2月19日
【条件】
1.毎日0:00〜23:59の間に、立花瞬に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、立花瞬が「自分に対して言われた」と認識すること。
2.1の条件を与えられたことは決して、立花瞬に悟られないこと。
3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。
☆
「んー……いい天気だねー」
「わん!」
瞬に答えるように足元でとことこ歩いているタマ次郎が吠える。
瞬の言う通り、今日はよく晴れていて、風もあまりなく、絶好の散歩日和だ。近所の家の庭では梅が咲いていて、春は確実にすぐそこまで来ていると感じられた。
俺と瞬は、今日も今日とてテスト勉強をしていた。今日は母親が家にいるので、瞬の家で。
昼飯を挟みつつ、三時間くらいやったところで、瞬が「天気も良いし散歩に行こうよ」と誘ってきた。
いい加減、身体もかちこちになっていたし、勉強にも飽きてきたので「いいな」と乗ったのだが……。
『わんっ!』
そこで、瞬に内緒で、リュックの中に入れて連れてきていたタマ次郎が吠えてしまったのだ。
瞬はびっくりしていたが、俺は「母さんが犬苦手だから、実は内緒で預かってるんだ」と咄嗟に誤魔化した。それで分かってくれた瞬は「それならタマ次郎も一緒に、また公園に行こう」と言い、今に至る。
「何で俺ん家に来るだけなのにリュックなんだろって思ってたけど……まさか、タマ次郎がいたなんてね」
「黙っててごめん。どうしてもって言われて、預かってんだ。母さんには言えないし、瞬も内緒にしてくれると助かる」
「いいよ。タマ次郎のためだもんね」
瞬が足元のタマ次郎に笑いかける。タマ次郎は尻尾を振って「わふ!」と鳴いた。すっかり、瞬に懐いたみたいだ。
それもそのはず。すれ違った他の家の犬や、通行人には相変わらず怯え気味だが、そういう時は瞬が抱えてやったり、目隠しになってやったりして、上手く守ってくれているのだ。こういう事の積み重ねで、タマ次郎も瞬のことを信頼したんだろうな。
──それなら、返してやれよって思うけど。
一見すれば、タマ次郎は普通の犬だが、中身は「神」だ。
とてもそうは思えないが、抜けた毛や排泄物が消えたり、あの一回きりではあるが言葉を話したりするのは、やっぱり普通じゃないからな。本当なんだろう。
それだけならまだしも、こいつは、ただの「神」じゃない。
クソ矢の口ぶりから察するに、たぶん、クソ神とは違う「神」。
瞬から「感情」を奪った奴だ。
それを思うと、この光景は複雑だった。
『そいつはな……お前に死なれたら困るから、瞬ちゃんがそんなことを思わなくなるようにしたってことや』
俺に死なれたら困る、か。
クソ矢を始めとする「あっち側」の連中は、俺に死なれると困るらしい。あんな条件をつけてきたくせに、だ。
そのあたりの事情は俺にはさっぱりだが、実際、俺は今生きてるし、もしも死んだ方がいいってなら、正月のあの晩に、俺はとっくにクソ矢に殺されてるだろう。つまり、そこは間違いないはずだ。
だから、タマ次郎がやったことはあいつらにとって悪いことじゃないはずなのだ。それなのに、タマ次郎は「殺されかけていた」って言うじゃねえか。
と、なると。
──瞬の感情を奪ったことが、あいつらにとって都合が悪いことなのか?
瞬の感情は、俺だって返してほしいと思う。
そのためなら、俺はムカつく神どもと協力するっていうのもアリなのか?
「馬鹿なこと考えとるんやないで」
ふと気がつくと、隣にクソ矢がいた。俺は前を歩く瞬とタマ次郎を見遣る。……この距離なら聞こえねえか。そう思って俺は返事した。
「……何がだよ」
「神様と協力することや。絶対ありえん」
「『ライフライン』はアリなのかよ」
「あれは『こっち側』としてやっとることちゃうわ。儂の独断やし」
「……お前には俺に手を貸すメリットがあんのか?」
「なきゃやらんわ。慈善事業ちゃうし」
「そうだよな」
聞くまでもないことだったな。そう思っていると、クソ矢は言った。
「協力がありえんっちゅうのは、あの犬の中におるんが、瞬ちゃんの感情を奪ったことに関してや」
「何でだよ。てっきり、お前らにとって、瞬の感情が奪われたことは都合が悪いことなんじゃねえかって思ったんだが」
「都合は悪いで。そら、取り返したいわ。でもな、それを解決しようとするための方法が合わんねん」
「方法があんのか?」
それならもっと早く言えよ、と文句を言う前に、クソ矢が先に口を開いた。
「それがあの犬を殺すことや。殺して、取り返す」
「……っ」
数メートル先の穏やかな風景とは、まるで別世界のような響きだった。
「な、何でだよ……殺したら取り返せないんじゃねえのか」
だって先週、クソ矢は俺に、「瞬ちゃんの感情を奪ったこいつが殺されたらお前も困るやろ」とか言って預けてきたじゃねえか。
「そう言うただけで、別に取り返せないとは言うてないで」
「こいつ……!」
けらけら笑うクソ矢に手を上げかけたが、「意味ないか」と我に返り、拳を引っ込める。
すると、ふいに真面目な顔になったクソ矢が「なあ」と言ってきた。
「お前も、瞬ちゃんの感情を取り返すためなら、あの犬ごと中の奴殺したってもええって思うか?」
──そんなの。
俺は「神」が嫌いだ。人の倫理観から外れた連中で、こいつらの内輪揉めなんか知ったことじゃないし、そんな奴らがどうなろうと別にいいはずだった。瞬の方がよっぽど大事だ。
だからクソ矢の問いに俺は「ああ」と頷けるはずだった。
でも、できなかった。
瞬が大事そうにあいつを抱えてるのを見たらできなかった。
あんなのは、見かけだけなのに。
俺は見かけに騙されたくなんかないのに。
悔しいが、俺はどうしようもなく人間だった。この一週間で、あいつの命に、情が湧いてしまっている。
答える代わりに俺は呟いた。
「……クソ」
それを聞いたクソ矢がふっと笑う。
「……やっぱあいつを、あの形にしたんは正解やったわ」
「……ここまで計算の内ってことかよ」
「何でもこう上手くいけばええけどな。でもそうやない」
「まあ何でもええわ」と、クソ矢は言った。
「あいつを殺したくないなら、殺してでも取り返したいっちゅう神様とは合わんやろ。儂もそうや。逃げだしたあいつを捕まえるっちゅう体で、今は合わせてるフリしとるけど」
「お前の言う神様って、あのクソ弟だよな」
クソ矢は頷いてから言った。
「
「本当かよ……」
つくづく、俺達とこいつらは違うんだと思う。よくもまあ、こんな連中を信じられる奴もいるもんだ。
俺は呆れながら言った。
「……いつまでもこうしてる訳にはいかねえだろ。殺すことは当然できねえし、かと言って他に方法はねえんじゃ、どうすればいいんだよ」
「方法はあるやん」
「どんな?」
俺がそう訊くと、クソ矢は言った。
「あいつが殺される前に、瞬ちゃんが自分から感情を返してほしいって思うことや」
「……どうやってだよ。瞬は感情を奪われたとは思ってねえだろ」
瞬はこいつらのごたごたなんか知るはずがないし、そもそも自分が感情を奪われたって自覚さえないだろう。
「奪われたとは思わんくても、何かが欠けとるなっていう感覚はあると思うで。途中まで書いていた小説も書けなくなっとるし」
確かに。
『あの話を書いていた時に俺が考えていたことが、ちょっと分からなくなっちゃって』
──自分のことなんだ、気づくよな。
「それが何なのか知りたいと、瞬ちゃんが強く思えば、それはあいつにも届く。そしたら、あとはお前次第や」
「……俺?」
「せや。そもそも、瞬ちゃんの感情奪ったんは、お前が万が一にでも死ぬ方選ばんようにやし。せやから、あとはお前が何があっても死ぬ方は選ばんって覚悟決めてくれたらええ」
「安心しろ。絶対選ばねえ」
──瞬と約束したからな。
「ふん……」
俺の言葉をクソ矢は鼻で笑った。
「……神は、人を信用せん。せやから、人に何かさせる時『条件』で縛っとるんや。けど」
クソ矢は、俺に背を向けて言った。
「お前のそれは信用したってもええわ」
それだけ言うと、瞬きの間にクソ矢はいなくなっていた。
☆
「瞬」
「んー?」
公園のベンチで休憩している時だった。
太陽に向かって伸びをしていた瞬に、俺は話しかける。グランドを駆け回って遊び疲れたタマ次郎は、俺達の間で眠っていた。
「何」
瞬が俺を見つめる。口を開いてはみたものの、何て言っていいか分からない。
すると、瞬がそんな俺をくすくす笑った。
「な、なんだよ。笑って」
「だって康太、すっごい難しい顔してるから。そんなに悩むようなことあるの?」
「あるわ、俺だって」
ていうか、瞬のこと考えてんだろ……とは言えないか。
そうとも知らず、瞬が身を乗り出してくる。
「俺でよかったら話聞くけど」
「ナンパか」
「黒マスクしてないよ」
瞬が頬を膨らませるので、俺は首を振って「冗談だって」と言った。
「ちょっと……今は自分で考えてえことなんだ」
「そっか」
瞬は頷いて、口を結んだ。たぶん、俺から言わない限り、これ以上はもう聞いてこないと思う。
俺は空を見上げた。
──瞬が、自分で……か。
こればっかりは、俺がどうこうできることじゃない。瞬が自分で決めることなんだよな。
だけど、悠長にそれを待っていたら、タマ次郎の……中にいる奴は殺される。
そうなったら、瞬は自分の意思に関わらず、欠けたものを取り戻しちまうんだよな。
──もし、いらなかったとしても。
一瞬考えて、いや、これも俺が決めることじゃねえな、と思い直す。
瞬が奪われた感情を取り戻してやりたい……なんて、漠然と思ってはいたが、結局、全ては瞬が自分で選ぶことだろう。
俺は、瞬が選んだ方を尊重する。
とりあえず、今の俺がやるべきなのは、瞬の気持ちを確かめることだった。
「……瞬」
「ん?」
タマ次郎の背中を撫でながら、瞬が返事する。
どう切り出そうか迷ってから、俺は口を開いた。
「瞬は……前に書いてた小説、また書きたいって思うか」
瞬は「んー」と少し考えてから言った。
「書きたいって思っても、今は書けないと思う」
「書いてた時の気持ちが分からない……だっけか」
「うん。書いてみたい気持ちはあるんだけどね……でも書けないことに向き合うのは苦しいから、今は無理かも」
「それを……知りたいとは思わないか」
「え?」
瞬がタマ次郎から顔を上げる。
「書いてた時の気持ち、また知りたいって思うか」
「それは……」
瞬は俯いてしまった。だから今、どんな顔でどんなことを考えているのかは分からない。
待つしかなかった。
やがて、瞬は言った。
「……分かんないや」
「分かんない?」
「うん。知った方がいいって言う俺もいるし、知らないままの方がいいって言う俺もいるんだ。だから、今はどうしていいか分かんないや」
「そうか……」
「康太は」
瞬は俺の目を見て訊いた。
「あれがどんな話になるか知りたい?」
「俺は……」
あの小説を見てしまった時のことを思い出す。
綺麗な字、何度も書き直した跡、名前のない登場人物──瞬が書きたかったこと。
「俺は、知りたい」
膝の上で拳を握りしめる。
「瞬があそこまで何度もやって、形にしたかったことが何なのか、知りたいって思う」
「そう、なんだ……」
瞬は俺から、どこか遠くへと視線を遣った。俺は首を振って言った。
「……もちろん、もう勝手には覗かねえよ。瞬がいいって言うならだ」
「別にいいよ。康太は読んでもすぐ眠くなっちゃうだろうし」
「そんなことねえよ。この前のだって、なんだかんだ言ったけど、ちゃんと最後まで読んだしな」
「ふーん?」
瞬は全然信じてなかった。本当だってのに。
「前も言ったけど、俺、結構好きなんだ。瞬が書いた小説読むの。こういうこと考えてたんだなって……瞬のこと知れるし。だから」
「分かったよ」
瞬はベンチから立ち上がると、俺の方を振り返って言った。
「康太がそう言うなら……まあ、頑張ってみるよ。俺も……知りたいとは、少し、思うから」
「まあ分かんなかったら投げちゃうかもしれないけどね」と瞬は笑った。
その時、タマ次郎がむくりと起き上がった。欠伸をして伸びをしたのを見て、瞬が「帰ろうか」と言った。俺もベンチから立ち上がる。タマ次郎もベンチから降りて、風に揺れる草原の上に並んだ影が三つ伸びた。
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