絶対に気持ち良くなってはいけないスパリゾート24時 終


『──康太……おい、康太……』


──なんだよ……。


風呂場で反響したみたいなぼやけた声が頭に響く。重い瞼を持ち上げて目を開くと、よく知った天井が目に入った。

俺の部屋だ。


──もう朝か……。


カーテンの隙間から漏れる陽が眩しい。腕を伸ばしながら、ゆっくりと身体を起こすと、いきなり頭をわしわしと撫でつけられる。


『……って、なんだよ、おい』


『おい、じゃねえだろ。康太、とっとと起きろ』


『は……?』


聞き覚えのある声が降ってきて、見上げると、そこには──父親が仁王立ちしていた。


『父さん……?なんで……』


──なんで、俺の部屋に。


状況が飲み込めず、じっと目の前の父親を見つめる。すると、父さんはきょとんとした顔で『なんでって』と言った。


『そりゃあ、いるだろ。ここは俺達の家なんだから。康太こそなんだ。人をまるで幽霊が化けて出て来たみたいな目で見て……まだ寝ぼけてんのか?』


『いやだって、父さんは──』


と言いかけて、俺は何を言おうとしたのか……その先の言葉が出なかった。そうだ。


──父親が家にいて、それの何が変なんだ。うちは、ずっとそうだっただろ……。


父さんの言う通り、俺はまだ寝ぼけてるのかもしれない。俺は父さんに『何でもねえ』と言って、ベッドを降りた。


『早く支度してこい。朝飯に遅れると、また母さんに怒られるぞ』


『分かってる』


父さんにぽん、と背中を叩かれて促される。先に部屋を出た父さんの後を追い、俺は身支度を済ませて、居間へと行った。


『なあ康太。お前、瞬ちゃんとはどうなんだよ。上手くいってるのか?』


居間で、朝食のパンを齧っていると、向かいでコーヒーを啜っていた父さんが、いきなりそんなことを訊いてくる。母さんは、ベランダで洗濯物を干しながら、それとなく聞き耳を立てている……ような気がした。もう、いつものことだ。

幼馴染の瞬と付き合ってるって、両親に打ち明けてから──特に父親の方は、毎朝こんな調子だから本当に困る。面倒くさいので、俺は無難に返した。


『うるせえな……別に、まあ普通にやってるよ……』


『やってるってのは、つまり、やってるってことか?』


『そういうことじゃねえ!その……普通に、健全に、学生らしく付き合ってるってことだ』


『へえ』と、この父親は、訊いたくせに、さして興味もなさそうに相槌を打つ。一度置いたコーヒーをまた一口飲んで、テレビの方に視線を遣ったので、とりあえず……今日はもうこの話は終わりだろう。だが、そうはならないのが、厄介なところで──。


『じゃあ、最近いつキスした?』


『はあ!?』


父親の放り込んできたとんでもない直球に、眉を寄せると、父親は『だってよ』と悪びれもせずに行った。


『その、最近の健全な学生とやらが、どのくらいの頻度でしてんのか気になるだろ。ちなみに、俺は昔──ってぇ!?』


耳を塞ぎたくなるような話が始まる前に、母親が父親に制裁を下す。叩かれた頭を押さえながら、父親が『実春……』と呻くと、母さんは呆れた顔で父親を見ながら言った。


『朝から馬鹿な話してんじゃないよ……全く』


『実春だって気になるだろ。康太と瞬ちゃんがどうしてんのか……こいつ、あんまりそういう話しねえし。最近、家でもちょっと、すかしてるだろ。だから気になってよ……』


『すかしてねえよ』


『あんたは毎日毎日うるさいのよ。康太だってもう高三なんだから、放っておけばいいじゃない。それに、余計なこと言わなくていいのよ』


『いいじゃねえか、参考になるだろ。なあ、康太。俺と実春もな、お前らみたいに幼馴染だったんだよ。俺の方が歳は上だけどな。で、中学生の時に──』


『いい、別に。両親のそういうの聞きたくねえから!』


『おい、ちょっとくらい聞いてくれたっていいだろ。そうだ、付き合ってすぐの頃だったかに実春が──ってぇ!?』


『康晃!あんた、くだらないこと話してる暇があったら、早く仕事行きなさいよ。本当、しょうがないわね……』


母さんに背中を思いきり叩かれて『分かったよ』とやっと、父親は席を立つ。カバンを持って、居間を出ようとして──俺の方をくるりと振り返って言った。


『じゃあ、行ってくるな。康太、ちゃんと勉強して来いよ。お前は受験とはちょっと違うけど、就職でも試験はあるんだからな。それから、瞬ちゃんに迷惑をかけるなよ。イチャイチャするのも適度にな。瞬ちゃんも受験あるんだから。あ、そうだ。今日は暑いから、外歩く時は気を付けろよ。水分ちゃんと摂れ。それから──』


『早く行け』


しっしと手で払うと、父親は頭を掻きながら、居間を出て行った。

俺も部屋に戻って、荷物を取って来ようと、居間を出る。玄関では、両親がいつものやり取りをしている。


『暑いからね、ちゃんと水分補給すんのよ。あんたすぐ無茶苦茶するんだから』


『大丈夫だって。俺ももう歳だし、弁えてる。安全第一、だからな』


『その歳だから心配なんでしょ……事故とか、気を付けるのよ。この前ニュースで、どっかの作業現場で、大きな事故があったって──』


──事故……。


その言葉に、俺は妙な胸騒ぎがして、足を止める。父親はいつもみたいに、にっと笑って言った。


『ああ。あれがあって、うちも一層、ぴりぴりしてんだ。大丈夫。実春も康太も置いてなんかいけねえよ。心配すんな……じゃ、行ってくる』


そう言って、父親が玄関のドアを開けて出て行く。俺は父親の言葉に、焦りを覚えていた。


まるで、まるで──このドアの向こうに行ったら、父親はもう、二度と、帰ってこないような……そんな。


『──父さんっ!!』


俺は弾かれたように、父親の背中を追った。戸惑う母親を押し退け、玄関のドアを開けて、外へ出る。


だけど、遅かった。その向こうに、父親の姿は──もうなかった。


『……っ』


じわじわと蝉が鳴く。蜃気楼のように景色が歪んでいく。頭の中で鳴るような蝉の声が増していく。意識が、少しずつフェードアウトしていく……。


──まだ、父さんに……俺は……。


──父さん……。




「──っ!?」


はっと意識が戻って、身体を起こす。荒い呼吸を繰り返しながら、あたりを見渡す──そこは、「極楽天」の部屋の、ベッドの上だった。


──夢を、見ていたのか……?


「康太……?」


「……っ、瞬」


呼びかけられて、隣を見る。起きていたのか……丸い瞳で、瞬は俺を見上げていた。だけど、すぐにその顔がはっとなる。


「康太」


「瞬……?っ」


瞬は身体を起こすと、親指で俺の目尻を拭った。それから、ぽつりと言った。


「……泣いてる」


「え……?」


瞬きをしながら、今度は自分の手で目元を拭う。本当だ。

俺は、泣いていた。


「なんで……」


思わず、そう呟いたが、なんでかなんて、本当は分かっていた──あの夢だ。


──父親が、生きて、普通に……俺の家にいる夢。


幼い頃に、母さんから「父親がもういない」ことを聞いてそれから……全く想像しなかったってことはなかった。

もしもうちに父親が……写真の中のこの人がいたら、どんな感じだったのかってこと。


それは今まで単なる空想でしかなかった。

だけど、さっき見た夢は。違う。


父親は、俺のどの想像よりも──騒がしくて、面倒くさくて、厄介で……大きな男だった。


それを知って見る夢は、あまりにもリアルで……何かがひとつ違えば、本当にこんな「今」があったんじゃないかって、そう思うには十分すぎるもので。


だからこそ、こんなに……知らず知らずのうちに胸に開いた穴の存在に気付いてしまって。


──俺は今、初めて……あの人を失ったんだ。


「……っ」


止めようにも、涙は止めどなく頬を伝って流れていった。それを見た瞬は、何も言わずに、俺の肩をそっと抱き寄せて、頭を撫でてくれた。


「悪い、瞬……」


「いいよ。何も気にしないで……そのままでいていいから」


「……っ、う……」


腕で目を覆って、俺は泣いた。


──どのくらい、そうしていただろう。


「……っ」


鼻を啜って、息を整える。


「……落ち着いた?」


心に沁みるような、優しい声でそう訊いた瞬に、俺は鼻声で「ああ」と頷く。

すると、瞬は「じゃあさ」と言った。


「少し……お散歩に行く?」


「散歩……?」


「うん。霧がかかってるけど、晴れてるし、ここ……お庭もすごく綺麗だったでしょ。ちょっと、出てみようよ」


「……」


俺は窓の外を見遣った。瞬の言う通りだった。気分転換……にはいいかもしれない。

悪くない、と思った俺は瞬に頷いた。瞬は柔らかく微笑んでから、俺の手を取って「行こうか」とベッドを降りた。





タブレットを通して、瞬は父親に連絡を取ってくれた。寝る前に聞いた話もあるし、外へ出るなら、念のため父親に伝えた方がいいと思ったからだ。父親は「庭なら、今は大丈夫だ」と言って、早速、俺達が業務用エレベーターを使えるように手配してくれた。


『俺はちょっと今、立て込んでて、案内できそうにねえんだ。悪いな』


タブレット越しにそう言った父親の言葉に、俺は少しほっとしていた。あんな夢を見て、泣いた後に──どんな顔で父親に会っていいか、分からないからな……。


そんなわけで、俺達は今、最初にここへ来た時にも通り抜けて来た庭園を歩いていた。バラとか、あとは……名前は分からねえけど、綺麗な花が色とりどりに咲く庭は、よく手入れがされているように見えた。父さんが配慮してくれたのか、庭には他の宿泊客の姿も、従業員らしき人の姿もなく、静かで──レンガでできた桟橋の下を流れる小川のせせらぎだけが聞こえてきた。


「いいところだね」


「そうだな……」


交わす言葉は少なかったが、俺と瞬は手を繋いで、庭をゆっくり眺めて回った。それだけで、さっき感じた胸の中の空白は──埋めようはないけど、ただそこから、隙間風が心に入らないように、覆われていくような心地がした。


しばらく歩いたところで、俺達は手近なベンチに腰を下ろして一休みする。

相変わらず言葉はなく──ただ、心地の良い沈黙が流れる。しばらくそうやって、ぼんやりしていると、ふいに、瞬が口を開いた。


「康太」


「ん?」


「……ずっと、一緒にいようね」


そう言って、瞬が俺の手を握る手にきゅっと力を籠めた。温かい。その言葉の奥にある想いに、俺は頷いて、瞬の手を握り返す。

それから、俺は瞬にぽつぽつと語った。


「……俺、さっき父さんの夢を見てたんだ。もしも、父さんが生きてて、うちにいたら……って夢」


「そうだったんだね……」


「とにかくうるさくてよ……想像つくだろ。毎朝、部屋にまで起こしに来て、飯食ってる時だって、瞬とはどうなんだとか、しまいには、母親との惚気話まで始めて……本当、騒がしくて。でも」


瞬が小さく顎を引いて頷く。俺は続けた。


「ああ、もしかしたら、こんな日々が……俺にも、母さんにも、あの人にも、本当はあったんだなって思ったら、どうしようもなくて……俺、自分が失ってたものの大きさに気付いちまって……それで」


「うん……」


「知らなきゃよかったって……少し思った。会いに行くって決めたの、自分なのにな。どんなことになるかだって、想像つかなかったわけじゃないのに。あの人を知ることが、どんな意味を持つのか、本当は知ってたはずなんだ。なのに……」


「……」


──それでも。


「それでも……そればっかりでも、なかった。俺は……あの人のことを、やっぱり、知れて良かったって思う。あの人が俺を想ってくれてたこと、ちゃんと知れて……良かった。あの人が、瀬良康晃が、どんな人だったか、知れて良かった。会えて、良かったって思うんだ」


「……康太」


その時、瞬がふっと笑う。俺が首を傾げると、瞬は俺にこう言った。


「言ってあげたら」


「言うって……」


「今、康太が言ったこと。康晃さんに」


俺は頭を掻いた。


「……恥ずかしすぎる」


「喜ぶよ、きっと。ものすごく」


「……そうか?」


「恥ずかしがってる場合じゃないでしょ。それに、康晃さん言ってなかった?時間は……限られてるって」


──父親にそれを言われたら、敵わない。


俺ははあ、と息を吐いてから「分かった」と言って──決心した。


──ここを出て、帰る前に言おう。これがもう……最後になっちまうんだから。


「ぼちぼち行くか」と瞬に言って、俺はベンチを立つ。部屋に戻ろうと来た道を辿ろうと、身体を捻った時だった──。


「……っ、クソ……康太……っ」


「……何してんだ」


──草むらの陰でしゃがみこんで、腕で目を拭う父親の姿があった。


「や、康晃さん……?」


「ぅお!?瞬ちゃん、康太……見つかっちまったか」


「そりゃあ、こんなすぐそばにいたらな」


「はは……悪い」


鼻を啜りながら、父さんは立ち上がった。「こんなところで何してんだよ」と訊くと、父さんは「いや」と、少し眉を寄せて言った。


「お前らに至急、言わなきゃいけねえことがあって──それで、庭に探しに来たらよ……たまたま、康太がすげえ嬉しいこと言ってくれてたから……ちょっと、そこで感極まっちまって……」


「聞いてたのかよ!さっきの」


「おう……悪いな。立ち聞きするつもりはなかったんだけどな……」


はは、と笑う父親に、顔がかっと熱くなる。クソ……まさか聞かれてたなんて、と思っていると、瞬が俺を肘で突いて、小声で「よかったね」と言った。俺は照れを誤魔化そうと、瞬を肘で突き返した。すると、父さんが「まあ、いいじゃねえか」と笑う。


「俺はさっきの、すげえ嬉しかったぜ。お前……良い子に育ったなあ……実春と瞬ちゃんに感謝だ」


「う、うるせえよ……」


「あんなこと言われたら、別れが惜しいじゃねえか……今更。もう吹っ切ったつもりなのに」


そう言って、父さんは、はあ、とでかいため息を吐いた。でも、それから、真剣な顔で俺達に言った。


「……けど、そうも言ってらんなくなっちまった。康太、瞬ちゃん……予定より短くなっちまって悪いけど、もうお前らを向こうに帰さなきゃなんなくなった」


「何か……あったんですか?」


瞬がそう訊くと、父さんは「ああ」と頷いて言った。


「さっきここへ来た新しい客がな……相当、危ねえ。盆時期だろ、たぶん……どっかで事故とかに遭っちまったんだろうな。かなり取り乱してて、こっち側のもんにも容赦ねえんだ。まあ、俺達はもう死ぬことはねえから、どうとでもなるけど、お前らはそうもいかねえ」


「そうか……」


もしかしたら、朝、父親が立て込んでたってのも、その関係かもしれないと思った。それなら──俺達はもう、ここにはいられないか。


「分かった」と頷くと、父さんは俺達を安心させるように、いつもの笑顔で「大丈夫だ」と言った。


「澄矢を呼んで、お前らを安全に向こうに帰らせる手筈を整えた。そのまま、ここに来た道を辿って、極楽天を出れば、合流できる。そうすれば、あとはすぐ帰れる。いいな」


「はい。色々と……ありがとうございました」


瞬が父さんに頭を下げる。父さんは瞬に「いいって、いいって」と頭を上げさせる。それから言った。


「ロクに構えなくて悪かったな。でも、瞬ちゃんに会えてよかったぜ。これからも、康太のこと、頼むな。あんまりヘタレだったら、たまには尻叩いてやってくれ。俺が許す」


「……はい」


瞬が笑うと、父さんは「元気でな」と瞬の背中をぽん、と叩いた。


「康太」


「……なんだよ」


その後は──俺の番だった。さっきのこともあったし、どんな顔でいたらいいか分からなくて……俺が少し身構えていると、父さんはいきなり、俺を抱きしめた。


「お、おい……なんだよ」


「お前に会えて、本当に良かった。叶うわけねえかって思ってた、俺の我儘だったのに……それでも、俺に会いに行こうって、決めてくれてありがとう。ほやほやの宇宙人みたいだったくせに、こんなに……すっかりでかくなっちまってよ……本当。俺、なんで──ここにいるんだろうなあ……」


「……父さん」


「実春のこと頼んだぞ。あいつ、強くて、何でもできちまいそうだけど……結構、涙もろかったり、心配性なんだ。あんまり心配かけんなよ。家の手伝いとかもしろ。あと、いい奴がいるなら、俺のことは気にすんなって言っといてくれ。あ、でも、俺はずっと愛してるからなっていうのもな」


「俺が、言うことじゃねえだろ……」


「そうだな」と、声を詰まらせながら、父さんは笑った。でも、俺も似たようなもんだった。それもそうか、俺はこの人の子なんだから。


俺は自分の中の、全部を込めて、父さんに言った。


「……ありがとう。俺も、父さんに会えて良かった」


「ああ……」


父さんは、俺の背中をぽんぽん、と二度叩いた。それから、俺を離すと、最後にこう言った。


「今度来るときは、なるべくしわくちゃになってから来いよ。俺よりでかい男になって来い……そん時は、十何年分どころか、もっともっと、何十年分の話をしような」


俺は瞬と顔を見合わせる。それから、大きく頷いた。


ここへ来た時と同じように、瞬の手を引いて庭を抜ける。自分で築き上げた巨大な城──「極楽天」を前に、父さんが俺達に手を振った。


それから、父さんはあの──最初に会った時みたいに、笑って、俺達に言った。


「またな!」


城が、父さんが遠くなっていく。前を向くと、少し離れたところで、クソ矢が俺達を「早くせえ」と呼んでいた。


俺と瞬は手を取り合って、駆けて行く。最後に、もう一度振り返った時、父さんはもう見えなくなっていた。


──だけど、俺の中にはちゃんと……あの人がいる。


代わりのない、埋めようのないものを失ったけど。


そこはもう空っぽじゃない。今は、あの人が俺に与えてくれたこと、託されたことが詰まってるから。


それを抱えて、俺は、元の世界へと戻る──。





──8月13日 AM 0:10。



「……っ、ここは」


暗闇の中で、目の前で光が弾けたような眩しさを感じて、目を開ける。薄暗い自分の部屋の中で、俺は……ベッドに寝転んでいた。


──クソ矢に聞いてた通り、だな。


とても長い時間──体感三日どころか、まるで一週間くらい……を、あの「極楽天」で過ごしたような気がするが、本当に、現世ではほんの十分程度しか経っていないようだ。


──どうせ十分程度でも、行くなら、深夜の方が怪しまれるリスクがねえって決めたんだよな……。


俺は朧げに、出発前のことを思い出す。父さんに会いに「極楽天」に行くと決めてから、瞬とそう決めたのだった。深夜なら、部屋で寝てても違和感がないし、万が一にも母さんに見つかって不審がられることもないからな。


クソ矢を呼び出したのは、瞬の家だったけど、たしか、向こうに着いた時に、「現世での身体は、それぞれの部屋に転がしておいた」って言っていた気がする。だから、俺が今いるここも──たぶん、俺の部屋なんだろう。


──の、割にはなんか違和感ある気がする、けど……。


まあいい。しばらく変なところに出かけてたからな。ちょっとした時差ボケっていうか──あの世ボケだろう。


──だから、この時の俺は、深く考えず、それどころか……「とりあえずトイレ行くか」なんて、思ってしまって。


部屋を出て、トイレへ向かう。灯りは点けなかった。夜中に居間とかの電気を点けると、母さんに怒られるからだ。

足音もなるべく立てずに歩いて、俺はいそいそとトイレに入った。そこで初めて電気を点ける。だが、まだ気付かなかった。


「違和感」の正体に気が付いたのは、いつも通り、ズボンを下ろして、パンツのゴムに手をかけたところでだった。


「ん……?」


俺はたった今、手をかけた自分のパンツを見つめる。あれ……俺……。


──こんなパンツ……持ってたか?


俺が履いていたのは──紺地にペンギンのイラスト柄のボクサーだった。

はじめ、見間違いかと思って、目を凝らして見たが、間違いない。ペンギン柄だ。


「俺……こんな、かわいいの持ってねえよな……?」


頭の中で、タンスの中の下着コーナーを漁ってみるが、ない。絶対、ない。

──と、なると。


「なんで俺はこんなパンツを履いて……って」


と、そこで、もう一つ、違和感に気付く。


「あー……あー……あれ」


──声が、俺の声じゃ……ない?


自分で聞く自分の声は、実際とは違く聞こえる……って話は聞いたことがあるが、それにしてもだ。

明らかに、俺の声じゃない。この声は──。


「……まさか」


俺はそこで、ある可能性に思い当たる。でも、ありえない可能性だ。常識では考えられない。


だけど、その常識には考えられない出来事を──俺はついさっき、経験してきたばっかりだ。


予感に突き動かされて、俺は洗面所へと向かう。そして鏡を見て、はっとした。俺──。



「瞬に、なってる……」



──鏡に映る俺の姿は、なんということだろう。俺の身体は……瞬になっていた。

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