7月28日 ①


──『こうたなんて……大っ嫌い!』


それほど、力を籠めたつもりはなかった。


ただ、いつもみたいに……ちょっと小突くくらいのつもりで、ほんの一押ししただけだった。


それが──。


耳から離れない鈍い音、血、動かない瞬……。



「俺が……瞬を……」


手のひらをじっと見つめる。さっきまで付いていたはずの血は、いつのまにか綺麗さっぱり消えていた。だけど、どうしようもなく、俺はこの手が汚く思えた。いっそ、切り落としてしまいたくて、自分で自分の手首を掴んで床に叩きつける。痛い。何度も繰り返しているうちに手が赤く腫れる。

そのうちに、痺れて痛みさえ感じなくなった。だけど、何も変わらなかった。汚い、汚い、汚い──。


「──っ、う、う……ぁ……あぁ……」


代わりに頭がひどく痛んできた。痛い、何も考えられなくなる。頭を抱えて床に転がる俺を、クソ神は見下ろして言った。


「辛いかい」


「っ、……ぁっ!あぁ……お、おまえ……っ、なんで、なにを……」


掠れた声でやっと訊く。すると、クソ神は俺を足蹴にして、さらに脇腹のあたりを爪先で小突きながら言った。


「俺は自分の仕事をしただけさ……生きていくためにね。だけど、それももう終わりだよ……機会を与えても、人なんてやっぱりこの程度さ。……それを乗り越えさせようなんて、馬鹿なことを考えたよね、全く」


──乗り、越える……?


「……っ、ぅ、あぁ……!?」


小突く程度だった脇腹に、重い一発が加わる。胃が潰れそうな痛みと、激しい頭痛で、吐き気がする。せり上がってくるような感覚を必死に耐えていると、クソ神は柔らかく微笑んだ。


「一度怖くて逃げたことに、簡単に立ち向かえるわけなんかないさ。瀬良にかけた認識は、もう剥がれかかってる。振り切ったはずの過去の記憶は、これから、かろうじて保ってきた瀬良の自己肯定感を食っていく。生きることに執着がなくなって、あとはもう死ぬだけだ」


──死ぬ……。


「死ぬ……死ぬ、俺は、死ぬ、のか……、っ……」


「死にたくないかい?」


「俺、は……っ、ぁあ……」


しぬ、しにたくない。おれは……だって。


──『……俺っ、ほんとに心配した……康太が、死んじゃったらどうしようって。いなくなっちゃったら、どうしようって。ほんとに……ほんとに、いっぱい、心配した』


──『もう、ほんとダメ……康太は絶対死んじゃダメだから。一生死んじゃダメ』


「おれ、は……しんだら……っ」


焼けそうに痛い頭が、あいつの──瞬の言葉を思い出す。

そうだ。瞬は、俺が死んだら──。


──でも、それって……。


「立花は知らないよ。瀬良が、自分をどんな目に遭わせた奴かってこと」



──『俺は、康太が好きだよ』


──『康太が抱えてる全部ごと……俺が好きな康太だから』



──これでも、瞬はまだ「好き」だなんて言ってくれるだろうか。


「瀬良ほどは負荷はかからないだろうけど、立花の認識が解けるのも、時間の問題だろうね。そうなった時に、立花は瀬良を受け入れてくれると思うかい」


「しゅん……しゅん、は……おれ、を……」


俺を……瞬は、きっと、でも。



──『こうたなんて……大っ嫌い!』



「──っ、ぁ、ああ……っ、ああ……ぁ、ぅ、く、お、おぇ……っ?!」



さっきよりも激しい痛みが襲った。こらえ切れなくなって、胃液を吐く。その間も、脳味噌を串刺しにされて、棒で掻きまわされてるような不快感が、絶え間なく押し寄せてくる。痛い、苦しい、痛い……気持ち悪い、早く。早く──。


「っ、あ、あぁ……?!も、もう……お、おれ、は……っ、あ……、おれは……」


「楽になりたいかい」


「ぁ、はあ……っ、ぅ、楽……もう、もういい……もう……」


床に這いつくばって、そう漏らす。


だってそうだ……俺みたいな奴が、瞬の横で、何食わぬ顔で生きてていいわけない……。


──だからって、本当のことなんて……。


「ほら」


その時、俺の前に「それ」が差し出される。


「これで頭を撃ち抜けば死ねる」


──銃。


俺はそれを手に取った。これで、終わりだ……と思ったら、不思議と痛みが遠のく。


──やっとだ、やっと……。


手に取った銃を自分でこめかみにあてがう。すると、それを見ていたクソ神は、銃を握る俺の手に、そっと手を重ねて、こう言った。


「──それで、一緒に死のう……瀬良。俺は瀬良を一人で死なせたりはしないさ。大丈夫──怖くないよ。ゆっくり、引いて……」


引き鉄に指を掛ける。だけど、その時──。



──『もっともっと……ずっと一緒にいたいなと思っています。それこそ、康太も俺もおじいちゃんになっちゃって、死んじゃうまで。』


──『康太と色んな瞬間を分け合って、生きていきたいです。』


──『俺にとって、康太は、他の誰よりもそんな風に思える相手です。』



──俺だって。



「瞬……」


からん、と音がした。俺は銃を取り落としていた。


「っ、ぅう……、ぅ……うぅ……っ」



気が付くと俺は、床に額を付けて泣いていた。


死ねない代わりに、また痛みが襲ってきた。とめどなく流れ出る涙と吐いた胃液が床で混ざる。


死ぬこともできず、どこにも戻れず、俺はみっともなく、ただ床に伏せていた。


その時、震える背中に寄り添う、温かい重みを感じて──。





「……康太」


病院を出て、バス停へと向かう途中、つい、その名前を呟く。

そして、思い出すのは、さっき、受付で言われたこと──。


『……今日は、どなたも面会できないことになっています』


──あれから。康太は、ずっと眠ったまま、目を覚まさないらしい。


昨日と同じく、俺は、面会が始まる時間に合わせて病院に行ったけど、康太には会えなかった。


「部外者」の俺には、詳しい容態は教えてもらえなくて、情報がない状況では、つい、悪い方へとばかり想像が膨らんでしまう。


──最悪の、こと……。


想像するだけで、息が止まってしまいそうになる。どうして康太がこんな目に遭わなきゃいけないのか──やり場のない怒りに震える拳を握った。


夕方頃、家に帰り着いても、何もする気にはならない。


夏休み中だけど、あの日は、三年生はほとんど学校に来ていたし、康太が救急搬送された話は、すでに広まっているらしい。だから、今、俺は夏期講習を欠席させてもらっている。


無用な詮索を避けたい、と伝えた俺に、先生が配慮をしてくれたのだ。代わりに、課題や資料は貰って来たからあるんだけど──それに取り組める気にはなれない。


スマホには、いつもはあまり、やり取りしない何人かのクラスメイトからメッセージが来ていた。俺や康太を気遣うようなメッセージで、それはすごくほっとしたけど……言外に、やっぱり、探りを入れられてるような気は、する。


──俺だって……今の康太のことは、何も知らないのにね……。


部屋のベッドに、仰向けに身を投げ出しながら、自嘲気味にふっと笑う。だけど、どうしてかな。

笑ったら、目の端から、涙が零れてしまった。


「……だめだよ」


腕で擦って拭くけど、次から次に出てくるから困る。腕を目にぐっと押し付けて耐えようと思ったけど、もうダメみたい。


「康太……康太……っ」


今、この瞬間も、もしかしたら、康太は俺を置いて、もう二度と会えないどこかへ行ってしまうかもしれないのだ。そんなの、耐えられない。


──怖い。


ふっと息を吐きながらそう思った時、昨日の康太のことを思い出す。そうだ──。


──康太も、同じこと、言ってた……。


怖い。


何に対して?康太は、何を恐れているの?

いや、そんなことじゃない。あれはきっと──。


──どこかにいる、康太のSOSだ……。


ふと、そんな予感がする。確証なんて何もない、だけど、康太は言ったのだ。俺に──怖いって。


それなら、俺は今すぐ康太のところへ、駆けつけなきゃ。


──でも、どこか、ってどこ……?


病院で会った康太は、中身を抜き取られてしまったのではないかと思うくらい、まるで「空っぽ」だった。それなら、あのSOSは、空っぽの康太の、どこから出てきたのだろうか。


それとも、康太は本当に──あの中にはいないんだろうか。


「そんなの、どうやって……」


「連れてったろか」


「──っ!?」


その時、妙に懐かしく感じる声が聞こえた。


身体を起こすと、部屋のドアにもたれて腕を組んだ、綺麗な金髪の、お人形みたいに整ったお顔の男の子がいた──。

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