第10話 待ちぼうけの人々
時間は少し戻る。ヤドカリニヤ家・大広間。
「カラヤンが逃げ出したあっ!?」
花嫁の父がすっとん狂な声を上げて、会場は水を打ったように静まり返った。
「今、うちの子と狼さんが追っています。そう遠くまで逃げませんよ」
シャラモン神父が明鏡止水の表情で宥める。
「しかしっ……神父様っ」
「ご当主。今回の狼さんの
「も、もちろんですっ」
スミリヴァル族長は何度も頷くと、来賓最前列に向き直って最敬礼する。
「マンガリッツァさま。バルナローカさま。申し訳ありません、今しばらくのお時間をいただきたく」
準男爵と呼ばれる地方豪族とはいえ、大商家に頭を下げる。これが現実だ。
ともあれ、モデラートが新婦の披露ドレスを調整している間に、新郎カラヤンはまんまと逃げ出したらしい。
新婦の父の平身低頭も、初の新郎となった母は穏やかに微笑んで、寛容に応じていた。
「わたくしはかまいませんよ。うちの子をみんなで
「そうさなあ。ほれ、リゲティの葬式ん時もそうだったじゃねえか、〝首に縄をつけてでも〟って帝国騎士団に頼んだら、姫騎士のジナイダ様
ゲルグー・バルナローカがしみじみと言った。
「そうだったわね。あと、長女メトロノーラの結婚式もそうだったわ。散ざん探し回って賞金までつけて、町を挙げての
あったな。そういうことが。モデラートも密かに苦笑した。
結局、兄の背中に六時間もしがみついていた三歳のヴィヴァーチェが勲一等だった。あの事件があってか姉夫婦は今も
とにかく父リゲティ亡き後は、長男が式典の主席に着かないことには格好がつかないことばかりが起きた。よくそれで格式と先例だらけの帝国騎士にまで登り詰めたものだと驚かされる。
この場は、最前列の主賓二人がどっしりとしているせいか、周りの動揺が最小限に留まっている。不幸中の幸いでもないが、花嫁にはどう説明したものか。
「モデラート、花嫁の様子はどうかしら?」
母の気遣いに、うなずく。
「例の石けんを使って湯浴みを済ませ、化粧と髪結いに入っています。とりあえず、花婿は逃亡の常習犯だと伝えて、心おおらかに支度を調えてもらおうかと」
「うーん、あまり安心できない材料だけど、彼女もあの子の性格はそれなりに熟知しているみたいだし、それで──」
そこまで母が言った時だった。モデラートのうなじの毛が逆立った。
「レントっ!」
鋭く叫ぶと、半瞬後には母の周りに薄い青色のドームができあがった。
「くっ、魔法障壁ッ!?」
悔しそうに叫んで立ち上がったのは、母のとなりに座っていたパオラ・タマチッチ夫人だった。
この時、モデラートの〝右眼〟は見逃さなかった。
シャラモン神父が法衣の
直後、パオラ夫人がいる床から黄色の
逃がさん。モデラートは七男ヴィヴァーチェを呼ぼうと胸を張った時、出たはずの窓からパオラ夫人が吹き飛ばされて戻ってきた。
夫人は壁に縫い付けられて後頭部を打ったらしい。縫い付けたのは見覚えのある鎌槍だった。
「すまねぇ。どうやら、ひと足遅かったみてぇだな」
窓からライオン髪がのっそりと入ってくる。三男アンダンテだ。
「ダンテ。兄貴は?」
「まだこの先の丘の上だ。ちょいと面倒なことになっててなあ。おらぁ狼に叱られて、すごすごと追い返されちまったのさ」
「追い返された?」
兄弟きっての頑固者が、あの狼頭の舌鋒に抗しきれなかった。
やはり、あの怪人は誰でも口車に乗せるのがうまいようだ。
モデラートはパオラ夫人の腹を蹴った。革靴で。
夫人が短く呻き、口からぽろりと白い歯がこぼれ落ちた。
(やはり、子供か。……さて、どうしてくれよう)
「貴様ぁッ! わが妻になんということをするんだ!」
タマチッチ長官が烈火のごとく激怒して立ち上がる。
モデラートは腕を伸ばして接近を制す。もう一方の手でハンカチを使い、歯を拾い上げた。
鼻先を近づけると、かすかに木の実臭がする。
「スミリヴァル族長。申し訳ありませんが、使用人をつかって屋敷内の捜索を。普段、使用人もあまり足を向けない部屋、倉庫を重点的に探してみてください。それから、念のため花嫁のそばにもウスコクから警備を二人つけてください。このパオラ・タマチッチは贋物です」
「に、贋物だってっ?」
「母を狙った暗殺者です。どうやって今日の会合を知ったのか詮議する必要があります。ですから、スミリヴァル族長」
「しょ、承知した」
ウスコク当主は、廊下に飛び出していった。その間に、モデラートは贋パオラ夫人の両手首を絹のリボンで拘束した。
「タマチッチ長官。こちらに」
促すと、タマチッチ長官は怒面をぶらさげ、掴みかからんばかりに大股でやってくる。
「奥方に間違いありませんか?」
「無論だっ。いいからその拘束を外したまえ。マンガリッツァ・ファミリーといえども、訴訟も辞さんぞっ」
「それならば、これでどうでしょうか」
モデラートは、おもむろに夫人のドレスの襟をめくった。ドレスの下に薄い
「むっ、ばかな……妻は根っからの商家の娘だぞっ?」
困惑する夫の前で、さらにモデラートは夫人の髪をむんずと掴む。ぐりぐりと左右に動かした。やがてずるりと髪が崩れて、下から灰色の短髪が現れた。風貌がまだ十歳を出たばかりの少女に変わった。
「は、灰色髪──。この者は〝カルパチア巡礼団〟なのか!?」
定住する地を持たず、諸国の霊場や聖地を巡礼しながら暗殺術を磨いてきた東方世界屈指の暗殺組織を〝カルパチア巡礼団〟という。
だが、モデラートは顔を振った。
「ウチとあそことは先代から不可侵協定を結んでいます。それに、彼らは暗殺仕事に子供や毒を用いません。彼らに見せかけた何者かの仕業でしょう」
「モデ~ぇ」レントが疲れた声を洩らす。「お母はんの防御魔法、もうええんと違うかあ?」
「あと三〇分」
「うひ~っ。痩せるわあ」軽口を叩いて、レントは額の汗を拭う。
「モデラート」
アンダンテが横で鎌槍を掴んで仁王だつ。
「これはおれの落ち度だ。その上で頼みてぇ。兄貴の所へまた行かせちゃあくれねぇか」
「だから、アレグレットに何があった?」
「それが、わからねえ。マズい情況だってのは、狼頭の様子からわかったんだが」
モデラートは眉間にしわを寄せた。さっきから話が煮え切らない。コイツらしくない。かなり動転しているのか。長兄の逃亡先で何が起きてる。
「順番に話すか。結論から話せ。生きているのか、死んだのか。一体何があった。わかるようにマムの前で説明するんだ」
それに対して、巨漢の弟は首を振った。
「時間をくれ。おれだって兄貴に何があったのか心から知りてぇのさ。だから頼む」
「モデラート」母が呼ぶ。「行かせておやりなさい。ただ、警備の油断の罰は受けてもらうわよ」
母の鶴の一声だ。息子たちにその決定を覆すことは至難だ。
「ありがてぇ! おふくろ、今日は本当にすまねえ!」
アンダンテが
「エディナ」ふとバルナローカ翁が口を
「あら、そうなの? ──モデラート。用意してあげて」
「
まったく。母と小父殿の兄への信頼は小揺るぎもしないか。誰でもいいからこの情況を教えてくれ。モデラートは兄の部屋に向かった。
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