5月5日 こどもの日
「待ってくれ!」
逃げようとした俺の腕を康太が掴む。振り向くと、微かな月明かりの下で、縋るように俺を見つめている康太と目が合った。
「康太……」
俺は康太に歩み寄る。靴の裏で踏んだ砂利が鳴った。
すると、康太は、我に返ったようにはっとしてから、言った。
「……ごめん」
腕を掴んでいた力がふっと緩んで、康太が俺から手を引っ込める。でも、今度は俺がその手を握った。
【条件】も達成できたし、これ以上康太を混乱させる前に、もう逃げようと思ったけど──あんな顔の康太を置いて行けない。
いつかの時みたいに、俺は康太に言った。
「俺、ここにいるよ。どうしたらいい?どうしたら、今の康太の力になれる?」
康太は俺が握っている手をじっと見つめていた。しばらくそうしていたけど、俺は待った。康太は、俺が自分のことを上手く話せない時も、いつもこうやって待っててくれたから。今度は、俺がそうしたい。
じっと耳を澄ましていると、小川のせせらぎが聞こえた。風が草木を揺らすと、さわさわと耳に心地良い音がする。でも、ここは静かだった。
ややあってから、康太は口を開いた。
「……幻なんだろ」
何て答えようか迷った。でも、なんとなく──康太は、目の前にいる俺がそうであることを望んでいるような気がした。だから俺は言った。
「そうだよ」
「じゃあ、もう少し……ここにいてほしい」
それから、言い訳でもするみたいに「幻なんだから、別に忙しかったりとか、しないだろ」と言った。康太らしいな、と思って、俺はつい笑ってしまった。それを見た康太がため息を吐く。
「何だよ……本当、よくできた幻だな。自分でも大分引くぞ……」
そりゃそうだ。だって本物なんだから。もちろん、そんなことは言えないので……。
「そ、それだけ、俺に会いたいって思ったってことなんじゃないかな……なんて」
恥ずかしい!これはこれで言わない方がよかった。だけど、康太は妙に納得したような顔で頷いている。
「そういうことなのか……」
「どういうことなの?」
「いや……なんていうか、幻と対話して気付くって……こういうのを自給自足って言うんだなと思って」
「ちょっと違うと思うよ」
強いて言うなら自問自答じゃないかな。俺が本当に幻だったら、自給自足も、ある意味間違いじゃないかもしれない……けど。
「……とりあえず、康太はお家の中に戻った方がいいんじゃない?外は少し冷えるし、風邪ひいちゃうかもしれないよ」
康太が大分いつもの調子に戻ってきたみたいなので、俺はやんわり、促してみる。
もしかしたら、康太はもう大丈夫かも──なんて思ってたら、俺の予想は外れて。
「じゃあ……幻の瞬も、一緒に来いよ。幻だから、別に見つかったりしないだろ」
「え?」
そう言われるやいなや、俺は康太に手を引かれて、家──たぶん、おばあちゃんの家なのかな──に連れて行かれた。
──どうするつもりなんだろう……。
康太が引き戸をそっと開いて、玄関に上がる。俺も後をついて行った。その間、康太は俺の手をずっと握ったままだった。家の中に入ったら、宇宙船は呼べないけど……振り切って逃げようとは、もう思わなかった。康太ともうちょっと一緒にいるって言ったからね。
康太が泊まっているらしいおばあちゃんのお家は、昔ながらの平屋で、玄関を上がってすぐの居間を抜けると、和室が二つあった。
片方の障子戸の前を、康太は通り過ぎて行って、もう一つの方をそろそろと開ける。そこには間を開けて、布団が二つ並べられていて、一つの方でたぶん、実春さんが寝てるんだと思った。もう一つは、誰かさんが抜け出たまんまになってて……。
「……こっちで寝てるの?」
声を潜めて、康太に訊くと、康太は「ああ」と小声で返事した。
それから、康太が布団の上で胡坐をかいたので、俺はその側に、なるべく音を立てないように正座する。だけどそんな俺を、康太はじっと見つめてから……すごく小さな声で言った。
「もうちょっと……こっちに来れないか?」
「これ以上は、お布団の上に上がっちゃうよ。康太が寝られないよ」
「寝られる……いいから」
康太が手招きするので、俺は言われた通りにもう少し康太に寄った。すると、康太は布団に横になった。
「……」
──これは、俺も寝ろってこと?
横になった康太は、無言で俺を見つめていた。康太の見てる幻として、これは何が正解なの?俺は頭の中を必死にぐるぐるさせてみたけど……結局、俺も康太の隣で横になった。つまり、添い寝だった。
──合ってるのかな……これ。
布団は一人用だから、男二人で添い寝なんかしたら、すごく狭いし、康太が近い。なんとなく、耐えられなくて、目を閉じていると、康太が言った。
「瞬……」
「何……?」
「幻なんだよな……」
「……そうだよ」
薄く目を開けると、康太は少し、躊躇うように視線をうろうろさせてから、言った。
「寝るまで、そばにいてほしい」
「……うん」
俺が頷くと、康太の表情がふっと柔らかくなったような気がした。それから、康太は目を閉じて──どのくらい経ったかな。そのうちに、小さな寝息を立て始めた。俺は康太の頭を撫でてから、小さく呟いた。
「おやすみ、康太」
康太を起こさないように、そっと布団を抜け出る。障子戸を閉める前に、もう一度、眠っている康太を振り返った。
──『幻なんだよな……』
どうしてか、その康太の声は、俺の耳からしばらく離れなかった。
たぶん、それは、ほんの少し……やるせない気持ちになったからだった。
☆
──5月5日 PM 16:30。
──瞬、いるかな。
昼前に向こうを発って、大体三時間……大荷物を抱えての長旅を終えて家に着くなり、俺は土産を持って幼馴染の家の前まで来ていた。我ながら、どうかしてるとは思う……でもそれは、昨日からずっとだ。
──まさか、あんな幻を見る程、瞬に……会いたかったなんて。
あれはもう本当……恥ずかしすぎる体験だった。絶対に墓場まで誰にも言わず、持って行こう。特に瞬に知られるのだけはダメだ。恥ずかしいとか以前に、瞬の方もドン引きだろ。幼馴染が、自分の幻覚を見ていて、しかも……添い寝まで頼んでるとか。最悪の場合、絶縁されてもおかしくない。まあ、言ったところで、信じがたいことだとは思うが。
そんな、瞬に対するちょっとした後ろめたさと……それから、食べさせてやりたいもんがいっぱいありすぎて、土産を山ほど買っちまったんだけどな。
そうだ。俺は、日持ちがしないもんもあるから、忘れないうちにと思って、こうやって、帰ってすぐに瞬の家まで来たんだ。そういうことにしよう……と、誰に向けてか分からない言い訳をしてから、いつも通り、ドアを軽くノックする。いれば、それで返事があって、開けてくれるはずなんだが……。
「はーい」
期待通り、中からすぐに返事があった。どたばたと足音がすると、俺は何故か……少し緊張した。
早く出てきてほしいのに、もう少し待ってくれ、と思った。だけど、ドアは開いてしまって──。
「康太!おかえり」
「た、ただいま……瞬」
ドア越しに俺を見るなり、瞬が無邪気な笑顔でそう言ってくれたので、ほっとしたような、どこか胸がざわざわするような……そんなごちゃごちゃした気持ちになりながら、やっと返す。すると、瞬は俺が抱えている土産を見て、目を丸くした。
「何それ、すっごい量だけど……もしかしてお土産?これから配って回るの?」
「いや……全部瞬の分だけど」
「ええっ!?」
瞬が土産と俺とを交互に見つめる。やっぱり、ちょっと多すぎたか……なんて思っていると、瞬は突然笑い出した。
「何だよ、こんなにはいらなかったか?」
「ううん……ただ、康太って面白いなあって……ありがたくいただきます」
「……おう、貰ってくれ。瞬はいっぱい食うから、これくらいじゃないと足りないだろ」
「そうだね」
山のような土産を瞬に手渡す。瞬はそれをやっと抱えると、また笑って言った。
「でもさすがに食べきれないから、一緒に食べようよ。もうすぐ、中間テストになるから、勉強の時のおやつとかで」
「げ」
「嫌そうな顔しないの」
……全く、まだゴールデンウィーク中だってのに嫌なこと、思い出しちまった。まあ、いいか。
それから、適当に瞬と少し立ち話をして……ぼちぼち帰るって時だった。
「康太」
「ん?」
「……お土産ありがとう。好きだよ」
「おう」
いつものやつか。俺は瞬に手を上げて「またな」と言った。後ろは振り返らなかった。
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