8月25日 西山琉はひた隠す


──あれは、何が割れた音だったのかは分からない。


──もう、何年も前の話だ。


『あんたねえ──あたしが一人で……どんな思いしてたと思ってるのよ……っ!この……っ』


『うるせえよ!ちょっと外出たくらいで──てめえで稼いだ金、好きに使って何が悪いんだ……お前なんか一日、具合悪いとか適当こいて、家でゴロゴロしてるだけじゃねえか──』


『あたしだって──』


──ぴしゃり。


襖をぴたりと閉ざし、居間と自分達を隔てる。これだけで、壁の向こうの両親たちの「戦争」が少し遠くなった。


俺は息を吐きながら、敵の基地を偵察に行って帰ってきた兵士のような、どこかやり切ったような思いで、とりあえずの俺達の「基地」──自分の部屋の押し入れの中へと戻る。


「……っ、う、ひっく……」


押し入れの中では、弟──しんが毛布を被って丸まっていた。俺が入って来ても、慎は布団から出てこようとはしなかった。


「まだやってたな……もうちょっとここにいよう、慎」


「……っ、うぅ」


くちゃくちゃに丸まった布団の塊から、鼻を啜る音がする。声を上げて泣いていたさっきよりは、いくらか落ち着いたようだが、兄に泣いている顔を見られたくないプライドなのか、それとも、僅かにでも両親の喧嘩を聞きたくないのか、さなぎのように、慎は身を固くして、じっと動かなかった。


俺はそんな、さなぎになった弟の横で、膝を抱えて座っていた。


──なんで、こうなったんだろうな……。


きっかけは、たしか──晩飯も風呂も済ませて、居間で母親と慎と俺でテレビを見ていた時だ。赤い顔をした父親がいきなり帰って来て、「晩飯は」と言ったのだ。母親が「ないわよ」と言ったら、父親が「ふざけるな」と怒鳴り出したのだ。「今日は飲みに行く。帰ってきたら飯を食うって言っただろ」と。それに対して母親が「臨月の嫁を置いて遊び歩いてるような男に出す飯なんかないわよ」と言った。


あとは、もうがらがらと、それまで、ぎりぎりで保っていた柱が崩れていって、居間はあっというまに戦場になった。


俺は、わあわあ泣く慎を連れて、自分の部屋に引っ込んだ。そして、この押し入れを「基地」として、ささやかな抵抗をした。


「西山家」の最後の柱として、倒れないように。


──俺が倒れたら終わりだ。倒れない。俺は倒れてなんかやらない。


「りゅう兄……」


「ん?」


その時、かたつむりのように、布団から顔を出した慎が、俺の服の裾を引っ張った。慎はまだ赤い目で、俺を見つめて言った。


「こわいよ」


「……そうだな」


「まだやってるの?」


「やってる。今日はここで寝ちまった方がいいかもな」


「うん……」


慎は俺に縋りつき、肩口に顔を埋めてきた。

でも実際は逆だ。俺の方が慎の存在に縋っていたかもしれない。


──こうやって、縋られて、支えられてないと、本当は今にも倒れそうだったから。


思えばこの時──俺は、自分の身体から心を逃がして、そのままどこかへ隠す癖がついちまったたのかもしれない。





──なんてことを、ふいに思い出していた。


「おう、じゃあ行ってくるから。家のこと頼んだ」


「……ああ、行ってらっしゃい」


朝早くから、作業着に着替えて出て行った父親の背中にそう返しながら、俺はもうずっと前の──今じゃ、家の誰も話題にしない古い事件のことを考えていた。


予定日直前の母親を置いて、付き合いとはいえ、キャバだかパブだかに遊びに行っていた父親も、今じゃ、真面目な仕事人間だ。

八年前に一番下の妹──ひなが生まれてからは、「家族サービス」にも熱心になった。休みの日には動物園とか遊園地とかにも連れて行ってくれたし、昔ほど遊び歩くこともなくなった。


──それで、忘れられるようなことでもないけどな。


母親や、今年高校一年生になった慎が、「あのこと」をどう思ってるのかは聞いたことがない。


あの後、結局──朝起きたら、夢だったみたいに、父親も母親も、もう普通にしてたし、あんな大喧嘩もそれきりだった。

だから余計に分からなくなる。あれをどう処理すりゃいいのか──父親にどんな感情を向ければいいのか。


──家族やってれば、たまには、ああいうことくらいあるだろって。それで済ませりゃいいんだろうけどな……。


玄関の引き戸が閉まった後も、俺はしばらく、さっきまでそこにあった父親の残像を見つめて、立っていた。



「ねえ、慎にい。また、あいちゃん描いて。お目目がきらきらなの」


「え?好きだな……本当。俺のなんか別に対して上手くないのに」


居間に戻ると、ソファに寝転んでスマホを弄っていた慎を、雛が叩き起こしていた。

最近、学校で流行ってるらしいアニメのキャラを描くようにねだってるんだろう。ぶつぶつ言ってるが、なんだかんだそれに付き合ってやる慎は、すっかり「兄貴」の顔になっちまった。記憶の中にある、俺にしがみついていた頃の慎の姿は、もう遠い。


「雛。あんまり慎を困らせるなよ。慎はまだ、課題終わってないだろ」


後ろから声を掛けられて、振り向いた雛は、俺と慎を代わる代わる見ながら「そうなの?」と首を傾げている。

それに対して、慎はソファからおもむろに起き上がりながら、言った。


「いいよ。課題は午後、陽希はるきとやるから……どれ、なんか紙持ってこいよ。雛」


「うん!」


ソファから降りて、テーブルの前に座った慎に、目をキラキラさせて頷くと、雛は駆け足で居間を出て行った。たぶん、自分の部屋から自由帳でも持ってくるつもりだな。そんな雛を見送ると、俺は慎を見下ろして言った。


「午後って、陽希と約束あんのか?」


「ああ、うん。言ってなかったっけ?課題まだ終わってないから見せてって、昨日泣きつかれたって」


「高校生になったってのに、相変わらずだな……」


慎から聞く陽希──慎の中学生の頃からの友達だ──に呆れつつも、こいつらの友情がまだ続いてるらしいことに、俺は少しほっとする。

慎は社交的なタイプじゃないし、どちらかといえば、一人を好む方だ。それでも、慎に、ちゃんと気心の知れた友人がいるというのは、兄としても、ありがたい。


そんな、俺からの生温かい視線に、何かを感じたのか、慎は眉を寄せて言った。


「……言っとくけど、俺と陽希はそういうんじゃないから。兄貴のクラスの『アレ』と一緒にすんなよ」


「おい、兄貴の友人に『アレ』はねえだろ」


「いやだって……最早異次元でしょ、あの人達……幼馴染だからって普通あんなベタベタしないから」


「……そこは否定しねえ」


返す言葉もなかった。ていうか、一年にまで広まってるんだな……あいつら。

改めて、自分の友人達の「すごさ」を思い知りつつ──そんな話をしてるうちに、自由帳と色鉛筆を抱えた雛が戻ってきた。


それを見た慎が、ため息交じりに訊く。


「色付きで描けってこと?」


「うん!あのね、金の色鉛筆があるから、それでお目目きらきらって描いてほしいの」


「あー、はいはい……じゃあ、貸して。えっと、画像は……」


「……頑張れよ」


俺が手を挙げると、慎はテーブルに置いたスマホを弄りつつ、片手を挙げて俺に返した。


──俺はどうするかな……。


部屋に戻りつつ、ぼんやりとこの後のことを考える。


母親は、こう──三番目の弟だ。今年で小学五年生になった──を、朝早くから少年野球の練習に連れて行ったし、帰ってくるのはたぶん、昼過ぎだ。そこまでに、適当な昼飯を作るとして──それにしてもまだ、時間がある。


受験生らしく、勉強か?だが、どうにもそんな気分にならない。俺も、昂の練習を見に行くか?いや、外はクソ暑いしな。

さて──と、考えた、その時だった。


「ん、誰だ……?」


ズボンのポケットに入れていたスマホが震える。取り出して見れば、着信だ。相手は──。


「……おう、立花。久しぶりだな。どうした?」


『あ、西山?ごめんね。急に電話しちゃって』


「それはいいが……何かあったか?」


『えっと……その』


電話口の向こうで、立花が躊躇うのを感じる。俺はそれで大体の状況を察し、立花に言った。


「なんだ……瀬良のことか?」


『う、うん……』


おずおずとそう言った立花に、俺は笑った。もう、いつものことだ。


「いいぞ。ちょうど暇してたんだ。何でも言えよ、瀬良への愚痴でも悪口でも何でも」


『愚痴って。そんなんじゃないよ……』


「じゃあ惚気か?」


『もう、違うよ……その、ちょっと相談というか。なんというか』


「おう、何だ?」


スマホを耳に当てつつ、俺は襖を開け、自分の部屋に入ると、仰向けにベッドに転がった。枕元に転がしていたエアコンのリモコンに、片手で手を伸ばし、スイッチを入れる。


その間に、立花は言う決心がついたのか、俺に「あのね」と話しだした。


『康太が……何か悩んでるみたいで。時々なんだけど……ちょっと難しい顔してるの。それで、どうしたのって訊いても、いや、とか適当に誤魔化すだけで、俺は何も分からなくて……ちょっと心配だなあって』


「ふーん……そうか。立花は何か、心当たりとかはあったりすんのか?」


『ううん。特に……あ、もうすぐ就職の面接が控えてるからかな……?いや、でも、ちょっとそういう感じじゃない気がするし……』


付き合いの長い立花でも分からないくらいだから、これは本当にお手上げ──困ってるんだろうな、と俺は悟る。

それでも、せめてうんうん唸る立花の力になってやりたい、と俺はさらに訊いてみる。


「難しい顔って、瀬良はどんな風に悩んでそうなんだ?」


『えーっと』と、立花が思い出そうとしているのが伝わってくる。ややあってから、立花は言った。


『……何か時々、俺に視線を感じるというか。俺を見ながら、悩んでる……ような。意識し過ぎかもしれないけど』


──惚気か。


俺は心の中でツッコんだ。ここまでくると、こいつらの関係は、いっそ清々しいな……。

とは言え、当の立花は真剣に悩んでるのも分かるので、あくまでも、俺はうんうん、と聞いて答える。


「そりゃ、悩んでるのは立花のことでだろうな。そもそも、瀬良が真剣に悩むようなことなんて、立花のことしかねーよ」


『そんなことはないと思うけど……』


何故か自信なさげな立花の背中を押すように、俺はさらに言った。


「あるだろ。いいか、あいつはな……立花が思ってるよりもずっと、立花のことしか考えてねーよ。一年の時からずっとそうだ。クラスでもどこでも、口を開けば『瞬』だ」


『えー……?』


半信半疑といった立花に、俺は「マジだ」と強く押す。まあ……今言ったことは、立花も大概そうなんだけどな、とは言わずにおく。

こいつらは本当……本当、って感じだ。


それでも、ひとまずは「瀬良の悩みは自分に関係ある」のだと思った立花は、ぽつりと俺に零した。


『俺と付き合ってくことで、何か不安なこととかがあるのかな……』


「立花と付き合うことに?どんな不安があるんだよ」


『それはまあ、色々と……』


「色々……」


俺は想像してみた。立花みたいな真面目で、優しくて、健気で、庇護欲を掻き立てられるような……それでいて、本当は誰よりも芯が強い男──そんな奴と付き合って、どんな不安があるのか。


「ねえだろ……」


『西山?』


「いや……悪い、何でもない。どうだろうな……そもそも、瀬良って、何か不安になったりとかするタイプか、と思って」


咄嗟に何かを誤魔化しつつ、そう言うと、立花は『うーん……そうだね』と続けた。


『でも、康太ってあれで、結構考えすぎちゃうところがあるから。だから、ちょっと心配で』


「自分のそれに気付いてくれる奴がそばにいてくれるだけで、十分だろ」


──本当に。


俺がそう言うと、立花は『そうかな』と笑った。


『ごめん……ちょっと喋りすぎちゃったかも。いきなりかけちゃったのに、聞いてくれてありがとう。……ちょっとだけ、楽になれたかも』


「いいって、もう、いつものことだ。俺は暇だったし──」


なんて言いながら、俺はふと思い出す。そういや、もうすぐ──。


「立花って……誕生日この辺じゃなかったか?」


『え?あー……そういえば、そうかも?』


「かも、って……忘れてたのか?」


俺がそう言うと、立花はばつが悪そうに言った。


『そういうわけじゃないけど……』


「けど、なんだ?ああ、そうか。どうせ、明日の花火大会デートで頭がいっぱいなんだろ」


『で、デートって。そんなんじゃないよ。明日は、ちょっと屋上で一緒に見るくらいで……』


そういうわけじゃないか、そんなんじゃないとか。


俺から言えば、「じゃない」なんて、わざわざ言葉を尽くして言うことでもないだろ、とつい思う。

どうせ、同じなんだから──。


『西山?』


「ん、ああ……いや。何でもない。まあ、楽しんで来いよ。誕生日もな。瀬良に、目一杯祝ってもらえ」


『う、うん……』


言いながら、もしかしたら、瀬良が悩んでんのは、もしかして「それ」かもなと思い当たった。

だが、敢えて立花には言わなかった。ここまで、隠してる瀬良の気持ちを汲んでのことだ。あいつには、新学期になったら何かしら請求してやろうと思った──そのくらい、いいだろ。


『じゃあ、ごめんね。本当にありがとう。また新学期にね』


「おう、こっちこそ。じゃあな。学校で会ったら、惚気話待ってるから」


冗談めかしてそう言うと、立花は『もう』ときっと、頬を膨らませてそうな声で言ってから、『またね』と通話を切った。

俺は、通話の切れたスマホをベッドに放る。


「仕方ねえ奴らだ……」


頭の後ろで手を組んで、足を投げ出して寝転ぶ。天井を見上げながら、俺はふっと息を吐いた。


──新学期に、か。


この辺だってことくらいしか覚えてねえのか、それとも意識的にどこかに放っちまったのか──今年も知らないうちに、立花の誕生日は過ぎて、俺は一つ大人になってきた立花に、学校で会うのだ。


俺は敢えて、自分にそう言い聞かせてみたが、何もかも、今更だと返ってくるだけだった。


──気付いた瞬間、逃がそうと、どこかに埋めて隠したものは、そのうち隠し場所さえ忘れて、二度と戻ってこないのだから。


俺はそれを、よく知っている。

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