5月17日
「瀬良さんは……今日はお休み、と」
朝の「けんこうかんさつ」の時間。先生が、かんさつぼに康太のお休みを書きこむ。もう知ってたことだけど、一番後ろのからっぽの康太の机が、ちょっとさみしい。
──康太、大丈夫かなあ。
昨日、学校から帰った後、マンションの前の広場で遊んだ時は元気だったんだけど。
朝、いつもみたいに康太をむかえに行ったら、実春さんに「康太、かぜ引いちゃったのよ」と言われた。康太が学校を休んだことなんて今までなかったから、おれはすごくびっくりしたし、心配になった。
学校に向かって歩いていると、色んなことが気になった。
「康太、かいきん賞取れなくなっちゃったな。がっかりしてるだろうな」とか、「康太はかぜを引いたことがないからすごく苦しんでるかも」とか「今日はあげパンの日なのにな」とか、そんなことだ。
教室に入ってからも、みんなにたくさん聞かれた。「瀬良は?」「休みなの?」「あいつ、バカなのにかぜ引くんだな」──康太が「バカ」って言われた時はちょっとムッとしたけど、がまんした。おれは、言い返したり、そういうのは苦手だから……。
「立花瞬さん」
「……」
「立花さん」
「……」
「立花さん、お返事は?」
「あ、は、はい、元気です!」
そんなことを考えて、ついぼんやりしていたら、先生の声にも気付かなかった。返事がおくれて、声がひっくり返ったから、みんなに笑われた。おれは、はずかしくなって、身体をぎゅっと縮めた。
康太のいない学校は、いつもとちがった。
なんだか何もかもがぼんやりしていて、何かが足りなかった。
他の友達とおしゃべりをしていても、康太だったら何て言ったんだろうとか、そんなことばかり考えてしまった。
給食のおかわりじゃんけんで康太にズルをされて負けることはないけど、それでもやっぱり、康太がいる方が学校は楽しかった。
──明日は、学校に来れるのかな……。
早く良くなるといいなと思う。おれは、康太に元気になってほしかったので、おかわりじゃんけんで勝って手に入れた、本当は康太の分だったあげパンを半分ちぎって、こっそり給食袋の中に入れた。ダメなことなのは知ってたので、胸がすごくドキドキした。
それから、帰りに先生に「瀬良さんに渡してね」と康太の分のお手紙やプリントをあずかった。家が近いからだ。でもなんだか、おれが康太の一番だって思われてるみたいで、ちょっとほこらしくなった。
でも、あずかり物はまだあった。おれが、教室を出ようとランドセルを背負ったときだった。
同じクラスの女の子……「坂井さん」だ。坂井さんは「ねえ立花くん」とおれを呼び止めた。
「何?」
「これ……瀬良くんに渡してほしいの」
坂井さんが手のひらの上に載せていたのは、赤い折りづるだった。端と端が合ったきれいなつる。
「これを康太に?」
「うん……瀬良くんに早く良くなってほしいから」
そう言って、坂井さんは、おれにその折りづるをあずけてきた。おれは「康太って、坂井さんとも仲良しだったんだ」とか、そんなことをのんきに考えていた。
その「つる」を開いてしまうまでは。
「どうしよう……」
おれは、ポケットの中でつぶれてしまったつるを見て、ぜつぼう的な気持ちになった。
帰り道のことだった。今日は康太がいないから、おれはいつもの道を一人で帰っていた。
そしたら、同じクラスで、おれの一つ後ろの席の「田中」が現れたのだ。
田中はおれよりも体が大きくて、時々、おれにきついことを言うから、おれは田中が苦手だった。
いやな予感がしたけど、せいいっぱいの力で、おれは田中に言った。
「何?」
すると、田中はにやにやしながら言った。
「あげパンどろぼう」
「……」
バレてたのか。おれは、じぶんがひどく悪者になったような気持ちになった。田中は正しい側にいる人らしく、おれに言った。
「いけないんだぞ、給食持ち帰っちゃ」
「……知ってるけど」
「じゃあ何でやったんだよ。悪いやつ……不良だ!」
「うう……」
田中はおれにどんどん近づいてくる。にげたくて、一歩下がったら、しりもちをついてしまった。田中はそんなおれを「キモ」と笑いながら言った。
「悪いことするからこんなことになるんだ。なあ、先生に言われたくなかったら、あげパンよこせよ。今日はお前のせいでおかわりできなかったんだぞ」
「だ、ダメだよ!これは……」
「よこせよ!どろぼう」
「やめて……やめてよお!」
田中はおれのランドセルをけってきた。こわくなって、うずくまると、遠くから「おい!何やってんの!」と男の人の声がした。田中が「やべえ!」とおれからはなれていったので、おれは、おそるおそる顔を上げる。
「大丈夫かい。けがは?」
「……」
近づいてきた男の人──おじいさんは、いつも見る、黄緑のベストを着た「見守り隊」の人だった。おれがだまってうなずくと、おじいさんはランドセルについた砂をはらってくれた。
──あげパン、とられなくてよかったな……。
ついてきてくれた見守り隊のおじいさんとマンションの前でお別れをして、歩き出す。
けがはしなかったけど、なんだか、心はぼろぼろで、泣きたくなった。でも、もう五年生になったんだから、こんなことで泣いてちゃダメだ。おれはほっぺを叩いて、がまんした。
──そういえば、「つる」はだいじょうぶかな……。
あげパンはとられなかったけど、さっき、体を丸めた時に、つぶれていたら……おれは心配になったので、マンションの階段のすみっこに座って、ポケットから「つる」を出した。
結果──いやな予感は当たっていて。
「どうしよう……」
「つる」はつぶれて、ぺちゃんこになっていた。坂井さんがあんなにきれいに折ったのに、と思うと、おれは自分がいやになって、やっぱり、なみだが出てしまいそうだった。
──せめて、ちゃんと折り直してから康太に……。
「つる」の作り方は、前に授業で教わったから知ってる……おれはあんまり上手に折れないけど。だけど、ぺちゃんこの「つる」を戻すためには、折り直すしかない。
おれは、心の中で「坂井さん、ごめんね」と言ってから、折りづるを開いた。
『瀬良くんがすきです 坂井 花』
──これって……。
開いた折りづるの中にはそう書かれていた。もしかしなくても、ラブレターだ。おれはびっくりした。康太がかぜを引いたって知った時よりも、びっくりした。
康太が好きな人、いるんだ──というのが、まず、正直な気持ちだった。
つぎに、ちょっぴりくやしかった。何がって聞かれると、どんな風に言っていいか分からないけど、とにかく、くやしくて……なんだか、おれは世界で一人ぼっちになっちゃったみたいで……上手く言えない。
それから、ズルいことをした気持ちになった。計算ドリルの答えを見ちゃったときみたいな……そんな気持ち。
──とにかく、折り直そう。
すごくびっくりしたけど……おれは切りかえて、まずは「つる」を折り直すことにした。今見てしまった「ラブレター」をごまかすみたいに、折って、またかくす。
だけど、折り直しても「つる」はもうぼろぼろで……おれが上手く折れなくて、やり直したりしているうちに、紙が少し破けてしまった。
これじゃあ、康太には渡せない……そんなことを考えると、おれはどうしてか、少しだけほっとした。どうしてだろう。いや、ダメだ。坂井さんと約束したんだ。でも、こんなにぼろぼろじゃ……その時、おれは思いつく。
──新しい折り紙で折れば……。
家に帰れば、折り紙があるはずだ。おれは、急いで家に帰って、自分の部屋の机の中から折り紙を引っぱり出した。坂井さんからあずかったのと同じ、赤い折り紙。
これを折って、康太に渡そう……そうすれば。そこでまた、おれは……さっき見たものを思い出す。
──なかったことに。
そう思ったおれは、自分がいやになった。どうしてそんなこと思うんだろう?そんなことできるわけない。田中が言ったみたいに、これじゃおれは、本当にどろぼうみたいだ。でも、あげパンをこっそり持ち帰るのとはちがう。これは……。
迷って、迷って……おれは、えんぴつをにぎった。折り紙をひっくり返して、「今だけおれは坂井さんだ」と唱えて、書く。
『すき』
それ以上は書けなかった。おれは坂井さんにはなれなかった。康太を「瀬良くん」だなんて呼ばないし、「坂井 花」とも書けなかった。新しく折ったつるも、あんなにきれいには折れなくて、やっぱり少しぼろぼろになってしまって──おれは、どろぼうになった。
。
。
。
今になって思えば、あの時、俺はもうきっと、そうだったんだと思う。
康太があの鶴をまだ持ってたのは驚いたけど……俺にとっても、あの鶴は、心のずっと奥の方に持ち続けていたものだ。あれが、一番最初にぶつかった「好き」だから。
そんな俺にとっての少し苦い思い出も、康太にとっては関係ないことで──康太は未だに、あれの意味もよく分からないまま、時々、思い出したようにあれの話をすることがあるから、困る。
それは、もちろん今日も──と思ったんだけど。
「おう……だ、『大好きな康太』が……復活したぞ……?」
「……照れるなら言わなきゃいいのに」
朝。いつも通り、康太とマンションの入り口で合流すると、すっかり体調が良くなったと聞いていたはずの康太の顔は、まだ赤かった。というか、何か大分テンションがおかしいような……。
「やっぱりまだ具合悪いの?」
「いや……その、何ていうか。何か、いつもどうしてたか分からなくなって……」
「一日しか休んでないのに」
俺が笑うと、康太は唇を尖らせて「うるせえ」と言った。ちょっと、らしくなったかな?
でも、こんな康太は珍しいから、今までの仕返しも込めて、俺は少し揶揄いたくなって……。
「頑張って戻ってね。俺が……だ、大好きな康太に」
「照れるなら言うなよ……」
俺も康太のことは言えなかった。やっぱり俺には、仕返しとか向いてないや。
「行こっか」
俺は、まだ少し顔が赤い康太にそう言って……たぶん、いつも通りに歩き出した。
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