親父も見かねて調査して、とっくに解決済みなんだよ。結果は残念なことになっちまったけど。死体は取り戻せて依頼人も親父に感謝してたよ」
「では、そのお父さんを紹介していただけないでしょうか」
女性は顔を振った。
「死んだよ。もう二年になるね」
ここで糸が切れたか。俺は依頼書を畳んでポケットに戻すと席を立とうとした。
「ねえ。あんた。なんでゴブリンにこだわってるんだい?」
「テューリン~ミライ間の野盗騒ぎをご存じですか」
「そりゃもちろん。あそこで飲んでる連中が今朝戻ってきたばかりさ。なあ!」
女性の声に、冒険者どもがジョッキを掲げて応じる。
「全員無事に?」
「だろうね。あそこでしんみり飲んでたら仲間がやられたか、しくじった証拠さ。わかりやすくできてるんだよ」
「昨日はとても冷えたから出てこなかったんじゃないかしら」
フレイヤがぽつりと言った。
「ちょっと。何のことだい? あんた、はっきり言いなよ」
女性が少し険のある睨みを俺に向けた。
「あの区間に、ゴブリンの巣を見つけました。地下に」
「はあっ、地下だって? そんな話……聞いたことないよ。規模は?」
「一万から二万」
沈黙。店その者が息を止めたようだった。そして、爆笑。冒険者達はジョッキ片手にテーブルや自分の太腿を叩き、床を足踏みする。
スコールが眉を跳ね上げて席を立とうとして、フレイヤに袖を引かれる。それから二人はじっと俺を注視する。
「……マジかい?」
女性が言った。俺は頷いた。
「今のところ、確たる裏づけ証拠を探し始めたところです。それでこの町から情報収集を。ゴブリンの生態に詳しい人の話を聞いてから、俺たちが見たものが現実なのか幻なのかを判断しようと思ったのです」
「あんた達、一体何を見てそう思ったんだい?」
「他言無用に願います。魔法なのです」
「魔法。……あんた、まさかその顔で魔法使いなのかい」
顔は関係ねぇだろ。
「そこには、お答えできかねますね」
俺は玄関口に行くとドアを開ける。外に頭を出して誰も来そうにないことを確認すると内側からかんぬきを架け、それから索敵魔法を詠唱した。
店内が突如まっ暗闇になると、俺の足下に魔法陣が現れた。
「へえ。これが魔法かい。あたし初めて見たよ……ん」
カウンター越しに俺の周囲に赤い灯火が絨毯のように広がると、スコールの後ろくらいに緑色の灯火の群衆が現れた。
「そっちの緑はなんだい?」
「この町の住民です」たぶんな。この魔法、取扱説明書がないんだ。
「スコール」フレイヤがとなりの少年の袖を引っぱった。「緑の火の中に赤い火が混じってる」
緑の灯火が蠢く間をすり抜けるように赤い灯火が七つ、町の各所に散って動き回っている。
「ゴブリンの斥候(偵察)だ。この町の地下を伝って現れてるんだ」
「冗談じゃねえ。まだ昼前だぞ」
冒険者たちが口々に声を荒げてやって来た。魔法を近くで見るきっかけが欲しかったのか、スコールよりも俺の足下ばかりを見つめている。
「この動き、地下下水道……。おいっ、ヴァッテン! この間、新米連れて掃除に入ったのはいつだ?」
「は? あーと、いつだっけな。去年の秋口いや、冬の前だ。けどゴブリンのゴの字もいなかったぜ」
「それは貴族街の方角じゃないですか」
「あん?」
近くに寄った冒険者に、俺は鼻面をふって床の灯火を促す。
「今、赤い点が動き回ってるのは、この下町です。ヤツらは地下下水道で戦闘すれば、存在がバレて余計に冒険者などの好戦的な人が入ってくることを理解している。そうならないように地下下水道の掃除を依頼される貴族街方面を避け、あまり依頼がない下町の地下下水道へ獲物を捜しに来ているのでしょう」
「ううっ。いや、けどよ……っ」
「見つからないのは、いないのと同じ。地下下水道に降りてくる人という種族は皆、そう判断するのだとゴブリンはすでに学習しているのです」
その時、赤い灯火が、とある一点に集合した。
「ヤツら、仕事を始めやがったのか!?」
直後に、攫われた緑色の灯火に顔が映った。
「マリアぁっ!?」
カウンター越しに女性が悲鳴を上げた。
魔法を消し、俺はカウンター席にどっかりと座った。この魔法、長時間も連発も結構しんどいんだ。
「ちょっと、あんた! なんで消したんだよ!」
「す、すみません。魔力が切れました。リンゴがあったらください。それと、直近のゴブリンに関する依頼書。あるだけ見せてもらいたいのですが」
「ないよ。本当にないんだ。そうだよ、冬になる前に恒例みたいに出る貴族街の地下下水道の掃除がおわったら、ぱったりとなくなってた。それで──」
女性は俺に振り返ると言葉を飲んだ。リンゴを握る手も震えていた。
「子供が謎の失踪をする時期──冬、ですね」
──ドンドンドンッ。ルイーズっ、ルイーズっ! 大変だよ!
ドア越しに女性の声が怒鳴る。急いで冒険者がかんぬきを開けた。
開いたドアの隙間から中年女性が顔を出す。
「ああっ。ルイーズっ! マリアがどこにもいないんだよっ」
とたん、ルイーズはカウンターの中で卒倒した。
「ルイーズっ!? ──おい、狼頭っ。どういうことだ、こりゃあ!」
俺はカウンターに置かれたリンゴを拾うと、ひとかじりで半分を口の中に入れ、シャクシャクと
「何とか言えよ!」
俺の胸倉を掴んでくるその手を掴み返し、捻り、床に転がす。
「この中でゴブリンを一つのクエストで二〇匹以上殺した方はいらっしゃいますか。冒険者等級は問いません」
三人、手を挙げた。
「ルイーズさんのために命が賭けられますか?」
「御託はいい。何をすればいいか言ってくれ」
白髪の剣士が半歩前に出た。俺はリンゴの残りを口に入れて、咀嚼しながら頷いた。
「あなた方三人で、地下下水道の掃除です。地図はありますか」
「冒険者ギルドが持ってる」
あそこに行くのは御免被りたい。俺は期限の切れた奪還依頼書を差し出した。
「冒険者に依頼があったと言って、これを突きつけて下水道地図を請求してください。見せるんじゃありません。突きつけて事実だけを伝えるためのハッタリ道具です。その地図を元に北城壁付近から地下へ降りられる場所を探してください。見つけたら俺に連絡を。北城門で待っています」
「なるほど。わかった。おい、行くぞ」
奪還依頼書を握りしめ、冒険者三人は居酒屋を飛び出していった。
「おい、おれたちゃ何をすりゃあいいっ」
俺は冒険者達に頷くと、フレイヤにメモ紙を渡した。
「えっ……じゃがいも?」
「うん。そのメモに書いた数を買ってきて」
「おい、狼頭。テメェ、おれ達を馬鹿にしてんのかっ?」
「待ってください!」フレイヤが鋭く止めた。そして俺をまじまじと見る。「ジャガイモを三〇〇袋って本気なの?」
冒険者達が言葉を飲む。俺はその証拠に中サイズの金袋を手渡す。
「これは急がなくていい。明日の夜までに準備が整えば間に合うから。誰かこの町のお店に詳しい人を一人付けて案内してください。残りの人は馬車でその物資をこの店まで運んでもらいましょうか。それとそこの女将さん、お名前は?」
「えっ。リマだけど……」
「リマさん。申し訳ありませんが、ここに人を集めてきてもらえませんか。多ければ多いほどいいのですが」
「何させる気だい。てか、ジャガイモの皮むきでもさせるのかい?」
「惜しいですね。ジャガイモの皮ではなく芽を摘んでもらいたいのです。三〇〇袋全部」
「こっちは貧乏人だからね。タダじゃやれないよ」
ちゃっかりしてる。俺は肩をすくめた。
「わかりました。摘んだジャガイモを五袋分。ご町内で分けてもらって結構ですよ」
「そうこなくちゃね。わかったよ。まかせておくれ」
リマと名乗った中年女性は悪ガキみたいな笑みを浮かべて、駆けだしていった。
人助けは割に合わないと相場が決まっている。
その上で、俺は悲劇で終わる結末が、嫌いだ。
だから、やると決めたからには、手を抜かない。
§ § §
鼻が曲がるような悪臭の中。俺は体内時計で十五分前後も待たされた。
「遅かったじゃないか。白昼の児童誘拐とは恐れ入る」
初めて見るゴブリンは六、七歳の児童ほどの大きさ。緑色の全身タイツを着たしわくちゃの老人のようだった。表皮は不潔そうにぬらぬらと光っている。
小鬼というが角はなく、ハゲ散らかした白髪。目はコウモリのように白目がない、ギョロ目。耳が大きく尖っている。おそらく暗い地下で視覚よりも聴覚を頼りにして生活しているので発達したのだろう。
「お前らが出入りしていた穴は本日只今をもって閉鎖になった。見りゃわかるだろうから、言葉はもういいよな」
俺は
「さあ、人様にぶちのめされたいヤツから、かかってこいよ」
ゴブリン達は、顔を見合わせていたが、やがて頭上に担いでいたものを水路の中に放り捨てた。
蛇に似た威嚇音とともに七匹が一斉に俺に飛びかかってきた。
汚泥にまみれた爪や腐悪臭をさせる牙が俺の肩や首、顔に突き刺さる。
──ガキンッ!
俺は顔に咬みつくゴブリンを殴り払った。
──ガキンッ!
金属質な音とともに小さな身が壁に激突。肉塊をこびりつかせて爆ぜた。とたん、ゴブリン達がコウモリによく似た悲鳴をあげて逃げだした。
一匹、足に咬みついたまま逃げ遅れたグズを振り払うなり、壁に蹴った。腰骨の折れる鈍い音。半失神で跳ねて戻ってきた頭を一片のためらいなく踏み潰す。
生き物の骨肉が潰れる感触は不快だが、これは生存戦争だ。この世界にゴブリン愛護団体はない。
他のゴブリンを追わず俺は水路に足から飛びこんだ。投げ込まれた少女を汚水の中から引き揚げる。
少女は激しく咳き込んだが、俺の顔を見てきょとんとした。
「……犬?」
「狼」
「ふうん」
「マリアだよな。ルイーズ母さんのところに帰るよ」
少女は頷いて、今度こそ気を失った。
水路から揚がると白髪の剣士ら三人の冒険者が集まった。
「おい、ゴブリンを五匹全部狩り取ったぞ」
「ご苦労様です。帰りましょう。誰か地上に先行を。ロープを持ってきています。彼女を背負うので身体に巻き付けてくれほしいのですが」
「わかった、任せろ。……ところで狼の魔法使い」
「狼だけでいいです」
「ふん。……町に入ってくる穴はここだけだと思うか」
「あなた方がここに追い込んでくれている間に、暇を持て余してましてね。別の箇所をもう塞いでおきました」
「そ、そうか。なら──」
「それでも、です。それでもヤツらはこの町を目指してくるでしょう」
「なぜだ。警備隊の及ばない村ならいざ知らず。ここは城塞都市だぞ。軍隊だっている」
「城塞の地下は
「くそっ。舐められたもんだぜ」
「魔物でも人でも、舐められた方が付け込まれる。ヤツらは学習が早い分、図に乗るのも早い。そうでしょう?」
白髪の剣士は何度も頷いた。
「ああ、そうだな」
地上から異常なしの合図が出たので、俺は少女を背負ってハシゴを登る。
「おれはゼラルド。お前、名前は」
「狼です」
「そうじゃなくて、本名だよ」
「狼です。上司がつけてくれたものです」
「マジか。ひでぇ上司だな」
「よく言われます。でもね。案外、気に入ってるんですよ」
俺はハシゴを登って地上に出た。市内のあちこちの鐘楼から、九つ鐘が鳴った。
「しまった。エディナ様と朝食があったんだった」
俺は急いで荷物を届けに走った。
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