5月25日②
──ぺら、ぺら。
冷たい長机に頬を押し付けるみたいに突っ伏して、ただ、猿島がページを捲る音だけを聞いていた。
文芸部室には、本のページを繰る音と、備え付けのデスクトップパソコンが低く唸る音、ドアの向こうの図書館の足音くらいしか、音らしい音はなかった。つまり、いつもは聞こえない音が聞こえるくらい、今は誰も口を開いていないってことで……。
『……ごめん』
気付いたら、俺はそう呟いていた。すると、俺の向かいで文庫本を開いていた猿島が顔を上げる。
『何がー?』
『その……せっかく、テストが終わって、部活再開したのに……何か、俺がこんなで』
言いながら、おもむろに身体を起こす。ここに来てから、三十分くらいそうしてたからか、背中が痛い。俺が軽く伸びをすると、猿島はまた本に視線を戻して、言った。
『別にいいよー……むしろ、いつもが脱線しすぎなんでしょ。本当はこうやって、まったり本読むのが正解なんじゃないの、文芸部』
『そうかな……』
『そうそうー……あ、お茶でも淹れよっかなー』
猿島が、椅子を立とうとしたので、『俺が淹れるよ』とそれを止める。
『じゃ、お言葉に甘えてー』
俺は戸棚から、電気ケトルと緑茶のティーパックと急須を取り出す。部室にある小さな流しで電気ケトルに水を入れて、コードを差す。スイッチを押して、あとは、急須にティーパックを入れて、お湯が沸くのを待つだけだ。
『……ふう』
電気ケトルのオレンジのランプを見つめて、息を吐くと、猿島が言った。
『……瞬ちゃん』
『何?』
『……何かあった?』
『……』
──ある。
ただでさえ、勘の鋭い猿島に、俺が隠し事なんてできるわけがない。いや、猿島じゃなくたって、部室に来て、暗い顔で突っ伏してる人がいたら『何かあったんだろうな』って思うだろう。これ見よがしなポーズは、誰かに聞いてほしいっていう合図だ──それは、俺もたぶんそうで……。
『瞬ちゃん?』
『俺……』
不思議そうに俺を見つめる猿島に、俺は……意を決して、打ち明けた。
『康太のこと、好きなんだ』
猿島が目をぱちくりさせる。それから言った。
『え……何、今更』
猿島の言ったことに、今度は俺が目をぱちくりさせた。
『え、今更って……あ、俺の好きはそういう好きじゃないんだよ……?』
『え……何、今更』
全く同じ反応だった。
俺が『え、えー……?』と首を傾げると、猿島が『こっちこそ、えーなんだけどー』と笑う。それでも、俺が納得いかないっていう顔をしたからか、猿島はこう言った。
『じゃあ一応……どういう好きか訊いてもいいー?』
『それは……うん。その』
いざ訊かれると、胸がどきどきして、やっぱり言おうか、躊躇う。だけど、じっと待ってくれた猿島に、俺は、自分の気持ちを確かめるようにしながら、言った。
『康太とずっと一緒にいたくて……でも、ただそばにいるだけじゃ足りなくて、誰とでもできるわけじゃないことも康太とならしたくて……それから、康太が誰かのものになったりしてほしくないって思う……好き』
『……』
猿島が開いていた本をぱたんと閉じる。それから目を閉じて、椅子の背もたれに身体を預け、ふっと息を吐いてから言った。
『重てー……』
『えっ、お、重い……?』
予想外の言葉に戸惑うと、猿島が『なんてね』と、身体を起こして言った。
『そりゃ、そんなのずっと抱えてたら疲れちゃうよー……よく一人で頑張ったねー。えらい』
『えらくないよ……いっぱい、たぶん康太に迷惑かけてる』
昨日のこととかも、そうだ。いきなり泣きだして、康太は優しいから、何も言わないで寄り添ってくれたけど……すごく戸惑わせたと思う。しかも、その後はろくに話もできないままになってる。
かろうじて、間に准が入ってくれてるから、朝やお昼は一緒だけど……二人ではほとんど話してない。
お互い、相手に怒ってるとか、そういうんじゃないことは分かってる。ただ、距離と時間が必要なだけだと……長い付き合いで察して、でもいい加減、そろそろ、そうもいかないなとは思ってて……。
──どうしようかな。
『試練』の期限は近づいていて、康太が俺と准……どちらを選ぶことになるのか、その答えが出る日はすぐそこに迫っている。康太が俺を想っていないとは思わないけど、はっきりと大丈夫とも確信はない。基準はすごく曖昧で、康太は意図せずとも、どちらかを選択することになってしまうかもしれない。
そういう意味でも、このままではいられない……俺は。
そんなことを考えていると、猿島が訊いてくる。
『瀬良は……気付いてるの?』
『……どうかな。気付いてるとか、気付いてないとかじゃないと思う。康太にはたぶん……俺にそういう気持ちはないよ』
言ったことで、それはより事実として、俺の前に立ちはだかった。
──気づきたくなかったから、俺は今まで……前に進まなかったんだな。
予防線を張るみたいに、気付いてるフリをしながら、本当にその事実に触れるのは怖くて……「もしかしたら」を信じたいから、進むフリをしてたんだ。俺は今やっと、そのことに気付いた。
『……どうしようもないよね』
気付いたら、どうしようもなく苦しくて、俯いて、つい、そんな弱気を口にしてしまう。その間にも、電気ケトルはぶくぶく言い出して、もうすぐお湯が沸くな──なんて、ぼんやり頭の隅で思った時、猿島が言った。
『あるんじゃない?』
『え……』
顔を上げると、猿島は何でもないような顔で言った。
『瀬良にはないけど、瞬ちゃんにはあるじゃん。重くていっぱいになっちゃうくらい……それなら、瀬良にそれ、分けてあげれば?』
『わ、分けるって……どうやって』
『色々。瞬ちゃんが、誕生日に瀬良をここで祝ってあげたり、お弁当の玉子焼きあげてたりみたいに。瞬ちゃんが思ってること、瀬良にも分けたらいいよ。いや』
猿島が腕を組んで宙を見上げる。それから、こう言い直した。
『分からせる、って方がいいか。瞬ちゃんって結構負けず嫌いだし』
その時、カチ、とケトルのスイッチが鳴った。
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