この異世界で狼よ、月と踊れ

玄行正治

第一章 三人の男たち

第1話 炎から異世界へ


 午前四時。同僚はまだ一人も来ていない。


〈文芸局・ライトノベル編集部〉


 コンビニで買った百円コーヒーのカップをデスクにおいて、背嚢リュックからノートパソコンを取り出す。

 起動する間に、コーヒーをひと口ふた口。朝はだいたいブラックだ。


 ミステリー・歴史文芸部からここへ転属して、今日でやっと二年が経った。

 ツカサがいなくなって、この世界は三年経ったことになる。


 白鷹しろたか月冴つかさ


 国内最高峰といわれる京都の大学在学中、歴史ミステリー『不惑のラスプーチン』で第八回柴波しばなみ太郞賞を受賞。


 その後も、古今東西の帝国期にフューチャーした歴史作品を次々と生み出した新進気鋭。


 享年二五歳。若き過ぎる俊才の死だった。

 

『……なあ、タクロウ。ぼく、もうすぐ死ぬんやて』 


 三年前。

 その日も、東京はこんな雨だった。


 京都から電話がかかってきて、俺は頭が真っ白になった。

 原稿からにじみ出る言葉は迫力があるのに、電話越しの言葉は現実感がなかった。


「ちゃんと食わないからだろ。今どこだ。おい、ツカサ?」

『あと三ヶ月なんやて……。さっき医者に言われましてなあ』


 思わずスマホを握る手に必要以上の力がこもる。


「その医者、ヤブだろ。こっち来いよ。抜群にいい医者、捜しとくからさ」

『ふふふっ。一応、推理研究会の先輩やから、信用はできると思うえ』


「今から新幹線とび乗ってそっち行くよ。なんか美味いモノでも食おうぜ。なっ?」

『ええなあ。最後の晩餐……タクロウと初デートした地元の湯豆腐、食べとこかな』


「肉食えよ。肉っ。しょげてる時こそ、肉で元気出さねえと」


『ふふっ。そやなあ。うん。最後に電話したかった相手、タクロウにしたぼくのセンス、まんざらやなかったわ』


「おい、ツカサ」

『ありがとぉ。ほんま、ありがとぉ……家で待ってる』

「家だな。本当にいろよ。な? おいっ。……クソッ!」


 編集長にその場で休暇願を一週間分出し、俺は東京駅からその日の最終に飛び乗って京都に向かった。


  §  §  §

 

 ツカサとは、編集者と作家という仕事で知り合った。

 二〇代も終わろうかという俺に初めてできた、まぎれもない親友だった。


 大卒から二年間の就職。そして転職先での、初担当。選定理由は俺がロシア史に詳しかったからのようだ。

 編集長から命じられたのは〝サンドバッグになれ〟だった。


「編集作業はベテランがやる。お前は、白鷹月冴のご機嫌とりで、八つ当たり先だ。場合によっては、ベッドの中までお付き合いしろ。いいな』


 受賞後の重圧は凄まじく、ツカサは納期の八割を資料集めに費やした。

 資料がまとまると、そこから一気呵成に書いていく。人物、事件、時代考証など、それら一切を頭に叩き込んで、不眠不休でパソコンのキーを叩く。 


 本当に〝書ける〟作家とは、コイツのことを言うんだ。周囲に無理難題を振りまいて八つ当たりなどしている暇などない。


 ただ、ツカサの性癖なのか。週に何度も、深夜に京都から叩き起こされた。


『なあなあ、タクロウ。ちょっと確認したいことありますねんけど?』


 俺は枕元の腕時計で時間を確認した。

 午前三時十五分――。


「三枝さんは?」ツカサの正担当だ。

『着拒されたあ』


「なんでですか?」

『知らーん。でな、タクロウ。ロシアとオスマン帝国の第一次露土戦争で、アレクサンドル・スヴォーロフはポーランド制圧後、トルコ方面に派遣されたやんかぁ』


 日本時間未明に、ロシア近代史の難問クイズとか。そりゃ誰だって逃げるぞ。

 俺じゃなきゃな。


「えっと。一七七三年の四月十七日ですよね。アストラハン歩兵連隊とコサック騎兵連隊の指揮を引き継いでる」


『それそれっ。でなぁ。そん時、スヴォーロフの布陣場所。思い出さへん?』


「確か……サルティコフ中将の第一軍。全軍の右翼だったと思いますけど。その二ヶ月後に、スヴォーロフはドナウ川近郊に築かれたオスマン軍野営地を奇襲。勝利してますから」


『せやったわ。……ふんふん。いやぁ、ありがとぉ。えらい助かったわぁ。でも今度、ぼくに敬語でしゃべったら、クビです』


「は? 理不尽な時間にそんな理不尽かまされても」

『何言うてはるん。僕は起き抜けやもん。タクロウも三時起きの四時出社したらどーですか?』


「嫌やわあ、センセぇ。電車も会社も今時分、寝てますがなぁ?」

 露骨なエセ京都弁で嫌味反撃。顔も怒ってる。


『なんの。社員証が二四時間、カギになっとりますやろ。三枝はんの先輩からフレキシブル制やと聞いてますぅ。しっかりお稼ぎなはれ』


 コイツ。学卒から小説家になったくせに、サラリーマン事情に詳しいな。


「今度そっち言ったら、なんか奢ってくれますか?」

『かましまへんえ。ぼく、タクロウとのデートやったら、湯豆腐食べたい』

 デート言うな。尻がむずがゆい。


「豆腐か。俺は牛肉がいいな」

『あはは。何言うてんの。豆腐も、畑の肉やんか。ほなほな~』


 新進気鋭の大型新人・白鷹月冴は二〇歳をちょっと出たばかりの男だが、どこか〝かわいい天才〟だった。


 その後も、ツカサの深夜の抜き打ち質問攻撃は続き、正担当は胃に穴が開いて降板。そこから俺が丸三年。正味二年を担当することになる。


 そして、この年の『東欧不敗』が、歴史文芸の巨星〝芳川英治賞〟を最年少受賞。ツカサは二本目で時の人となり、編集部では俺の手柄になった。


 そんなツカサを死神が襲ったのは、そこからわずか半年後だった。


 死因は、衰弱死。事実上の原因不明だった。


 ツカサを診断した医師は、西日本の心臓外科学会でも屈指の慧眼けいがん医だった。


「こんな症例は、私も初めてでした。進行が速すぎてメスを握る暇すら与えてもらえませんでした……。ミステリ作家になるんが夢や言うて、有言実行した可愛い後輩やったんです。それだけに自分の力不足が悔しくてなりません。……はがねさんも、どうか、お気を落としなく」


   §  §  §


 現在。

 今年は七月十八日の三回忌にあわせて、ツカサが夏の東京に来てうまいと言った〈とらや〉の水饅頭をお供えしてきた。

 甘い物も辛い物もいけるが、甘い物を出すと無邪気に喜ぶやつだから。


 俺──はがね拓狼たくろうも、今年で二九歳になった。

 いいオッサンになり、ミス歴からライトノベルに部署を移した。


 ツカサを置き去りにした。あるいは、アイツに俺が置き去りにされた。そんな虚脱感で途方に暮れるポンコツを見かねた編集長の判断だった。


 ラノベ作品はどれもこれも似たり寄ったりの内容。ダイヤの原石どころか砂金探しの毎日。ダイヤの輝きがいまだまぶたに焼き付けてるせいか、会議で新人担当はまず回ってこない。


「……うん?」

 ふと、俺は我に返って、明かりの付いていない自分のデスクから出入り口を見た。

 ガラスドアに、人影が立っていた。

 時計は、五時半を回った。白いフルフェイスのヘルメット。肩からクーラーボックスを提げていた。

 なぜかこの時、うなじの毛が逆立った。


(こんな時間に、バイク便か?)


 早朝便というのは、たまにある。締切日ギリギリに作家さんから送りつけてくる。でもそういった連絡も受けていない。今日はまだ俺以外の編集員もいない。


 それにヘルメットの男――体型から女性に見えなかった――は、キョロキョロとガラスドア越しから中を覗く。


 不審すぎる。冗談じゃないぞ。今、ここには俺しかいないんだ。

 やがて自動ドアが開き、ヘルメットの男が入ってきた。


 俺はとっさにデスクに伏せ、山積みになった原稿の影に隠れた。

 あいつ、なんでキーロック外して入ってこれんだよ。

 あのだらしない腹……。

 もしかしてラッキーマン八木か。アイツの悪ふざけか。


 俺はデスクに伏せたまま滑るように机下にもぐった。うちの編集部は昨今の個人主義ではなく、昔ながらの職員室配置なのでパーティションで区切られていない。

 机下はちょうどトンネルのようになっている。むかいは向井さんのデスク。私物のヨガマットさえどければ、あとはイスを押しのけるタイミングだけだ。


 そこで、スマホが震えた。


( 八木 幸男 )


 俺はとっさに着信拒否して、音声を消し、LINTに打ち込む。


〝ヤギ。返事しろ〟


 返信はすぐきた。


〝オオカミ? 会社?〟

〝会社。忙しい。どした〟

〝今、救急車の中。殴られた。タグ。パクったヤツがそっち行ったかも〟


 あの野郎。社員を襲ってまで、ここのカードキーを手に入れたのか。


〝もう来てる。マジHELP!〟

〝わかった。連絡しといてもらうから。とにかく逃げろ〟

〝生きて還ったら、おま垢ブロックの刑だ〟


 LINTを閉じると、今度は音量をめいっぱいに上げて、目覚ましタイマーを一分後にセット。


 待ち受け画面に戻って、俺と笑顔で肩を組む親友のVサインに思わず涙ぐむ。


(……ツカサ。怖ぇよ。助けてくれよ。死にたくねぇよぉ)


 念を込めて、スマホを絨毯に滑らせた。薄い電子板は、八メートル先の編集長席の手前まで達した。その直後だった。   


「オレの、オレの小説を盗みやがってぇえええ!」


 早朝の闖入者が、ヘルメット越しに叫んだ。世迷い言にしては、ひどく鮮明に聞こえてしまったのが、俺にとっての不幸だったかもしれない。


 なんて陳腐な言葉だ。テロのマネごとなら、よそでやれ。

 あとな。盗まれて困る〝未発表〟小説なんて、この世のどこにもねーんだよ。

 本物は、「盗んで困るモノ」を書き上げてくるからだ。


 と。目の前の絨毯にビール瓶が転がってきた。飲み口に火がついていた。

 か、火炎瓶? ……灯油か、ガソリンかっ!? 


『タクロウ。タクロウ! ぼくらで芳川英治賞とったよお! ばんさーい!』


 ツカサの無邪気な声に、怒りと恐怖が少し薄れた。音源はあれしかない。身を切る痛みに唇を噛みしめる。

「誰だ! 誰かいんのか! でで来い、この野郎っ!」

 ヘルメット男が喚きながら、どかどかと通路を歩いて遠ざかる。


 ここしかない。意を決し、向井さんのヨガマットを掴んでイスをそっと押し出す。


 ヨガマットを頭からかぶり背面を庇いつつ、低姿勢で走る。はたから見ればさぞ滑稽な姿だろうが、なりふり構っていられない。


 玄関の前。屈めていた身体を立ち上げて、自動ドアを開かせる。

 ここで放火犯に見つかったとしても、逃げ切れる。そう確信していた。


 ガラスドアが開いてすぐ、その希望はガソリンのニオイに砕かれた。

「あいつ……ここまでするかっ!?」

 白い廊下にオレンジ色の液体がぶちまけられていた。

 もはや嫌がらせのレベルではない。どうして、ここまでする。


 さっきヤツが盗作されたと叫んだのが、虚言に思えてきた。ラノベ編集部に入ってみたくて、舞台の上にあがった素人役者がノリで叫んだアドリブなのかもしれない。

 理解が追いつかず、とっさの現実逃避。ただただショックで後退りそうになる。


「見ーつけたぁ!」


 背後からのくぐもった歓声に、脊髄が凍りつきそうになる。

 迷ってる暇はない。逃げろ。止まるな。駆け抜けろ。


 エレベーターは正面。ゴンドラの係留ランプがまだこの階に灯っている。

 恐怖で心臓が破裂しそうだった。俺は扉を目指して床を蹴った。


 ガチャン! 


 ひと呼吸遅れて甲高い破壊音がした。自動ドアに火炎瓶が当たったのだろう。

 大丈夫だ。自動ドアが放火魔から、俺を守ってくれた。


 こんな時に一つの可能性に思い至り、脱出目前で恐怖に足首を掴まれた。


 もし、今の破壊音が、自動ドアの感知センサーに瓶で開閉させるためのものだとしたら――、


(次が、来るっ!?)

 せつな、後頭部に鈍い痛みが走った。


「がっ!?」

 痛ってぇ。走っている途中で腕が下がり、ヨガマットが頭を庇ってなかった。


「だ、だめだ。と、止まるな。止まっちゃダメだ……」


 逃げろ。逃げるんだ。爆発するぞ。走れっ、走れ……は、走、ってく、れ……っ!


 ああっ。あああああっ、熱い。全身が熱い。痛い。死ぬのか。


 急速に視界が赤く揺らぐ。さっきまで死にもの狂いに回っていた膝が力なく崩れる。

 エレベーターの扉が、やけに遠くに感じた。頭が熱い。背中が熱い。全身が熱い。


 化学的なニオイに混じって、ひどく嫌な、俺というタンパク質が焦げていくにおいを嗅いだ。

 見ず知らずの誰かの逆ギレで、こんなわけのわからない、ことで……。


「つか、さ……」


 §  §  §


 エレベーターはずっと、六階に留まり続けていた。

 その鉄扉が突然、左右に開いた。


 中からフードをかぶった〝人〟が一歩、前に進み出るなり、気づく。

 上半身を炎に包まれて倒れる男に。


「……つか……さ」


 死の間際なのか、炎の中、くらく虚ろな眼で誰かを探している。


『ひと足遅かったようだが、まだ死んではおらぬな……まだ使えそうか』


〝人〟は、男の首を炎ごと掴み、エレベーター内に引きずりこんだ。

 フードの下から覗きこむその瞳は、金色に光っていた。


 エレベーターが閉まるや、狭い空間いっぱいに黒紫色の魔法陣が浮かびあがる。


「悪く思うな。この世界のタクロウ・ハガネよ」


 やや遅れて、扉の向こうで爆音が炸裂した。

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