7月27日
──7月27日 AM 15:05
──こん、こん。
そのドアを軽く、手の甲でノックする……中から返事はない。
ひとつ呼吸をしてから、俺はスライド式のドアをゆっくり開いた。
中に入るとまず、気持ちのいい青空が広がる窓が目に入った。薬品みたいな独特な匂いがつん、と鼻を抜ける。それから、広い部屋の奥に一つ置かれたベッドを囲む、ぴたりと閉じた淡いピンク色のカーテン。
俺はベッドの方へと歩み寄る。閉じたカーテンをそっと開けて、中にいた「彼」に俺は声を掛けた。
「康太」
「……」
「康太、来たよ」
「……」
「ここ、座るね」
「……」
康太に断りを入れてから、俺はベッドに寄り添うように置かれた木製の丸椅子に腰を下ろす。
その間、ベッドの上で上半身だけを起こした康太は、俺に視線を遣ることもなく、ただ、どこか宙の一点を見つめていた。
「身体の調子はどう?どこか痛いところはない?」
「……」
「ご飯は?今日はもう食べたの?」
「……」
返事はない。俺は、康太の白い横顔をじっと見つめた。
康太の目は開いているけど、たぶん、そこには何も映ってないだろう。視線の先にある部屋の壁も、もちろん──俺のことも。
「あ、そうだ。俺……」
部屋の沈黙に耐えかねて、俺は先のない、会話の枕詞を口にした。後に続くことなんてない、一時、隙間を埋めるだけのものだ。だから部屋には、またすぐに、重苦しい静けさが降りてくる。
「……康太」
やめよう、と思ったのに、俺はつい、愛おしいその名前を口にしてしまう。
今、呼んでも、苦しくなるだけなのに……だけど、止められなかった。むしろ、こうしないと、潰れてしまいそうだった。俺は康太に「ごめん」と言ってから、ふう、と息を吐いた。
──康太がこんな風になってから、かれこれ四日が経とうとしていた。
月曜日……学校に行った俺と康太は、それぞれの用事を終えてから、一緒に帰ろうと約束をしていた。
しかし、先に用事を終えて、教室に戻っていたはずの康太が、突然、教室を飛び出していくのを俺は見た。……妙な胸騒ぎがして、俺も康太の後を追ったんだけど、結局、康太には追いつけなかった。
──どこに行っちゃったの……?
康太が行きそうな教室は、あちこち回って見てみたけど、そのどこにも康太はいない。
途方に暮れた俺は、一度戻ってみようと、職員室のあたりを通って、自分の教室に向かった。
その時だった。
『第一情報室で生徒が倒れてるって──』
『救急車、あと何分で来る──』
『担架、保健室にあるから、早く!』
──何……?
突然、職員室の方が騒がしくなる。出てきた先生達が何人か、管理棟の方へばたばたと向かっていく。
廊下の隅に避けていた俺に気付かなかったのか、すれ違いざまに、ある先生がぽつりと呟いた。
『また、あいつか──』
胸騒ぎが、明確に嫌な予感へと変わる。俺は先生達の後を追って、第一情報室へと走った。
──そして、予感は当たってしまう。
『──康太……っ!?』
……康太は、第一情報室で、うつ伏せに倒れて動かなくなった状態で見つかった。
意識を失っていた康太は、呼吸もなく、非常に危険な状態で──すぐに救急搬送された。
担架で運ばれていく康太を、俺はただ呆然と見つめるしかなかった。
本当は、康太のそばにいたかった。
だけど、今、ここで──俺は、康太にとって何でもない存在なんだと思い知った。
幼馴染も、恋人も、ここでは何の意味もない。俺は康太にとっての、どんな「関係者」でもなかった。
今の俺は無力だ。
……だから、この後のことは全て、病院に駆け付けた実春さんから聞いたことだ。
発見と対応が早かったおかげで、康太はなんとか一命をとりとめたらしい。
だけど、すぐには意識は戻らなくて、病院に運ばれたその日は、実春さんでも面会できなかった。
康太に意識が戻ったのは、火曜日──倒れた翌日の朝だった。
──戻った、と言えるのかは分からないけれど。
康太は、たしかに、目を開いていて、息をしていた。
だけど、外部からのどんな刺激にも反応がなかった。お医者さんや、看護師さん、実春さんの呼びかけにも答えず、ただ、壁の一点を見つめているだけ。それも、たまたま正面に壁があるから、見ているように見えるだけで、実際には、視界に捉えたものにすら反応を示さない。
動くことも、自分の意思ではままならなかった。
というか、その「意思」らしきものが、今の康太の中には、まるでなかった。
だから、日常必要な──食事やトイレなんかも、誰かがそばで全てやらないと何もできなかった。というか、康太は自らしようとしなかった。まるで──そうするのを、望んでないみたいに。
そんな調子だからか、康太の身体の機能も緩やかに低下していた。
『小難しくてよく分かんないんだけどね』と目尻を拭いながら、教えてくれた実春さんによると、今の康太は、日々、人が命を維持していくのに必要な身体の機能が弱まっているらしい。
しかも、その原因は不明だ。
『最悪のことも、あるって』
俺にそう言った実春さんの声は、しばらく頭から離れなかった。
そもそも、康太が何故倒れていたのかさえ、俺達には分からないのだ。
この先、康太がどうなってしまうのかなんて、もっと分からない。
それでも、お医者さんや、実春さん達のお世話のおかげで、昨日から、康太はこうして面会ができる程度の状態にはなれた。
──俺も、やっと……康太に会えた。
「……横にならなくて平気?」
「……」
ぴくりとも動かない康太は、まるで置物みたいに見えるかもしれない。
だけど、点滴に繋がれた康太の腕の、青白い肌の下には血が通っている。心臓も動いている。息もしている。康太は生きている。置物じゃない。
──だから……。
「康太」
「……」
「康太」
「……」
俺は康太の手を取って、きゅっと握った。ここにいるよ──と伝えるように。
「……好きだよ」
その言葉はごく自然に──口をついて出た。すると──。
「……っ」
「っ、康太?」
ほんの一瞬。康太の瞳が揺らいだ気がした。心臓が跳ねて、俺は椅子を立つ。
だけど、その期待とは裏腹に、康太は顔を顰めて、呻いた。
「……っ、ぅ……ぁ……!?」
「康太、康太……?」
頭を押さえて苦しみだした康太に、俺はすぐに枕元のナースコールを押した。
荒い呼吸を繰り返す康太の背中をさすって宥める。
「ぁ……っ、う、ぅ……」
「大丈夫、大丈夫だからね……あ、ほら……横になって」
康太を支えながら、そっとベッドに横たえる。そのうちに、康太の息は規則的なものになっていく。
「……」
「大丈夫、もうすぐ看護師さん来るからね。大丈夫……」
苦し気に歪んでいた顔が、元の虚ろなものへと戻っていく。俺は、汗の滲んだ康太の額を手の甲で撫でた。すると、康太の唇が動いて──。
「──ぃ」
「え?」
今、たしかに──だけど、それを遮るように病室のドアが開く音がする。看護師さんが入ってきたので、俺は病室を出ることになった。去り際──俺は、康太の眠るベッドの方を振り返る。
──あれは……。
俺は、さっきの康太の唇の動きを思い出していた。
掠れた声でほとんど聞こえなかった……だけど康太はたしかに、俺に言ったのだ。
──『怖い』と。
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