7月3日

【条件】


1.毎日0:00〜23:59の間に、瀬良康太に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、瀬良康太が「自分に対して言われた」と認識すること。


2.1の条件を与えられたことは決して、瀬良康太に悟られないこと。


3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。





「……ふわぁ」


朝、六時。


周りに誰もいないのをいいことに、つい、大口を開けて欠伸をしてしまう。慌てて、手のひらで口を隠して、ごみ出しのために、マンションの外の集積所へと階段を降りていく。エントランスを抜けて、マンションの裏手に出ると、駐車場のあたりで、知っている後ろ姿を見かけた。


──あれって……。


「先生」


小走りで近づいて、後ろから声をかける。くるりと振り返った先生──みなと先生は、俺に気が付くと、ぱっと笑顔になった。


「瞬ちゃん、おはよう」


「おはようございます。これから、お仕事ですか?」


「うん。そうだよ」


半袖のシャツを爽やかに着こなした先生は、通勤用っぽいリュックを背負っている。訊けば、先生は今、ここから車で二十分くらいのところにある小学校に勤めているらしい。それにしても、こんなに朝早く家を出て行くなんて、先生って大変なんだなあ……。


そんなことを言ったら、みなと先生は、はは、と軽く笑って言った。


「俺は要領が良くないし、何をするにも人より時間がかかるんだ。だから、このくらいには出ないと」


「そうなんですか?」


とてもそうは思えない。俺にとって、先生は、何でもできて、何でも知ってて……とにかく、スーパーヒーローみたいな人だったから。信じられない、という顔をする俺に、みなと先生は「それに」と言った。


「子どもたちを迎える前の学校の空気って、結構好きなんだ。さあ、やるぞ……って、誰もいない教室の窓から、外に向かって、気合いを入れるんだよ」


「俺が……小学生の時もそうしてたんですか?」


「はは……いや、あの時は、そこまでの余裕はなかったよ。そんな風に思えるようになったの……本当に、最近のことだから。あの時のことは思い出すと……色々と恥ずかしいというか……」


頭を掻きながらそんなことを言う先生に、俺は大袈裟なくらい、頭をぶんぶん振ってから言った。


「そんなことないです。俺、先生のこと、すっごく格好いい先生だって、一番の先生だって思ってましたから!」


ちゅん、ちゅん……とどこかで小鳥が鳴いた。静かな駐車場に俺の声が響いて、時間差でじわじわと……今度は俺の方が恥ずかしくなる。すると、目を丸くしていたみなと先生が、ふっと表情を緩めて言った。


「……ありがとう」


昔と変わらない、温かくて大きな手で頭をぽん、と撫でられて──その瞬間だけ、俺はまた先生の「生徒」になれたような気がして、胸がぽかぽかと温かくなった。


ふと、先生は腕時計を見て言った。


「ああ、いけない。もう行かないと……」


「あ、ごめんなさい。引き留めたりしちゃって……」


「ううん。瞬ちゃんとお話ができて、朝から楽しかったよ。それじゃあ、またね」


「はい、先生」


手を挙げて、車の方へと駆けて行く先生に、俺は力いっぱい手を振った。昔、学校を出る時に、先生にそうしていたみたいに。


「へへ……」


朝から先生に会えて、ラッキーだなあ……なんて、そんなことを思いながら、集積所を後にしようとした時だった──。


「うわー!?」


「先生!?」


突然、聞こえてきた先生の声に振り返ると、ドアが半分開いた車の前で、先生が肩を落として、がっくりと項垂れていた。


──頭にカラスの糞を載せて。


「先生!」


思わず、先生に駆け寄ろうとすると、先生は「大丈夫だから」と手で俺を制す。


「シャワーを浴びてから行くから大丈夫だよ。少し、早めに出ようとしてたしね。俺はこういうのには慣れてるんだ」


カラスの糞を載せていても爽やかな先生は、朝日を受けて、どこか切なくも眩しかった。


──慣れてる?


先生のその言葉に首を傾げながら、来た道を戻っていく先生の寂しげな後ろ姿を、俺はしばらく見つめていた。





「──っていうことがあってね。みなと先生、あれから大丈夫だったかなあ……」


「どうだろうな……」


康太と並んで階段を降りながら、早速、さっきの出来事を話してみる。

今は、七時半過ぎ──あれから一時間くらい経ったし、みなと先生はたぶん、もうここを出ただろう。

……出れていればいいけど。


康太が呆れ交じりに言った。


「カラスの糞なんか、頭に浴びる奴、本当にいるんだな……」


「う、うん……俺もそれは初めて見たけど……でも、先生……こういうのは慣れてるんだって言ってたよ」


「慣れてるってどういうことだよ」


「さあ……?あ、でも、先生すごいんだよ。そんな状況なのに、俺に『大丈夫だよ』って笑って言ってくれて。ちっとも、へこたれてなかった。本当、すごい人だよね」


「ふうん……」


そう言って、小さく頷く康太からまた、刺々しい雰囲気を感じる。だけど、それはほんの一瞬のことで、康太はすぐに、俺の顔を見て言った。


「まあ、カラスの糞くらい、そもそも俺だったら避けてるけどな」


「え?でも……いきなり上から落とされたら難しくない?」


「そこは『気』だ。『気』でなんとかする」


「『気』って何」


俺が訊くと、康太は「知らん」と言って、そっぽを向いてしまった。

何で急にムキになってるんだろう?よく分からないけど……俺はしばらく、康太を放っておいた。



マンションを出て、いつもの通学路に出ると、ふと──通りがかった公園のフェンスに貼りつけられたポスターが目に留まる。



『夏祭り 7月15日(土)・7月16日(日)開催』



立派な御神輿に、出店で賑わう大通り。ポスターを見ていると、お祭りの懐かしい情景と共に、頭から離れない「地元オリジナルのサンバ」の音楽が流れてくる。


「お祭り……もう、そんな時期なんだね」


「ん……ああ、そうだな」


俺の声で、ポスターに気付いた康太も、ようやくこっちを見る。そんな康太に、俺は少しほっとしつつ……ポスターを指さして言った。


「ね、懐かしいよね。中学生の頃、初めて二人だけで一緒に行ったの、覚えてる?」


「ああ、そうだったな……すげえ人がいっぱいいて、瞬は小せえから、すぐ見失いそうになって……」


「でも、康太が手を繋いでてくれたんだよ。おかげで、同級生に見つかった時はちょっと揶揄われたけど……」


「お前ら、男二人でデートかよってな──」


そう言いかけた康太が、はっとする。俺は首を振ってから……代わりにこう言った。


「じゃあ、今年は……デート、してくれる?」


「で、デートって……」


途端に、康太が言葉に詰まる。康太が言いたいことは分かる。俺達は付き合ってるわけじゃないのに……ってこと。でも康太からそれは言えないだろう。だから、俺の方から、康太にこう言った。


「好きな人とお出かけするから……俺にとってはデートだよ」


「おう……」


「康太にとって、どうなのかは……康太の気持ちでいいんだよ。でも、その……康太にとって、これがどんなことでもいいから、俺は康太とお祭り、行きたいなあって思うんだけど……」


どう?──おそるおそる、そう訊くと、康太は俺から視線を外したり、口をもごもごさせてから……やがて、「おう」と頷いて言った。


「……俺も、瞬と祭りに行きたい、と思う」


「本当?」


康太がこくりと頷く。思わず「やった」と言うと、康太はまたそっぽを向いてしまった。でも、今度は、頬が少し赤かった。

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