第55話 償いたい別れ


 三日の間、寝た記憶がない。

 木炭の作成。新メニューレシピの作成。脚気改善の米飴の作成。石炭の乾留からの、ナイロン手袋と縫合糸作成の立ち会い補助。

 石炭は冷却期間が必要なので三日間放置。他に人工呼吸器は、炭焼きの待ち時間に製作済んでて安全検査待ち。


「不合格じゃ」


 翌日──。

 ホヴォトニツェの金床で、俺は人工呼吸器の安全検査の結果を聞いた。


「だめですか」

「うむ。ちょっと当ててみい」


 ライカン・フェニアに促され、犬の鼻と口をエアバッグの銅製の漏斗の形をしたマスクで塞いでみる。


「うわっ。くさっ!」


 思わず顔を背けてくしゃみをした。ライカン・フェニアが破顔する。


「わかったかや? それはバクテリア臭じゃ。丸一日半置いてみて、そうなった。おそらく狼がバッグ内の反発力を持たせるために入れた海綿の洗浄と乾燥が不十分なのじゃ。それでな。記憶を頼りにこれを作ってみた」


 そう言って取り出してきたのが、ガラス製のフラスコ。その首にコルクが嵌められていた。そしてコルクには細い銅管が二本突き出ていた。


「あっ。これ、吸気弁がある。しかもプラスチックっ。いや、何気にこの装置作成に困ってたんですよ」


「狼ぃ。吾輩を誰じゃと思っておるのかや?」

「はは~っ。おみそれしましたあ。博士さま~っ」


 イスに座ったまま吸気弁を捧げて芝居がかった平伏をしてみせる。ライカン・フェニアとロギが笑う。いやしかし、マジですごいわ。この人。


「バッグの革縫いはラグビーボールのアレでよいと思う。できれば試作を今日中に頼む」

 俺は平伏の姿勢で顔だけを上げた。


「今日中? もしかしてスミリヴァルさんの容態に何か」


「うん……やはり患者にとって寒さというのは大敵じゃな。腹水だけでも先に抜いておこうかと、昨夜メドゥサ殿たちと話をしたのじゃ。それと──」


 ライカン・フェニアはそこで言葉を切ると、ロギを一瞥し、彼が頷くのを見てから言葉を継いだ。


「スミリヴァル殿の病状が重いことが町に漏れておる」

 粉屋のマルセルを思い出した。


「急な激太りから商工会の会議中に倒れたそうですからね。その後、姿が見えなくなるとやはり……」


「うん。あと、狼がいろいろ動き回っておるだろう?」

「やっぱり。まずかったですかね」


「いや、噂が立ってどうこうという問題ではないのじゃ。ただな。そこに医学が使われることが〈串刺し旅団〉の耳に入るとな」


 バタバタしていてその存在を忘れていた。ライカン・フェニアは赤いツナギのポケットに手を入れる。


「ことは人命じゃ。あの爺さんもうるさくは言ってこんじゃろうが、いい顔はすまい。じゃから昨日、一発で決めるか。いっそ公言してしまうかでな」

「公言。つまり居直るわけですか?」


「うん。カラヤンとメドゥサ殿はそっちを採りたいようじゃ。人命を救う技術があって出し惜しみをするなら、その技術になんの価値がある。

 そんなに技術を出し惜しむなら金で基準を作り、その技術が王族ですら手に届かぬ価値ある物にしてしまえば良いとな。それならあっても誰にも文句は言わないと」


「カラヤンさんらしいですね。でもペルリカ先生はそうは思わないでしょうね」

「ふーん。よくわかったな」

「ええ。なんとなく」


「ペルリカは秘匿し続けるべきだと主張した。金で買えないものは奪えばよい。それが王族に限らず権力に座った人が共通にかかる病だ。それゆえ隠さねばヤツらは奪いに来る、とな。

 するとシャラモン神父まで珍しく反論して、技術を秘匿し続けると秘密主義だと言われて周囲の嫉妬、特に宗教の嫉妬を買う。吾輩が連中の〝魔女〟に堕とされる、とな」


 ぐぬぬ。オーバーテクノロジー論争。絶対答えが出ないヤツだ。


「なるほど。それで、博士は」

「うん。……逃げることにした」

「えっ」


「アスワン帝国におった時と同じじゃ。術後、ここを離れようと思う。お前とロギにだけ今、告げたぞ。後のことは頼むのじゃ」


「博士」

「狼はカラヤンのそばを離れる気はないのじゃろう?」

「それは、そうですが……」


「うむ。狼がつくった醤油や味噌が聞こえてきた頃に、また来るでな」

 ライカン・フェニアはからりと微笑んだ。


 元はといえば、俺がスミリヴァル会頭代行の病状について招集する手紙を書いたから、ここまで大事になったんだ。

 ライカン・フェニアが意図して医学を隠していることに気づかなければよかったのか。手紙なんか書かずに、行商から帰って何も気づかないまま個人的に嗅ぎ回っていればよかったのか。


 彼女を旅立ちを決意させるまでに追い込んだのは──俺だ。


 ライカン・フェニアはおもむろに立ち上がると、俺の頭を撫でてきた。

「おお、もふもふじゃ。手術前に、これに触っておきたくてな……だから、泣くな」


「必ず……醤油と味噌、完成させますから。戻ってきてください」

「うん。楽しみじゃ。手術日はもう少し先じゃ。それまで狼の作った料理を食べておきたいのう」


 俺はうなずいた。


「博士。今日は何が食べたいですか」

「そうじゃな……〝ファミレス〟にあるようなジューシーなチーズハンバーグ」


「あの、博士」

 ロギが言った。なにげに博士呼びは俺のマネか。

「手紙とか、送っていいですか」

「ああ。それはよいアイディアじゃな。スコールかウルダに運んでもらえれば、狼やロギの話も聞けてありがたいのぅ」


 その瞬間、俺はひらめいた。


「……運び屋だっ!?」


   §  §  §


 思えばあっという間の一年だったな。


 カルヴァツは、狼からもらった奇妙な文字──〝お歳暮〟──で書かれたラベルの醸造酒で自分をねぎらっていた。

 この辺りで獣族は珍しかったが、狼男から事業転換を促されたのは驚天動地だった。思えばあれが始まりだった。


 スミリヴァル族長はかねてからレンガ窯の閉鎖を考えていた。ヴェネーシアからの輸入レンガが幅を利かせてもはや採算がとれない、と。実際、期限も切られた。


 この歳ではもう引退かと諦めもしたが、ついてきてくれた手代たちのことを思うと期限までの毎日が胸の塞がる思いだった。


 そこにあの狼が現れて、ガラスを造ると言い出した時には火かき棒で殴りつけてやろうかと思ったものだ。今さらレンガをやめてガラスなどできるはずがないと。


 それからだ。たった半年もない間に状況は一変した。


 セニグラス。ハドリアヌス海と同じ青緑色の彩色のガラス。ガラスは透明を上質品としたが、このグラスは透明で、かつ金属質な青く冴えた光沢を放つ。


 これが流行に敏いヴェネーシアの貴族や大商家に受けつつある。このグラスに白ワインを注ぐとグラスの中にハドリアヌス海が現れるのだという尾ヒレまで付いた。


 仕事が次から次へと舞い込んできた。作ったら作った分だけ高値で売れた。


 商会の新しい番頭からセニガラスで白ワインボトルを作ろうと提案があり、売り出したらこれまた売れた。

 冬に入って町の若者を新たに五人雇って増産したが、春までにさらに五人雇い入れなければ間に合わないだろう。


 そんな中で、年明けにもあの狼が今度は炉を変えると言い出した。

 

 反射炉は元もと鉄鋼製鉄の炉だから、ガラス製造は別の炉にするという。それまで手に入らなかったタンサンウムが手に入るようになったからだと言うが、やはりよくわからない。


 その狼が、冬越しも返上で自身の炭焼き窯で、石炭を焼くという。

 そう言えば、ノエミはちゃんとやっているだろうか。


 母親マルガリータの若い頃にそっくりな気性の激しい娘。窯に穴を開けるほどの親子ゲンカの後は、気弱な亭主も逃げだすほどだ。


 随分思い詰めた顔をして親に憎んだ目を向けていたが、その後、和解はできたんだろうか。


 ──はなせっ。離せ、クソババア!

 ──お黙りッ。今度という今度は許さないからねっ!


 家の外から聞き覚えのある声が近づいてくる。

 やれやれ。どうやら和解どころの話ではないようだ。


 せっかくの蒸留酒を片付けたところで、玄関のドアが勢いよく開いて外から野良猫が放り込まれた。手足が泥だらけで、背中も泥だらけだ。


「カルヴァツ。邪魔するよ」

 従妹いとこマルガリータが押し出しのいい恰幅かっぷくで入ってくるなり、玄関ドアを閉めて鍵も閉めた。


「お、おいっ。マルガリータ、こりゃ何の騒ぎだ」

「騒ぎも何もあったもんじゃないよっ。このバカ娘が昨日、狼に夜討ちをかけたんだ。あんたんとこの工房でねっ!」

「ハアッ!?」

 カルヴァツも他に言葉が見つからなかった。

「狼はオレの工房を建て直した、それこそスミリヴァル族長の恩人だぞ?」


「こっちだってそうさ。ロカに目をかけてくれて、今じゃお嬢さんの商会で出世頭。婚約祝いまでもらっていろいろ世話になってる。あたしだって、昨日までリエカでいい仕事させてもらって、気分よく帰ってきたところさ。

 そしたら帰ってくるなり、このバカ娘がその一番向かっちゃいけないところへ跳ねたんだ。だからヤキ入れようと思ってねっ」


「おい、マリー。だったら外で、自分の家でやれよ」

「悪いね。もう来ちまったんだから、諦めておくれっ」


 気易くあしらわれた時、娘が叫声をあげて母親に掴みかかっていった。


 マルガリータは微動だにしなかった。


 胸倉に手がかかる寸前、右手で娘の横面を張り飛ばした。

 鼻血を吹いて横へぐらりと崩れたノエミの首へ左手からの鋭い喉輪がはいり吊り上げる。と、そのまま床にたたきつけた。男でも顔をしかめるヘビー攻勢だ。


 もちろんノエミの背中は床から離れなくなった。


「ノエミ。あんたの店が狼に因縁アヤつけられたのは、とっくに耳に入ってたんだ。あんたがちょこちょこ仕入れていた土を、狼が大量に納入して押しつけられたんだってね。

 けどね、あたしはそれを聞いて『ああ、お前の器屋としての本気が試されてる。狼はよく見てるもんだ』って感心したもんさ。

 そしたらどうだい。城門の前で狼に蹴り入れて、その仕返しするなんてね。あんたは商売人にも、商売人の女房にも向いてない。あたしがそう言ったの、忘れたとは言わせないよっ」


「うるさいっ! 狼が勝手に断りもなく、わたしの所に土を運ばせてきたんだよっ。切れて当然だろうがあっ!」


 床で手足をジタバタさせるが、母親の押さえつけはビクともしなかった。


「それじゃあ、土を運んできた業者にそのこと、ちゃあんと訊いたのかい」

「訊いたから切れたんだよっ。狼は、あの店はもうすぐ潰すからいいんだってね!」


「はっ。じゃあ、あんた。土が届く前。狼にお前は望みがないって言われたね?」

「ぅ……それはっ」ノエミは顔を横へ背けた。


「で、その後だ。続きを何て言われた。言ってるはずだよ。あの怪人は知恵者だからね。ただ吐き捨てていくだけの野次馬じゃないだろ」


「……お前はもっと、他の窯の温度を知るべきだって。最初、意味分かんなかった」

「莫迦だねえっ。この子はっ。今頃その意味に気づいたのかい!」


 マルガリータが叱り飛ばすと、娘は黙っていた。図星らしい。


「なあ、マリー。どういうことだ」

「狼はね。この子の商売っ気は見限っちまったけど、職人としての手許には期待をかけてたんだよ。だから土を運んだのさ。器屋としてじゃなく、粘土職人としてね。

 でもこの子は、土器の焼き方を、逃げた亭主からなんにも教わってなかったことが負い目だった。もちろん、狼はそんな事情まで知っちゃあいなかったか、途中で知ったのか知らない。

 どっちにしても、この子にヨソで一から修行する時間が必要だと見破ってたのさ。案外、自分の所で焼き方を教える気だったのかもね

 それをこのバカ娘は反省もせず、手前勝手に勘違いしてトサカに来ちまったのさ」


「わかるわけ、ないじゃない、そんなの……っ!」


「普通の人ならそうだろう。けどね、あの人のおかげで立ち直った店を真向かいで見てきたお前が、それを言っちゃあお終いなんだよ。

 あの人は自分のために片棒を一緒に担いでくれた相手を見捨てるような真似はしないんだよ。仮にそうなったとしても、きっと後悔し続ける優しい人だよ。

 窯の焼き方も知らないお前が、窯の焼き方を知ってる狼を見て嫉妬に凝り固まってトチ狂っちまったんだとしたら、非は全部あんたにあったってことさ。

 ノエミ、神現祭(仕事始め)までに店を畳みな。それがお前の、もう一度器屋になるためのケジメだよ」


「み、店はわたしのじゃない。コダルドの──」


「往生際の悪いガキだね。つべこべ能書き垂れるんじゃないよ。あいつなら今ヴェネーシアにいる。そこで陶工で修行してるそうだよ。嫁をほっぽり出して逃げておいて、今さら潰れたからって怨まれる筋合いはないだろう?」


「なんでお母ちゃんが、知ってるのっ!?」ノエミは目を見開いた。


「あたしが勤めてた店の親方バドローネ方々ほうぼう伝手つてを持ってる人で調べてくれたんだよ。大方、器作りは諦めきれてないだろうって思ったら、案の定だったよ」


「お母ちゃん。わたし──」

「だめだ。ヴェネーシア行きは認めないよ。あんたは狼に償いな」


「……っ」


「狼の手代になって、こき使われながらあの人から技術を盗みな。一人前になって初めて逃げた亭主と対等になれるんだ。

 薪割りから教わって、狼の窯で修行して、愛想のいい商売っ気のある手代を雇って立派な器屋になりな。海賊だった頃のお前ときっぱり別れるんだよ」


 母親は娘の手を掴んで、立ち上がらせる。そして、無言で腹にパンチを入れた。

 ノエミは腹を押さえて床にひざまずく。


「まったく。あんまり親に恥じかかすんじゃないよ。バカ娘」

「ぐぅう……く、クソババア……ッ!」


 マルガリータはテーブルにあったグラスの残り酒を呷ると盛大に息を吐いて、カルヴァツ家を出て行った。

 カルヴァツは力なく首を振ると、濡れタオルをとりに台所に向かった。


「まったく。あの母親とこの姉で、どうやってあんな穏やかなロカルダが育ったんだかな」

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