7月31日
「な、なんで瞬がここにいるんだよ」
ベッドに腰を下ろして俺を待っていた瞬に、俺は歩み寄る。
すると、瞬は「だ、だって」と照れながら、上目遣いに俺に言った。
「康太に早く会いたかったから……来ちゃった」
「ここ三階だぞ」
来ちゃった、で説明が付く場所じゃないだろ。
すると、俺の言いたいことを察したのか、瞬は部屋の窓を指さした。
窓際では、開いた窓から吹く夜風でカーテンが揺れていた……マジかよ。俺はため息を吐いた。
──瞬ひとりで、どうこうできることじゃねえし……もしかして、クソ矢か?いや、でもあいつはもう、いないはずだろ。
あの世界で別れを告げたはずだ。じゃあどうやって──なんて考えていると、瞬が俺の寝間着の袖をくいくい、と引いた。
「だ、ダメだったよね。こんなの……」
「ダメっていうか……」
呆れるべきか、でもやっぱり嬉しいような──あまりにも突然すぎて、こんがらがる気持ちを、俺は何て言おうか迷った。
だけど、瞬の丸い瞳が不安げに揺れていることに気付いて、俺は、素直にこの状況を受け入れることにした。
「そりゃあ、俺も……会いたかったし」
「……ふふ」
俺がそう言うと、瞬は安心したようにふわりと微笑んだ。その顔を見たら、なんだかもう、どうやって瞬がここに来たのかとか、外から病室に不法侵入とかこの病院のセキュリティは大丈夫なのかとか、そんなことはどうでもよくなってしまって。
俺は、瞬の隣に腰を下ろして、瞬の肩をそっと抱き寄せた。瞬はそれに身を委ねるように、俺の肩に頭をこてん、と載せた。
「よかった……本当に。康太が戻ってきてくれて」
「ああ……心配かけてごめん」
「いいよ、もう」
しばらくそうしていると、心が満たされていくようだった。肩に載る瞬の温かい重みが、心地いい。
──だけどそんな穏やかなひと時は、長くは続かない。
──コツ、コツ……。
「……まずい」
「康太?」
その時、部屋の外で人が歩いて来るような気配がしたのだ。あれはたぶん──。
「見回りの看護師かもしれねえ。もうすぐ、部屋に来る。見つかったら、大変なことになる……」
「え、ど、どうしよう」
そこまで考えてなかったのか──と内心、思いつつも、今は、この状況を切り抜ける方法を考えるのが先だ。ひとまず──。
「わ、……ん、んぅっ!?」
「静かに。この中に隠れろ」
驚いて声を上げそうになった瞬の口を手のひらで押さえつつ、俺は、瞬を布団の中へと引っ張り込む。
ついでに、俺もその中に入って身を隠した。
「……っ、も、もう行った?」
「待て、まだだ……」
ドアの向こうに耳を澄ませて、じっと耐える。
やがて、足音は部屋の前を通り過ぎていき、完全に聞こえなくなった。おそらく、もう大丈夫だろう……。
「悪かったな、いきなり……って」
「……っ」
布団の中の瞬に声をかけた時、俺はようやく──自分が、瞬を組み敷いてるような体勢だったことに気が付いた。これは──。
「ご、ごめん」
「い、いいよ……」
お互い、ぎこちなくそう言葉を交わして、ひとまず、俺は瞬の上から退く。瞬も、俺からほんの少し距離を取った。
「……」
「……」
一つのベッドの中で、お互いに並んで寝てるような状態で、しばし、沈黙が続く。
ふいに、すぐそばで、瞬が身体をもぞもぞと動かす気配があった。
「……康太」
「瞬」
瞬は身体を横にして、俺を見つめていた。俺も瞬と同じようにして、瞬を見つめる。
吐息がかかりそうなほど、互いが近い。
──なんか……マズいだろ……これ。
心臓がうるさく鳴る。そこから身体に熱い血が送られていくような感覚があった。頬が熱い──何だよ、これ……。ふと、瞬の顔をまじまじと見ると、瞬も頬を赤く染めていた。俺は手を伸ばして、その柔らかい頬に触れる。
「熱いな……」
「こ、康太だって……」
瞬も俺の頬に触れてくる。触れ合っているところから、どうしようもなく、お互いの存在を感じてしまう。これ以上は──マズい。
──それなのに。
「……康太」
布団の中で、瞬が俺にもう一歩、身体を寄せてきた。さっきよりも近く、もう鼻先が触れ合う距離だ。ほんの数ミリ先には、瞬の、形が良くて柔らかい唇がある。俺はごくり、と唾を飲んで──自制する。
俺は、瞬の頬から手を離しながら言った。
「しゅ、瞬……これ以上は」
「い、いいよ……」
ごく小さな──こんな距離でなかったら聞き逃していたくらい小さな声で、瞬は言った。
「さっきの、『いいよ』は……そういう、『いいよ』だから……」
そう言って視線を外す瞬の目は、俺に何かを求めていて──その時、ふと、「奴」が俺に言い残していったことを思い出す。
──俺が、きみにしたことはもう一つある。
──この際だから、それも返してあげるよ……まあ。
──もういらないかもしれないけどね……。
でも。
──……その大事なところで察しの悪い「鈍感」ぶりが、多少はマシになるんじゃない?
……もうとっくに、引き返せないところに来ているんだと、俺は悟った。
「瞬……」
「康太……」
瞬が目を閉じる。俺はゆっくりと瞬に顔を寄せた。
そして、夢のようにふわふわとした感触が、俺の唇に触れて──。
。
。
。
「……俺は、最低だ」
──7月31日 AM 9:12。
荷物一式を詰めたカバンを脇に、ベッドに腰掛けて迎えを待っていた俺は、文字通り昨晩の「夢のような」出来事を反芻していた。
そう──あれは、夢だった。
よく考えればすぐに分かる。瞬があの時間、この部屋にいるわけないし、病院のセキュリティは、一介の高校生が突破できるほどザルじゃない。それに、瞬は……あんなこと言わないだろ、たぶん。
だから、目が覚めて、あれが夢だと気付いた時、俺はなんというか、何とも言えない気持ちになった。
がっかりというか、自分への失望というか、呆れというか……本当、なんというかだ。
俺は、でかいため息を吐いて、ぼやく。
「……瞬が恋しくてあんな夢見たなんて、絶対言えねえな」
「康太!来たよ!」
「──!?」
いきなりドアがガラガラと開いて、思わず、びくっとなる。
我に返ると、まるで、昨日の夢で見た瞬みたいに、本物の瞬が、俺を不思議な顔で見つめながら、部屋に入ってくる。
「どうしたの?そんなに、びっくりした?」
「……いや、なんでもねえ」
目を丸くする瞬の顔を、できるだけ見ないように、首を横に振る──今、顔を見たら、余計なことを思い出しそうで。
──だけど。
「そう?」
瞬は首を傾げてから、改めて、俺の顔を見て──それから、ふっと笑って言った。
「おかえり、康太」
そう言われたら、もう──俺が返すべきことなんて一つしかない。
「……ただいま、瞬」
俺も、瞬の顔を見て、それに応える。
今度は二人して、笑った。
ひとしきり笑うと、笑いすぎて涙が出たのか、瞬はそれを拭いながら、ふうと息を吸って──それから、言った。
「康太」
「何だ?」
「ぎゅー……って、抱きしめていい?」
ちゃんと聞かれると恥ずかしいから困る。こっちは昨日の今日なのに。
でも、俺が言うことは決まってる。
「……いつもしてるだろ」
そう言って、俺の方から瞬を抱きしめた。瞬も俺を抱きしめ返す。
俺達はしばらくそうやって、再会した喜びを分かち合っていた。
瞬が俺の脇に置かれた荷物を持ち上げながら、言った。
「お腹空いたんじゃない?帰ったら、俺と実春さんでいっぱいご飯用意してるからね」
「おう、もうめちゃくちゃ腹減ってる……ありがとうな」
「実春さんにも言ってね」
「……分かってる」
部屋を出る前に、もう一度忘れ物がないかチェックする。
指さし確認をする瞬に思わずふっと笑うと、瞬は「いいでしょ」と頬を少し膨らませた。
それから──。
「もう、早く行こう。実春さんが下で待ってる」
そう言って、瞬は俺の手を取った。
その手はいつかの時みたいに、包み込むように、だけど絶対に離さない力加減で繋がれる。
俺はそれをしっかりと握り返して、歩き出した。
こんな風に、手を取り合って繋いだ、俺と瞬の縁は──。
それは、明日からもずっと──続いていく。
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