5月16日

【条件】


1.毎日0:00〜23:59の間に、瀬良康太に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、瀬良康太が「自分に対して言われた」と認識すること。


2.1の条件を与えられたことは決して、瀬良康太に悟られないこと。


3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。





──37.8°C


「あんたも風邪とか引くのね……」


ベッドの側で体温計を見つめてそう言った母親に、何かを返す気力もなく、ただその光景をぼんやり見つめる。


体温計をしまいながら、今度はスマホを取り出した母親が学校に連絡を入れる。


日頃、口の悪い母親が、高めの声でかしこまって話してるのは奇妙だった。そんな母親が「今日は休ませます」と言ったのを聞いて、頭の中で俺はガッツポーズをした……まあ、いつもより熱があって、身体も痛えから、休むしかねえんだが。休みってのは、それだけで気分が高揚するもんだ。でも──。


──瞬には、迷惑かけるな……。


今日は火曜日だから、いつもなら買い出しに行く日だ。今週は、テスト前だから補習はなしってことになってるし、最近、手伝えてなかったから、久しぶりにと思ったんだけどな……。


それに、確か今日は……体育祭に向けて、クラス旗作りとか、スローガン決めとか、そういう作業もあったよな……俺が休んだ分、瞬には負担をかけることになる。そう思うと、さっき頭の中でしたガッツポーズも、力が抜けていく。


なんてことを考えていると、母親が「あんた聞いてる?」と言ってきた。どうやら、どこに何があるから、それを食えとか、薬をそこに出しといたとか、そんな話をしてたらしい。全然聞いてなかった。


いつもなら、ここで小言を言われるところだが、今日の母親は、はあ、とため息を吐いて、こう言った。


「まあ、あんた最近何か色々と……自分でやってたしね。ちょっと飛ばしすぎてたんでしょ」


「……」


「急にじたばたしたって何にもならない……ちょっとずつやってくしかないの。もっと大事な時にぶっ倒れてたら、あんたがやってきたことも皆パアになるでしょ。そんなの、もったいないじゃない」


「……分かってるよ」


「分かったら、倒れてんのが一日で済むように今日は死ぬ気で大人しくしてなさい」


死ぬ気で大人しくするってどういうことだよ。


でもそれは言わなかった。母親は「今日は早めに上がれるようにするから」とだけ言い残して、部屋を出て行った。


部屋が静かになる。窓から差す陽は眩しい。スマホに表示された時刻は、いつもならとっくに家を出てる時間だ。優越感に似た、奇妙な感覚があった。


ドアの向こうで、母さんの声がする。


『悪いわね、瞬ちゃん。康太は今日休むから……』


瞬だ、と思った。そう思った時には、ベッドから身体を起こしていた。部屋を開けて出て行ったら、たぶん母親に怒られるので、ドアに耳を当てて、会話を盗み聞きする。


『実春さん!俺も──』


『瞬ちゃんは学校に行きなさい。大丈夫よ、馬鹿はすぐ治るから』


聞いたことがねえぞ、そんなの。


母親らしい言い草に呆れつつ、話を聞いていると、どうやら瞬は「自分も学校を休んで康太の看病をする」と言っているらしい。何か、前もそんなことあったよな……だが、母親は頑として「それはダメよ」と譲らない。


それでも、瞬はしばらく『でも』とか何とか言って粘っていた。しかし、そのうちに母親に諭され、諦めて学校に行ったみたいだ……。気持ちは嬉しかったけど、瞬に風邪はうつしたくないし、受験生なんだから、学校に行く方が大事だ。


俺も大人しくベッドに戻り、布団を被って横になる。横になったところで──さっきまではなかった、心の隙間に吹き込む寂しさを感じる。


──瞬……。


なまじ、声を聞いてしまった分、余計だった。いつもは「何考えてんだ」と処理するところだが、悔しいけど身体が弱っていて、一緒に心まで弱っていると、認めざるをえなかった。


俺は瞬に会えないと、寂しかった。


田舎に行った時も、そうだった。無性に会いたくなって、その結果、あんなリアルな幻まで見た。おかしいだろ……自分でも変だと思う。


少し瞬と距離を置けば、妙なことも忘れられるなんて思ったけど、それはかえって「変」だったし、瞬にも余計な気を遣わせた。それも、瞬があんなに楽しみにしてた遠足の前の日にだ……それはダメだろ。


それもこれも、この「寂しい」のせいだ。いつから、こんなこと感じるようになったんだろう。つい最近のような気もするし、ずっと前から本当はそうだったような気もした。考えても答えは出なかったし、「寂しい」は「寂しい」のままだった。


今はどうにもできないなら、と俺は目を閉じた。寝よう。寝て、忘れる。


──ああ、そうだ……女装のことも考えないとだな……。


いや考えられるか、と思った。まだ一日あるし、落ち着いたらにしよう──俺はあらゆる問題から逃げるように、意識を眠りの中に放り込んだ。





「これでいっか……」


ノートの切れ端に書いたメモをもう一度読み直してから、二つ折りにして、スーパーの袋の中に入れる。


放課後──火曜日の恒例である買い出しを終えてから、一度家に帰った俺は、康太のお見舞い用に買ったゼリーとか飲み物とかを袋に詰めていたところだった。


学校が終わったら、康太の様子を見に行こうかと思ってたんだけど、メッセージを入れても既読がつかなかったので、たぶん寝てるのかなと思い……それなら、ドアノブにお見舞いだけ引っかけておくことにしたのだ。ちょっとしたメモも入れて。


──「こっち」には休みはないんだもんなあ。


普段、滅多に風邪を引かない康太が体調を崩すなんて、すごく心配だけど……今の康太は、風邪の他にも心配すべきことがある……【条件】だ。どんな時でも実行しないと、康太に明日はない。そう考えると、このメモはある意味「お薬」だ。


『大好きな康太へ


具合はどう? もうあんまり無茶はしないこと。いつでも頼ってね


瞬より』



こうやって文字にすると恥ずかしすぎるな……。


ちょっと冗談っぽく書いてみたけど、やっぱり、そわそわして、字のバランスが悪くなってしまった。

でもまあ、今日はこうするしかないんだから……と俺は自分に言い聞かせる。


それから、俺は康太にメッセージを送り、康太の家のドアにスーパーの袋を引っかけた。……できれば、実春さんより先に康太が見てくれますように、とお願いして。


康太の家を後にして、マンションの階段を上りながら、俺はふと、考えた。


──そういえば康太って、俺が風邪を引いた時はどうやって伝えてくれたんだろう。


前に澄矢さんから聞いた話だと、康太が【条件】を受けていたのは、確か今年の始め頃からだったらしい。ということは、俺が年明け早々に風邪を引いてしまった時には、【条件】を受けていたってわけで……あの日は確か──。



──『折り鶴だ』


──『金ねえし、紙も西山に貰ったやつだけど。やるよ、千羽鶴だ』


──『一羽しかいないけどね』


──『気持ちは千羽ぐらいある』


──『ふふ……何言ってるの?』



そうだ、確かあの折り鶴の中に──そこまで辿り着いた時、俺は懐かしいことを思い出した。


あれは、小学生の時のこと──。

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