8月9日 湊真宙はただ願う
玄関を出て、マンションの外廊下から空を見上げる。朝から重く垂れ込めた灰色の雲は、この後の悪天候を予感させた。
洗濯物、今日は部屋干しにして正解だったな。
「……なんてね」
そんなことを考えた自分に思わず、笑う。
ひょんなことから始まったこの一人暮らしも、ようやく、なんとか……ひと月が経って、俺も少しは家事に慣れたのだろうか。
始めは、とりあえず出勤して、帰ってくるだけでいっぱいいっぱいで、荷解きさえロクにできないまま一週間が過ぎ、それからやっと「このままじゃまずい」と思い、家のことに手を付け始めたのを思い出す。
実家にいた時には、当たり前のように享受していたことも、こうなってから初めて、その有難さが身に染みた。そして、己の無知さを恥じた。母さんに言ったら「ま、いい社会勉強になったと思いなさい」と笑われたけれど。
とは言え、俺がこの生活を今日までなんとかやってこれたのも、俺にその「社会勉強」を指南してくれた「先生」の存在が大きい。
一人暮らしの「先生」。それは──。
「みなと先生、おはようございます」
「ああ、おはよう。瞬ちゃん」
噂をすれば──と、隣の部屋から出てきた男の子。この子こそが、俺の一人暮らしの「先生」にして、かつての教え子・立花瞬くんだ。
俺がこのマンションに引っ越してきた時、偶然再会したんだけれど、聞けば、瞬ちゃんは今、高校生にして一人暮らしをしているらしい。
俺も一人暮らしを始めたのだと話したら、瞬ちゃんは、ありがたいことに「困ったら、何でも訊いてくださいね」と言ってくれた。
以来、一人暮らしに不慣れな俺は、すっかりその厚意に甘えてしまっていて……このとても頼りになる「先生」には、頭が上がらない。
と、同時に、その度に彼の成長と努力の跡をひしひしと感じて、嬉しくもなるんだけれど。
そんな──通っている高校の制服に、トートバッグを提げた出で立ちの教え子を感慨深く見つめていると、瞬ちゃんは「先生?」と首を傾げる。俺は我に返り、瞬ちゃんに「何でもないよ」と首を振る。それから言った。
「忙しいのに、朝早くからボランティアを引き受けてくれてありがとう。どうしても人手が足りなくてね……教え子で誰か呼んでくれないかって言われて、それで瞬ちゃんにお願いさせてもらったんだけど」
「いえ、むしろ声を掛けていただけて、嬉しかったです。先生のためなら、いつでも行きますよ」
そう言って、瞬ちゃんは人懐こい笑顔を見せてくれる。すごく逞しく成長したけれど、こういう顔は昔と変わらないから、なんだかほっとする。教え子の成長は嬉しいけど、あまり大きくなりすぎると寂しい気もするんだから、先生というのは勝手だ。
そんなことを考えつつ、ふと腕時計を見遣ると、もう八時半を回っている。
「……おっと、もうここを出ないといけないね」
「じゃあ、行こうか」と瞬ちゃんを促し、俺達は歩き出した。
☆
助手席に瞬ちゃんを乗せ、車を走らせる。目的地は、マンションから車で十五分ほどのところにある、小さな公民館。
俺と瞬ちゃんは今日、その公民館で開かれる「夏休み子ども教室」のボランティアスタッフとして、呼ばれているのだ。
この「夏休み子ども教室」というのは、公民館が企画した小学生向けのイベントで、公民館の一室を開放し、そこで、一緒に夏休みの宿題をしたり、低学年の子には絵本の読み聞かせをしたり、それから、自由研究に役立つようなちょっとした実験もやったり……というのが主な内容だ。
「みなと先生は、いつもこういうイベントのお手伝いをしてるんですか?」
「ああ、まあ……知り合いがこういうイベントに関わるところにいてね。何かあると、俺に話が来るんだ」
「頼りにされてるんですね」
「よく言えばそうかもしれないね。でも、俺もこういうことは好きだからいいんだ。瞬ちゃんこそ、受験勉強で忙しいのに、引き受けてくれて……本当にありがとう」
「いえ。みなと先生のお役に立てるのは嬉しいですし、それに、小学生の子の勉強のお手伝いは、自分の勉強にもなりますし」
そう言って、瞬ちゃんは、はにかんだように笑う。その言葉に、俺はふと、以前、彼から聞いたことを思い出して訊いた。
「瞬ちゃんは……進路は、教育関係で考えてるんだっけ」
「はい」と瞬ちゃんは、おずおずといった様子で頷く。それから続けた。
「まだ、なんとなく、ですけど。興味はあって、進みたいなって思います」
口調こそ、まだ自信なさげだけど、俺は、瞬ちゃんの中でその夢が確かに芽吹き始めているのを感じた。
自分がここまで来た道のりを思うと、軽々しく「いいね」とは言えない。まして、今だって……その道は決して「安定」とは程遠いものだとよく知っている。
それでも、彼が決めたことなら、俺は応援したいと思った。
どんな言葉を掛けて、その背中を押してあげられるか──俺は少し考えてから、言った。
「そっか……うん。瞬ちゃんなら、きっとできるよ。頑張ってね」
「……はい」
ちらりと見た、希望に満ちたその眩しい笑顔に、俺は、彼の行く先が良い未来でありますように、とせめて願った。
──それから十分後。
「先生、ここ違います。もう一本前の道だと思います……」
「先生、この道はさっき通りました!」
「先生、そこ反対です」
「あれ……?」
──俺達は完全に迷っていた。
なんということだろう。願っておきながら、他ならない俺自身が、瞬ちゃんの行く先を迷わせてしまったのだ。
おかしいな……?公民館まではあと数十メートルもないはずなんだけどな……。
車を道の端に寄せ、助手席に座る瞬ちゃんを見ると、スマホの地図アプリと窓の外を見比べている。
俺の視線に気付くと瞬ちゃんは、にこりと微笑んで言った。
「このあたりは、路地が入り組んでいて、車だと難しいですよね。俺もこっちまではあんまり来ないから……お役に立てず、すみません」
それを言ったら、俺なんて、このあたりは自分の勤務校の学区だ。それなのに、道に迷うなんて、あるまじきことだ……。
俺は瞬ちゃんに「ごめんね」と謝ってから、先方に電話をして、事情を説明し……そして、なんとか、イベントの開始直前に公民館へと滑り込んだのだった。
☆
大盛況だった「夏休み子ども教室」のお手伝いを無事に終え、公民館を出た時のことだった。
「うわ……すごい雨」
突然、目の前が霞んで見えないほどの、激しい通り雨が降り出したのだ。そこで俺は自分の失敗に気が付く。しまった、天気予報は見ていたのに、車で行くからと油断して、傘を置いてきてしまったのだ。公民館から車を停めた駐車場までは少し歩くし、これじゃ、しばらく公民館を出られそうにない。
俺は同じように、隣で雨を見つめている瞬ちゃんに、今日何度目か分からない「ごめんね」を言おうとして──それは、瞬ちゃんが差し出したものに遮られる。
「先生、よかったらこれに入ってください」
「え?」
瞬ちゃんが俺に差し出してくれたのは「折り畳み傘」だった。
「本当にしっかりしてるなあ……」と言ったら、瞬ちゃんは控えめに「たまたまです」と笑った。
俺はありがたく、瞬ちゃんから傘を受け取りながら、言った。
「ありがとう。じゃあ、俺、これ差してダッシュで駐車場まで行って車を回してくるから、瞬ちゃんはここで待ってて」
ここまでたくさんお世話になったんだ。せめて、瞬ちゃんを濡らさずに家に送り届けなければ──と言った俺の言葉に、瞬ちゃんは何故か微妙な顔で「えっと」と口をもごもごさせてから、こう返した。
「せ、先生をお一人で行かせるのは、しんぱ……いえ、申し訳ないので……俺も一緒に行きます」
「……そっか」
……なんて情けないんだろう。俺は教え子に相合傘で誘導され、足早に駐車場へと向かった。
☆
マンションに着いた頃には、雨は小雨程度に落ち着いていた。
車を降り、再び、瞬ちゃんの傘を借りて、二人で足早にエントランスへと入ると、ふいに、背後から声を掛けられる。
「おい」
「あ、康太」
「康太くん」
振り返るとそこには、傘を差した康太くん──瀬良康太くんが立っていた。
瞬ちゃんと幼馴染の男の子で、そして……はっきりそうだと聞いたわけじゃないけど、たぶん瞬ちゃんと恋仲にある子だ。
……と、言うのも。
「どうしたの?康太も、今帰り?」
「……そうだけど」
「康太?」
「……」
康太くんは瞬ちゃんと話しながら、さりげなく瞬ちゃんのシャツを引いて、瞬ちゃんを俺から引き離す。
康太くんは分かりやすく、やきもちを妬いていた。たぶん、エントランスに入る前に、同じ傘に入ってたところも見てたんだろうな……俺は心の中で康太くんに「ごめん」と手を合わせた。
すると、その気持ちが通じたのかどうか……康太くんは俺に訊いた。
「湊。瞬はもう、ボランティア終わったのか?」
「ああ、うん。おかげさまで……すごく助かったよ」
「そうか」
俺が答えると、康太くんは瞬ちゃんをちらりと見遣る。それで、康太くんの気持ちを察したのか、瞬ちゃんは「ふふ」と笑った。
──その笑顔は信じられないくらい、大人びた笑みだった。内心、驚く俺に、瞬ちゃんはその笑顔のまま、言った。
「みなと先生。すみませんが、俺はここで失礼します。今日は、ありがとうございました」
「……ううん。こちらこそ、本当にありがとう。またね」
「はい」
手を振って、康太くんと並んで階段を上がっていく瞬ちゃんの背中を見送る。
少し間を置いてから、俺はエレベーターで昇ることにした。
──いつまでも子どもじゃないんだな……当たり前だけど。
エレベーターの中で、ゆっくりと移っていく階数表示を見つめながら、ふと考える。
俺が思っていた以上に、瞬ちゃんはもうずっと、大人になってしまっていたのだ。改めて、時の流れを感じるとともに、それはつい、自分のことを省みるきっかけにもなって。
──俺は……どうなんだろうな。少しは、成長できてるんだろうか。
思考は自然と、過去へと遡っていく。
大学を出て教員になったばかりの頃、現実にぶつかり、打ちのめされていたあの時──それでも、俺に力を与えてくれた、彼の言葉。
──『先生……みなと先生が、いちばんの先生だよ。大好きだよ……』
そう言ってくれた彼の言葉に違わない「先生」にならなければと思う。そして願わくば、俺も彼のように、人に力を与えられるような存在であれたらと思う。
俺は一人きりのエレベーターで、頬を叩いて「よし」と気合を入れた。
まずは……金太郎の水槽の掃除から、頑張ろう。
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