5月25日
『そんなこと分かってるよ、准も。俺も。分かってて、康太にしたんだよ。分かってて、康太はそれをできる相手だから、したの』
──頬を叩かれたような思いがした。
『康太が、好きだからしたんだよ……それが、どんなことか、分かってて。何もかも……』
肩を震わせてそう言った瞬が、ふっと息を吐く。瞬の頬を涙が伝って、床に染みを広げるのに気が付いた時、俺は息を呑んだ。喉の奥が、息をするだけで、苦しくて、痛かった。
『瞬……』
泣いている瞬を、俺はいつもみたいに抱きしめて、背中をさすった。瞬は俯いたまま、俺の腕の中で、声を押し殺して泣いていた。
でも、そんなのは、俺がただ、自分の痛みから逃れたくて、瞬を慰めるフリをしているだけかもしれない。だから、瞬が俺の腕を解かなかったことに、何よりも俺は安心していた……ひでえ奴だ。
しばらく、そうしていると予鈴が鳴った。それが合図みたいに、瞬は俺の胸を手のひらでとん、と押して言った。
『ごめん』
『……っ』
腕を解いて、瞬を離す。何か言うべきだと思ったが、俺が口を開くよりも前に、瞬は一人で行ってしまった。
──『分かってるよ』
一人、残された俺の頭の中では、瞬の声が響いていた。
その声はやがて、俺の中のぽっかり空いた穴に吸い込まれて、遠くなっていった。
☆
「こーうた」
ふいに、背後から名前を呼ばれて、思わずびくりと肩が跳ねる。振り返ると、夕陽に輪郭を照らされた准が笑っていた。
「……びっくりさせんなって」
「へへ、康太がぼーっとしてるのが悪いんだよ」
言いながら、准がその辺の机の天板に腰掛ける。本当、兄貴とは似ても似つかない行儀が悪い奴だな……。
その時、ふと、机に座って足をぶらぶらさせていた准の視線が、俺の手元で留まる。
「何してるの?」
「資格の勉強」
「え、康太死ぬの?」
「失礼な奴だな……」
机に広げた試験の参考書とノートに、准が目を丸くする。そういや、准には俺が資格を取るために来月試験を受ける話はしてなかったけど。俺は腕を組み、准を見据えて言った。
「就職するためには資格があった方が有利なんだよ。准だって、いい加減、真面目に進路のこと考えろよ。何志望なのか知らねえけど」
「康太のお嫁さん」
「馬鹿言うな」
しれっと冗談みたいなことを言うのでそう返したんだが、ふと、昨日──瞬に言われたことを思い出す。
──『康太が、好きだからしたんだよ……それが、どんなことか、分かってて。何もかも……』
──准の、あれも、これも……もし、冗談なんかじゃなかったら……。
「本当だよ」
俺の考えを読んだみたいに、准はそう言った。准の目は真剣だった。真っすぐに──半ば、俺を責めるような視線で刺していた。
「本当って」
俺がそう訊くと、准は言った。
「本当に康太のお嫁さんになりたいってこと。康太と結婚して、康太の子ども産んで、康太がおじいちゃんになって死んじゃうまで一緒にいたいってこと。康太が言った、『将来そうするべき奴』は康太がいいってこと」
准はまるで、教科書でも読み上げてるみたいに、淡々とそう言った。感情のこもらない声は、これが本心とも冗談とも、どちらとも捉えられるようにしているみたいだった。
──いや、俺がそういう風に思って、気付かないようにしているだけか……。
目の前にあるその「可能性」と向き合うのが、何故だか、俺は怖かった。
向き合わなければいけないと分かってるのに、目を逸らしたかった。
何か答えなければいけないのに、逃れたかった。
すると、そんな俺に、准はゆるゆると首を振って言った。
「まあ、どっちでもいいよ。こんなこと……これはあの子のための『試練』だから」
「何の話だ……?」
ぴょん、と机から降りて微笑む准は、俺が知ってる准じゃないみたいだった。
──俺が、知ってる……准?
ふと、そんな何でもないことが頭に引っかかる。
俺が知ってる准……瞬の双子の妹で、幼馴染で、顔も声も瞬そっくりなのに、性格は全然似てなくて、昔からよくひっついてきて──昔?どれくらい昔だ?准に出会ったのはいつだった?そもそも──。
「康太」
「……っ!」
准に呼ばれて我に返る。
「……何だ?」
俺が訊くと、准はにこりと笑って、俺に握った両こぶしを差し出してきた。
「いいものあげる」
「いいもの?」
「どっちか選んでよ」
突然、そんなことを言われて、眉を寄せた俺に、准が「早く」と急かす。
仕方なく俺は──准の左手を指した。准は「いいの選んだね」と言ってから、拳をゆっくり開いた。
握られていたのは──。
「何だよ、これ……丸まった紙?ゴミじゃねえか」
「康太、最低」
准が呆れたように俺を睨む。俺に怒っている時の瞬そっくりだ……なんて思っていると、准がその紙の正体を教えてくれる。
「一昨日かな。洗濯カゴの中から発掘したんだけど……これ。褒めてよね」
「洗濯カゴ?何でこんなもんが──」
渡された紙きれから顔を上げた時にはもう、准はいなくなっていた。
何だったんだ、と思いながら、再び紙きれに視線を戻した時、ふとそれが、ルーズリーフを丸めたものであることに気付いて──。
── 一昨日……そういやこれ……。
『い、いいの……ちょっとしたメモ書きみたいな……そんなのだから』
俺はその紙を広げて、中を見た。
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