第9話 カラヤン捕囚 前編
俺がカラヤンを呼んだのは、カンテラに明かりをつけるかで迷い始めた頃だ。
遠くに明かりがちらほらと見えた。
「カラヤンさんっ」
「どうした」
「前方に焚き火と見られる明かりが多数。野営地だと思われます」
すぐさま幌カーテンがはねのけられ、カラヤンが顔を出してきた。
「狼。ここから天幕の色と形はわかるか」
カラヤンが目を細めて言う。人の夜目でも見通せない距離だ。だが俺には見える。
「色は白っぽいとしか。形は三角が数百以上あります」
「アスワン帝国の後詰めだ。もう来てやがったのか。狼、手綱を変われ。馬車をひき返す。行商の旅はここまでだ」
その時、耳に近づいてくる馬蹄の音を捉えた。
「野営地から馬が来ます。数5」
カラヤンは忌々しげに舌打ちすると、俺から手綱を引き受けて座った。
「お前らは幌の中にいろ。臨戦はとるな。フードをかぶってじっとしてろ。メドゥサは顔も隠せ。アスワンにとって顔を晒す女は娼婦でしかねぇんだ」
「なにぃ? 無礼なっ。海の民の女を愚弄されてたまるかっ」
「うるせぇ! お前は今から、おれの女房だ。いいなっ」
「えっ……はい」
従順か。俺とメドゥサ会頭は言われるまま幌の中にひっこんだ。
俺はそばにあったショートケーキ大のカットチーズを掴むや、口に押し込む。
「ちょっ。狼どのっ。それは商品だぞ!」
「俺の斧は、魔力を消費するので少しでもマナを溜めますっ。いざという時にはカラヤンさんの補助につかないと。くそ……生肉が欲しい」
不思議なことに発酵食品には少量だがマナが含まれている。細菌がわずかに生きているせいだろうか。燻製加工肉では体力はつくが、マナはない。
血が滴るような獲れたての何かでないとマナは吸収できないみたいだ。またメドゥサ会頭からマナを盗むか。いやだめだ。彼女も戦力だ。
落ち着け、俺。まだ戦闘になるとは決まっていない。だけど、準備は怠るな。ならマナが必要だ……その堂々巡り。
やがて、馬車は完全に止まった。
「※□$× #%&$」
「この場者は、どこへ行く」
異国の言葉の後に、帝国語で中性的な声がかけられた。
「ヴェリカ・クラドゥシャに行く予定だったが、オタクらを見てな。引き返すことにした」
「商人か」
「ああ。商人鑑札は幌の中だ。女房の他に、手代が一人だ」
「何を売っている?」
「塩だ。悪いが、こっちはジェノヴァ協商連合の庇護を受けた商会だ。あからさまな闇商売は後がこわいんでな」
通訳がもう一人に話をした。そして、
「お前たちをビハチに連行する」
「なぜだ。嫌疑は」
仲間にカラヤンの言葉を伝える──にしては異国の侵略者は少し長くしゃべった。
そして、
「ここはもはやアスワン帝国
「ジェヴァト? ……いや、待て。無茶なことを言うな。ここまで来る間に、アスワン帝国の旗など、どこにも立っていなかったぞ」
「旗はすでに立っている、ヴェリカ・クラドゥシャにな」
「言いがかりだ。国際協定に反する」
「ふっ、ふふっ。そうかもですね。うふふふ」口調が急に砕けて、気味悪くなった。
「でもぉ、あなた方の馬車一台くらい拿捕したくらいで、ハドリアヌスの海を隔てたヴェネーシアが気づくでしょうか。ねえ? ムラダー・ボレスラフ」
「ッ!? その口調。お前まさか……あの時の通訳士?」
「おやぁ。三年も経ちましたが、まだ憶えていただけたとは光栄です勇士。いかにも。故バルバロス・マラコフの通訳士フセイン特尉です。今はこの通り、船を下りて陸の仕事をしています。ジェヴァト閣下があなたを見たら、さぞ歓迎してくれることでしょう」
「ジェヴァト……そうか。あの時の副官の名だったな」
「ですです。今はご出世されて、カーロヴァック攻略における参謀幕僚の末席にあります。私はこの場を離れられませんが、伝達しておきますので、あの方の接遇を受けていただきましょうか」
「何を言っても無駄か」
「ええ、無駄ですねぇ。ここであったが百年目の仇、と
「待て。まともな帝国語と話せるのは、これで最後かもしれん。一つだけ教えろ」
「はい。なんでしょう」
「なぜ、おれがここを通りかかることが分かった?」
「……」
長い沈黙の中で、俺は耳をそばだてた。
「魔女から聞いたそうですよ」
「魔女? 名前は」
「存じませぇん。でもビハチに現れた魔女がジェヴァト様に言ったそうです。この道を馬車で通るムラダー・ボレスラフには関わるな、と」
「ほう。関わるな、か。だが、お前たちはその魔女の忠告を無視したわけか」
「もちろんです。帝国は魔女アルサリアの大罪をいまだ忘れていません。魔女の言葉に耳を貸すはずがないのです。それに、ムラダー・ボレスラフには、いろいろしたいじゃないですかぁ。うふっ、うふふぅ」
連れて行け。と言ったのだろう。指示を出すと、四騎の騎馬が馬車を取り囲んだ。
カラヤンが馬車を反転させて馬を歩かせる。騎馬がだく足で進み始めた。馬車が遅れると荷台の壁を槍の石突でうるさく責め立てられた。カラヤンは忌々しげに速度を上げる。
「カラヤン。四騎程度なら、我々でどうにかならないか?」
幌カーテンごしにメドゥサ会頭が声を尖らせて持ちかけた。
「やめとけ。アスワン軍の伝達力を甘く見るな。先に飛んだ護送連絡に到着がなければ、捜索隊が一個中隊(約二〇〇人)で動く。
ツァジンの町住民からおれ達の足取りを絞り出し、セニの町まで追ってくるぞ。今のおれにできそうなことは、隙を見てお前たちを逃がすことくらいがせいぜいだ」
「わ、私はお前を置いて逃げたりはせんぞ!」
「お前たちが逃げねぇと、おれの逃げる目が出なくなんだよ。こういう時は、場数を踏みまくってる俺に従え。異論は認めん」
「俺たちが逃げられたとして、その後はどうしたらいいですか?」俺が尋ねた。
「セニでシャラモンと合流しろ。それで二週間待て。それで俺が現れなきゃ……忘れろ」
「大損、ですね」
「……まあ、そうだな」
それで、この場での話が終わった。
大損。この行商のことじゃない。
俺の将来のことだ。
§ § §
ビハチ要塞。
セニの東南東。〝ディナル・カルスト〟の中腹部に位置する。
アスワン帝国の北西方面であり、ダルマチア地域におけるジェノヴァ協商連合との国境に位置する国家戦略上の要衝である、
七年の間に掲げた国旗は三度代わり、今はアスワン帝国の領域下にあった。
「おい、お前ら。どうしたそのザマは」
護送到着を出迎えた将校が、馬から降りた同僚に苦笑を投げかけた。彼ら四人の甲冑が、上から下まで真っ赤に染まっていたのだ。
「どうもこうもあるか。ツァジンでトマトをぶつけられたんだよ」
「何をしたんだ。村娘でもつまみ食いしてきたのか?」
「バカ言え。あの護送対象が、町の塩不足を物々交換で救っやってたんだと。それをおれ達が連行していったから闇塩で逮捕したと勘違いされて、女子供から一斉にやられたんだ」
「塩を物々交換ねえ。そりゃまた太っ腹な商家だ。災難だったな。……あまり寄るな。臭うぞ」
「やっぱりか。くそっ。……厩舎に行ってくる」
「上への報告は?」
「大筋の連絡は受けてるんだろ? 護送人の引渡しだけ頼めるか。ムラダー・ボレスラフ以下、三名だ。女一人と獣人一匹」
「で、ムラダー・ボレスラフ……本物か?」
「ああ。後詰めのフセイン副官が面通しをしたそうだ。本人は他人のソラ似だと言い張ってる。ここだけの話、魔女の言う通りだったらしいぜ」
「あの噂、当たったのか。だが上の前で口にしない方がいいぞ」
「わかってる。それにしても、なんでこんな砦に魔女が現れたんだかな」
返事を期待するわけでもなくぼやいて、トマト将校は身体を洗いに歩き出した。
§ § §
カラヤンの背中について廊下を歩く。
メドゥサ会頭は、馬車から出ることも許されなかった。男尊女卑だと訴えたが、馬車を守っていろとカラヤンに
三階の窓からみえる空もハドリアヌス海も暗いが、城塞の周囲は篝火がたかれて明るい。城壁の見張り台にも兵士が一人ずつ配置され、外を警戒している。
それにしても、元々はヤドカリニヤ商会として行商に出ていたのに、いつの間にかカラヤンが主人となってアスワン軍から狙われる。運不運の領域は超えていた。やっぱりこうなったかという諦念が、この場の緊張を和らげた。
「閣下。ムラダー・ボレスラフを連行して参りました」
──入れ。
案内役の兵士が扉を開けると、室内の奥で青年が見えた。
三〇代。事務机に座って書類仕事をしている。薄い眼鏡をかけた上級将校らしい金の
金の飾緒はその編み方で階級章の代わりにもなる。
俺の知識からすると、中佐あたりだろうか。
「しばし待て。そこのテーブルへかけていてくれたまえ」
言われた通りにカラヤンが二人がけテーブルに座る。俺は彼の後ろに立った。
給仕係から果汁の入ったグラスを一つ供された。俺の分はなさそうだ。
カラヤンは悠然とグラスを口に運んだ。
七分ほどして執務机から将校が立ち上がり、自分のグラスを持ってやってきた。
「待たせたな。アスワン帝国陸軍特佐ジェヴァト・ウサイン・イブラヒムだ」
「カラヤン・ゼレズニーだ」
「ん? カラヤンとは……?」
「ムラダー・ボレスラフは三ヶ月前。プーラの城門前で首を
ジェヴァト特佐はかすかに目を瞠ると、何度も頷き、カラヤンを刺すように見つめる。
「では、私の目の前にいる男は、〝ハドリアヌス海の海虎〟を倒したムラダー・ボレスラフではないと」
「そうはいわん。現にあんたはあの船に乗っていて、おれの顔を憶えていた。あの船の乗組員の皆殺しを止めたのも、おれだ。この情況から考えれば、全員海に投げ込むべきだったかも知れないが、後悔はしてない。
だが、ムラダー・ボレスラフの功罪はすべて、プーラの城門前で首を晒しているムラダー・ボレスラフがあの世まで持って行った。ということだ」
「なるほど。それはむしろ、好都合かも知れないな」
「どういう意味だ」
「帝国海軍に大功あるバルバロス・マラコフを打倒したムラダー・ボレスラフの賞金首はプーラに行けばあると知れた。ならば改めて、無名の剣士カラヤン・ゼレズニー──、私の
§ § §
「おれが、お前の麾下に入る? なぜだ。意味がわからん」
「三年前。あの船上での正々堂々たる一騎打ちで、両陣営に魂を奮わせない者はいなかった。私もその一人だ。
そして、マラコフ大佐の亡骸を持って本国に帰った後、私に昇進の道が開けた。彼の生前は
「違うな。それはお前の努力と貢献と幸運に過ぎない。むしろおれに恩を感じてくれるのなら女房と手代と一緒に家に帰してほしい」
「それはお前の気持ち次第だ。カラヤン・ゼレズニー。私の麾下に入れ。その対価として妻とそこの獣人を解放することを約束しよう」
「断ると言ったら」
将校は首をゆるゆると振った。
「お前は、もはやこの城塞から出られない。牢に入ってもらう。もちろん、一般虜囚としてはない。私の権限で高等虜囚として遇そう。お前がアスワン帝国に寄与すると宣誓するまでな。妻と手代は……交渉の初手は紳士として振る舞おう。解放してもいい」
俺は我知らず喉が唸った。ジェヴァト特佐が小うるさそうに俺を見上げる。
「決定事項だ。獣人。彼の妻にそう伝えて、即刻この城塞を出るように。以上だ」
「ジェヴァト特佐……いいのか、本当に」
カラヤンは憮然と言った。
「どういう意味だ?」
「魔女の忠告を無視できる度胸は大したもんだが、厄災が降りかかるぞ」
「誰からそれを?」
「通訳士のフセインだ」
ジェヴァト特佐の眉間に初めてしわが寄った。
「残念だが、私はすでに死んだムラダー・ボレスラフを殺すことはできない」
とたん、カラヤンの表情が曇った。
「ジェヴァト特佐。魔女に、おれを殺せと言われたのか?」
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