11月9日(木)


──最悪の季節がやってきた。


「いち、に、さん、し──」


準備体操を先導する体育委員──木澤の溌溂とした声に、クラスメイト達の萎えた「ご、ろく、しち、はち……」が続く。

体操着のハーフパンツから剥き出しになった脚に寒風が刺すと、ますます気持ちが萎えていく。これから始まる更なる「地獄」を思うと、身体は重くなり、つい、準備運動もおざなりになった。


──何度でも言うが。


「なんで、クソ寒い時期にクソダルいマラソンをやるんだよ……」


「冬の体育といえば、だもん……しょうがないよ」


準備体操を終え、ウォーミングアップのグランド走二周を前に、最後の砦であるジャージの上着を脱ぎつつ愚痴ると、すかさず、瞬が俺の肩に手を置いてそれを宥める。俺は「そうだな……」とため息を吐きつつ、ふと、瞬を見遣る。


優等生らしく、潔く半袖短パンの体操着姿になった瞬は、見ているこっちが寒くなりそうほど、腕も脚も白くて細い。こうして見ると、瞬は全然毛深くないし、肌も陶器みたいにつやつやだ。森谷じゃねえけど──まあ、綺麗な脚だと思う。


「こ、康太……?」


すると、俺の視線に気付いたのか、瞬がもじもじと俯く。そんな瞬がいじらしくて、俺は脱いだジャージでがばっと瞬を包んだ。

「わあっ!?」と間抜けな声を上げた瞬が、俺のジャージに包まれたまま、じたばたする。それを見て、笑っていた俺に、瞬が頬を膨らませる。


「もう、授業中だよ。早く並ばないと──」


「でも暖かいだろ」


「暖かいよ……それに」


「それに?」


そこで言葉を切ると、瞬は自分を包むジャージの襟のあたりに鼻を近づけてぼそりと言った。


「……康太の匂いがする」


俺と視線がぶつかると、瞬はふにゃりと笑った。その瞬間、人目も憚らず瞬を抱きしめたくなったが、もちろんそれは叶わない。

少し離れたところで、列を整えている木澤に「早くしろ―」と促されて、俺は渋々、瞬を解放し、皆の元へと走った。





「あー……面倒くせえ……」


ウォーミングアップのグランド走二周を終えると、今度は、学校の敷地をぐるりと囲むフェンスの周りを走る外周走が始まる。なんでそんなに走るんだよと余程言いたいが、まあ、これはまだいいか。


教師の目が常にあるグランド走は真面目にやるしかないが、外周走は教師の監視からある程度は逃れられる。教師のいるポイントでだけは走っているフリをして、死角に入ったら、歩けばいいからな。


それに、初回から飛ばして本気で記録を出すより、最初はわざと手を抜いて遅いタイムを出し、それから段々タイムが縮んだ方が、教師の印象も良いからな。それは成績にもきっと反映される。


というわけで、俺は今、全体で真ん中よりちょっと上くらいの位置を適当にキープしながら、走ったり歩いたりを繰り返していた。ちなみに、瞬はもちろんそんなことしないし、スタート前に俺に「康太は康太のペースでいてよ」と言ってきた。


ある意味、優等生の常で、瞬は体育がそんなに得意じゃない。それでも瞬は偉かった。

決して歩かず、一生懸命走っている……俺の数メートル前を。そう──瞬は周回遅れになっちまってる。


──他の奴らはもうそろそろゴールするよな……よし。


俺は少し足を速めて、腕を振って頑張って走っている瞬に並び、声をかけた。


「瞬」


「っ、はぁ……、こ、康太……」


白い息を弾ませて走る瞬が、俺をちらりと見る。俺は瞬の背中をそっと叩いて言った。


「頑張れ……っ、あと、一周くらいだろ」


「う、うん……っ、康太は……っ、もう終わり……っ?」


「ああ。この周で終わりだ。けど、俺も瞬と一緒に走る……誰かいた方が、走りやすいだろ」


「そ、そんな……でも、康太、疲れちゃうよ……っ」


「そうだぜ。伴走なら俺が立花にぴったりとくっついて走るから、任せてくれよ──っ!?」


突然、間に入って来た変態を片手で押し退けつつ、俺は首を振った。


「瞬のためなら、このくらいなんてことねえよ……ほら、正門が見えてきた。あと一周、いこうぜ」


「康太……」


さっきまで、少し苦しそうだった顔がぱっと明るくなる。それから、瞬は笑顔で俺に言った。


「……ありがとう」


「……おう」


そうと決まったら、だ。


「よし。じゃあ、あの電柱のとこまで競争だ!」


「あ!待ってよ康太!」


全速力で走り出すと、瞬も力いっぱい地面を蹴って走り、俺を追いかけてくる。

ふと──寒いとかダルいとか、そんなのなくて、ただ瞬と外を走り回ってるだけで楽しかったあの頃を思い出した。


まあ、瞬が一緒なら、冬空の下のマラソンもちょっと悪くないか──なんて。



──そう思ってたんだが。



「あー、肉離れね。これは」


「って、ぇ……」


十分後。俺は肉離れを起こして、保健室に担ぎ込まれていた。肩を貸してここまで連れてきてくれた瞬が、ソファの上でクッションを支えに、足を持ち上げて苦しむ俺を、心配そうに見つめる。


「こう……あ、瀬良は、重傷なんですか?」


「どうかしらね。病院でCTとか撮らないとなんとも……」


「そ、そんなに……!」


腕を組んで俺を見下ろす先生の言うことに、瞬はすっかり顔が青ざめている。俺は痛みに顔を歪めつつも、声を絞り出して瞬に言った。


「俺は……大丈夫だから……気にすんな。無茶な走りをしたのは、俺の勝手だ……」


「で、でも……」


「そうよ。どうせ、準備運動適当にやったくせに、調子に乗ってめちゃくちゃに走ったんでしょう?立花くんが気にすることじゃないわ」


ばっさりと俺をそう斬った先生は、「親御さんに連絡とってくるわね」と俺を瞬に託し、保健室を出て行った……保健室の先生って、何であんなにさばさばしてるんだろうな……?白衣の天使的なイメージとは程遠い。


「……っ」


思わず、はあ、と息を吐くと、ふくらはぎが痛んだ。眉を寄せると、すかさず瞬が「康太」と俺に寄り添ってくれる。

瞬は床に膝をつくと、投げ出していた俺の手を取って、こう言った。


「ごめんね。俺が無理に走らせちゃったから……」


「……瞬のせいじゃないって、言っただろ。もう気にすんなっ、て……っ!?」


「康太!」


あまりの痛さに、つい手を伸ばして、ふくらはぎを揉みたくなる。だが、瞬は俺の手をきゅっと握ってそれを止めてくれた。


「傷口が広がっちゃうからダメだよ……ほら、アイスパックがあるから」


先生が置いて行ったアイスパックを、瞬がふくらはぎにあてがってくれる。それだけでも、痛みがマシになったような気がして、俺はほっとできた。俺の表情が和らいだのを見ると、瞬が笑いながら冗談めかして言った。


「痛いの痛いの飛んでけー」


「……子どもみたいだな」


「ふふ。でも、競争だって走ってく康太、子どもみたいだったよ?まあ……俺もだけど」


「そうだな」


柔らかい陽が窓から差す保健室で、瞬と二人きりの穏やかな時間が流れる。もう少しこのままでいられたら──とぼんやり思っていた、その時だった。


──ガチャ。


「あ、先生かな」


パーテーションの向こうで、ドアが開く音がして、足音がする。瞬が立ち上がり「先生」と声をかけた。だが、現れたのは──。



「──折角の機会を二度も棒に振るなんて、本当に愚かだね。君達は」



「っ、お前は……っ!」


俺と瞬の前に立ったのは、先生じゃなかった。制服を着た、たぶん同じ学年の……小太りの男子生徒。

けど、知らない奴だ。瞬も瞬きを繰り返して、この男子生徒を見ているから、おそらく知らないんだろう。


けど、何故か──。


──俺、こいつに……会ったことがある?なんか、すげえ、ムカつく奴で……なのに。


思い出そうとすると、頭が痛む。こいつのことは思い出せなくても、この現象はよく知ってる。


──「神」共に弄られた記憶を思い出そうとすると、起きるやつだ……!


ということは、こいつは──だけど、俺が口を開いて訊くよりも先に、奴は、自らこう言った。


「その様子じゃ【ノルマ】を達成できないんじゃないの?困るよ。うちとしては、君達に死なれると、都合が悪いんだよね」


「【ノルマ】って──どうして、そんなことを知って……っ、わ!?」


聞き捨てならないことを言った「奴」に詰め寄ろうとした瞬を、男が手で押して突き飛ばす。瞬が床に倒れ込むのを見ると、俺は身体がかっと熱くなり、奴に掴みかかろうとする、が。


「──っ……!」


肉離れを起こした足が痛んで、思うように動けない。激しい痛みにのたうったせいで、ソファから転がり落ちると、奴は腹立たしいツラで俺を見下ろす。


「どうせまた忘れさせるのに、話すのは無駄だね。それより、今、用があるのは君の方だ。いいかい、これは協力だよ。もしも恨むなら、なかなか実行に踏み切らないお荷物の相方を恨むんだね──」


そう言うと、奴は片足を持ち上げ、その足で──俺の右腕を思いきり踏みつけた。


「……っ、く、あぁ──!?」


──骨が砕けるような嫌な音が聞こえる。


肉離れとは比べ物にならない痛みに、視界が霞んでいく。

真っ青な顔で、俺を呼ぶ瞬の声がだんだん遠くなって、俺は──……。

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