5月26日

「おはよう!康太。昨夜はよく眠れた?……いや、何か違うな……」


朝、家の鏡に向かって、俺は首を傾げていた。ダメだ、これじゃ全然よくない。

「そんなわけねえだろ」と怒る康太が目に浮かぶ……うーん。


「おはよう、康太。今日も一日、頑張ろうね……?」


これも違うよなあ……なんて、試行錯誤をしていると、鏡越しにニヤニヤしている澄矢さんと目が合う。


「な、何?」


「瞬ちゃん……意外とやるやんなあ」


「……」


やるっていうのは、まあ、もちろん「昨日のこと」だろう。


「なんや、男らしくて、儂もドキドキしたわ」


「う、うるさい。俺は今、どうやったら康太と普通に挨拶できるかシミュレーションしてるの。邪魔しないでよ」


「そんな怒らんでもええやん……」


俺に睨まれた澄矢さんが、肩を竦めてから、居間の椅子にどっかりと腰を下ろす。


ふと、時計を見ると……もう七時四十分だ。そろそろ家を出ないと。


──といっても、まだ心の準備ができてないけど。


昨日──俺は、康太にキスをしてしまった。それも、前みたいに頬じゃなくて、唇に。


してしまった、と言ったけど……あれは自分の意思だ。


自分の意思で、康太に……俺の気持ちを分けたいと言うか、猿島風に言うなら、「分からせ」たくて、した。


──『そういう好きを、知ってるのか?』


あんなことを、康太が訊いてくるから。


あの後、康太も俺も……また、全然口を利けなくなってしまって。結局、マンションに着く前に、康太の方が「コンビニ寄って帰る」と逃げてしまった。正直なところ、俺は助かった……と思ってしまった。自分でしたくせに。


家に帰っても、准は姿を見せなかったし、俺は一人で……「康太があんなことを訊くのが悪い」と「康太の大切なものを勝手に奪ってしまった」という思考を繰り返して、全然眠れなかった。


そのくせ、そんな思いまでして手に入れた「康太の唇」の感触は、あっさり消えてしまったんだから、何だかなあという感じだ。


「もっかいしたらええわ。今度は窒息するまでしたらええ」


「うるさいもう本当、静かにして」


階段を降りながら、また現れた澄矢さんを睨む。そんなことをしてたら、うっかり段差を踏み外してしまって──。


「わっ……!?」


「瞬!」


すんでの所で、誰かに腕を掴まれる。でも、こんな風に俺を助けてくれる人は世界にたぶん、一人しかいない。


「……」


「……康太」


俺を支えてくれたのは、やっぱり康太だった。


「おはよう」


「……お、おはよう」


いざ、会ったら、何だろう……意外なほど、あっさりと挨拶できた。


でも、康太の方は俺と目を合わせてるようで……視線は制服のネクタイの辺りに遣っていた。面接で緊張しないコツかな?それに、耳たぶも少し赤かった。


そんな色んなことに気付いたら、何だか、俺の方の色んなことはどうでもよくなってしまって……何もかもすっ飛ばして、俺はやっぱりこう思った。


「好きだよ、康太」


康太はもう、「おう」とか、何も言わなかった。


ただ、俺を見つめて──まだ康太の中にはないのかもしれない「そういう好き」の意味を転がしているように見えた。

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