【はじめての『指〇〇』】
──じゃー……。
薄暗い洗面所で、丁寧に手を洗う。指の付け根、爪の間に至るまで、いつもの何百倍も手間をかけて、無心で洗った。
この後することを考えたら当然だ。
泡を水で流して、側に掛かってるタオルで手を拭いてから、俺は自分の手のひらを見つめ、思い返す。
──『……今一人でしてたこと、俺に、瞬の口で、してほしい』
──『へ……?』
教室で一人、【ノルマ】のために自分の指を舐めていた瞬に、『最低なお願い事』をした後。
『……い、今?』
するつもりはあったんだろうが、まさか今からそうなるとは思わなかったのか、瞬はぱちくりと目を瞬かせて、俺に訊き返す。
……まあ、本当は今週中に達成すればいいんだから、別に今じゃなくたっていい。だけど、俺の直感が「やるなら今だ」と告げていた。
俺は、瞬に頷いて答えた。
『……今だ』
『こ、ここで……?』
『……ここで』
瞬がきょろきょろとあたりを見回す。もちろん、教室は二人きりだし、このくらいの時間だと、フロアにもそんなに生徒は残ってないだろう。だが、瞬は首を振った。
『ここはだめ……す、するなら、俺の家でしよ……』
『よし、じゃあ帰ろう』
『あ、え、えっと……ま、待って!』
自分の席に掛けておいたリュックを肩に提げると、瞬が俺の手を掴んで引き留める。『どうした?』と振り返ると、瞬は戸惑い気味に俺を見つめて、言った。
『こ、康太は……俺に、こんなことされて、いいの……?』
『いいに決まってる』
そう言うと、瞬が『本当に?』と訊いてきたので、俺は『ああ』と頷いて言った。
『瞬になら、してみてほしいと思う』
ここでしなかったら、【ノルマ】のために一歩踏み出そうとした瞬が、一人で恥ずかしい思いをして、この場は終わりになる。
一緒に乗り越えるって決めたんだ。それなら、俺も……同じ、恥を背負う。
『康太……』
俺のその想いが伝わったのだろうか。瞬は、掴んだ俺の手を少しの間じっと見つめてから、顔を上げて──俺に微笑んだ。
『……ありがとう』
──そんなわけで、今に至るわけだが。
「そ、その……俺が、教室であんなことしてたから、こんな流れになっちゃって……ごめんね」
借りた洗面所で、ぴかぴかに手を洗ってから瞬の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろすと、瞬も俺の隣に腰を下ろす。
申し訳なさそうに俯いてそう言う瞬に、俺は首を振って返した。
「いいだろ、そんなの。逆にアレがなかったら、どういう流れで……したらいいかも分かんなかったし」
「それはそうだけど……」
「それに、俺は……瞬が、ああいうことしてるのを見て、ちょっとその……」
「……実は、引いた?」
「いや、そうじゃない。そんなわけねえだろ。むしろ──」
これ以上、瞬だけに恥ずかしい思いをさせないように、ここは俺が率先して恥ずかしい奴になるべきだ。
……そうは分かってるが、その先を言うことを躊躇ってしまう。ダメだ、俺。しっかりしろ。
俺は自分を奮い立たせるため、おそらく人生最初で最後になるだろうが……頭の中の森谷に「力を貸してくれ」と頼んだ。よし。
意を決した俺は、瞬の手を取って、真っ直ぐに目を見つめてこう言った。
「瞬が、自分の指を咥えて、舐めてるのは……すごく、エロくて良いな……って。俺の指も『瞬に舐められたい』って叫んでるぜ……」
「……」
瞬は固まってしまった。瞬きもせず、俺を見つめる瞬は、石にでもなっちまったみたいだった。そのうちに、きゅうーっと、みるみる顔が赤くなっていく。……マズい、瞬に恥ずかしい思いをさせないように、と思ったのに、余計に恥ずかしい思いをさせてしまった。
俺は瞬に「おーい」と顔の前で手を振った。すると、ふいに、瞬がはっとした表情になる。それから、すぐに俺から視線を外した瞬は、もじもじしながら、俺に言った。
「……こ、康太は、やっぱり、俺のこと、そういう風に、見てるんだ」
「え?まあ……ま、前も言っただろ。瞬に、そういう気持ちはあると思うって……」
「キモかったらごめんな」と言うと、今度は瞬の方がぶんぶんと首を振る。
「こ、康太じゃない人に、そんなこと言われたら嫌だけど……でも、康太なら、そんなことも……あの、なんていうか」
──ぼそぼそ、と瞬が小さな声で言う。よく聞こえなかったので、「瞬?」と首を傾げると、瞬は「もう」と困ったように眉を下げつつも、もう一度、さっきよりもはっきりと聞き取れるように、俺に言った。
「……そんな風に、康太に見られるのが、ちょっと、う、嬉しかったり」
「しゅ、瞬」
──とんでもないことをお互いに言い合ってると思う。
だけど、実は、瞬に恥ずかしい思いをさせたくないとか、そんなことはもしかしたら、建前かと思ってしまう程。
こんな風に、本心をさらけ出すようなことが、不思議と心地良いような気がした。
こんな体験を積み重ねていったら、ひょっとしたらいつか──なんてことをつい、考える。
──でも、今は焦らない。
「康太」
瞬は俺の右手を取って、いつか、毎日キスをするのが習慣だった頃みたいに、手の甲に唇を触れさせる。
それから、俺に言った。
「上手くできないかもしれないけど……俺、康太が気持ちいいって思えるように、頑張るね……!」
「よし」と声に出して、気合いを入れた瞬が、俺の手を前に、ふう、と深呼吸する。
そして、恐る恐る……人差し指の先っぽを口に含んだ。
「ん……」
──あったかい。
柔らかい唇に挟まれて、瞬の口の中に指先が入って、真っ先に感じたのは温度だった。
人の口の中に指を入れるなんて、もちろん人生で初めてだったし、ほんの一瞬、背中がそわっとした。だが、その生温かさと、何よりも……小さな口をすぼめて、俺を上目遣いに見る瞬の姿で、すぐにそれどころじゃなくなる。
「んふ……ん、ほうひゃ……?」
たぶん、俺のことを呼んだらしい瞬が、俺の様子に首を傾げる。俺は、ばくばくと鳴る心音を誤魔化すように、瞬に「続けてくれ」と言った。
「ん……」
小さく頷いた瞬が、もう少し深く指を咥えこむ。指の腹が瞬の舌に触れて、ぬるりと唾液が指に絡むような感触がある。
それから、瞬はたどたどしく、指の腹をちろりと舐めた。くすぐったいような感覚に、つい、身体がぴくりと反応する。
「……っ、ん」
ちろちろと舌を動かしながら、瞬がそんな俺の反応を窺ってくる……正直、ぞくぞくした。
──ただ指を咥えるだけって思ってたけど……これ……。
うっかりすると、理性が飛びそうになる。平静を保とうと、俺は瞬の頭にぽん、と手を置いて、もっともらしく言った。
「いい感じ……だと、思う」
「ん、ちゅ……ふぁ……よ、よかった……」
少し息苦しくなったのか、瞬は一旦、指から口を離した。指先に絡んだ唾液が、糸を引いて瞬の口元まで繋がっているのが、艶めかしくて、どきりとする。空いている方の手の甲で、瞬の口元を拭ってやると、糸はぷつんと切れて、なんだか惜しいような気分になってしまう。
すると、そんな俺を慰めるように、瞬はさっきまで咥えていた人差し指の背をつうっと舐めて見せた。今まで意識したことが無い、瞬のピンク色の綺麗な舌がちらりと見えて……また、ぞくぞくする。
それに、指を舐めながら、時々、俺を窺う瞬の目が、不安げでありながらも、慈愛に満ちていて、それがまた、堪らなかった。
「……瞬、っ」
開いてはいけない扉が開きそうになるのを、なんとか抑え込んでいると、指の根元をぺろりと舐めた瞬が、言った。
「ん……まだ……クリアって、出ないね……」
「……そう、だな」
瞬の言葉に、俺は少し、落ち着きを取り戻す。そうだ……そもそも、これは【ノルマ】を達成するために、やることになったものだ。
だから、クリアさえすれば、別にそれ以上はする必要はない……が。
「お、俺……もう少し、やってみるね」
そう言って、瞬がまた俺の指を咥える。今度は、指先に軽く吸い付いて、さらに、指の腹や背を、アイスでも溶かすみたいに、じっとり、大切に舐める。真面目で清純な瞬の頭は、一体どこでこんなことを覚えてしまったんだ……と思っていると、瞬が指を舐めながら「へっほへひはへへ(ネットで調べて)」と教えてくれた。
……瞬は頭が良くて、物覚えも悪くないし、何より真面目で素直だから、読んで練習すれば、それでできてしまうのだろう。こんなことに、瞬の大切な頭の容量と能力を割いてしまったことに罪悪感が湧いた。
でも同時に、瞬にこんなことをさせているのは自分で、そして、瞬が自らこんなことをする相手も……自分だけなのかと思うと、背徳的な、味わってはいけない悦びをふつふつと感じてしまう。
「瞬……」
俺は、自分の指を愛おしそうに口に含む瞬の髪を手のひらで掻き分けるようにゆっくり撫でた。一瞬、くすぐったそうにぴくりと反応した瞬だったが、すぐに、負けじと……なのか、俺の指をさらに深く咥えて、舌を這わせた。
「ん、ふぅ……ちゅ、っ、ふぁ……」
ちらちらと俺を窺う余裕もなく、口の端から唾液が零れるのにも気付かず、夢中で指を舐める瞬。その姿に、さっき閉じかけた扉がまた開きそうになってしまう。俺は瞬に言った。
「しゅ、瞬……あんまり咥えこむと、えづいちまうから……」
「ん、ふぁ、ふぁひほふふ……ん、はぁ……」
──大丈夫だって言うけど。
瞬はもう結構深くまで、指を咥えている。ノルマをクリアするために……ってのも、あるだろうが、たぶんこれ、やってる方が、何か火が付きやすいのかもな……。現に、咥えられてるだけの俺ですら、さっきから理性を保つのがいっぱいいっぱいだ。逆だったらどうか分からない。
それにしても、これ以上、瞬がヒートアップしてしまったら、少し危ない。俺は、瞬を窘めるつもりで、上顎のあたりを指先で軽くくすぐった。すると──。
「っ、ひぁ?!」
びっくりした瞬が、慌てて、指から口を離す。かなり、驚いたのか、瞬の目にはうっすら涙が浮かんでいて、「康太……」と俺を睨んでくる。俺が「しょうがないだろ」と宥めると、瞬は頬を少し膨らませてそっぽを向いてしまった。
その時、俺は視界の端に表示が出たのに気付く。
【ノルマが達成されました】
「瞬。見ろよ、達成できたみたいだ」
「あ、本当だ……」
瞬と揃って、宙に出たその表示を見つめる……ひとまず、俺達は新しい【ノルマ】を達成したわけだが。
「そ、その……康太」
「ん?」
瞬が俺のシャツの袖をくい、と摘まむ。表示から瞬に視線を遣ると、瞬はおずおずと俺に訊いてきた。
「お、俺……ちゃんと、できてたかな」
俺は少し考えてから、答えた。
「……やばかった、と思う」
「……上手くなくて?」
「いや……なんていうか」
最初で最後だと思ったのに。俺はもう一度、あの「変態」の力を借りて、瞬に言ってやった。
「瞬に舐められる俺の指は幸せだな……ってなるくらい、だった」
「え……」
これにはさすがの瞬も、戸惑い四割、ドン引き六割という反応だった。
だけど、ややあってから、ふっと笑った瞬は、また俺に「ありがとう」と言った。
こうして俺達は、「乗り越える」ための一歩を……選びようのない状況で、だけど、そこには自分達の意思も確かにあった上で、一緒に踏み出したのだった。
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