7月17日 海の日
7月17日、午前0時──。
丑三つ時──にはまだ早いけど、神社の境内は何もかもが眠ってるみたいに静かで、風が草木を揺らす音も、虫の声さえ聞こえない。異様な空気に包まれていた。
──まるで、嫌なことを聞かされる前みたい……。
嵐の前の静けさってこういうことなのかな、とそんなことを考えながら、足を一歩踏み出す。
──『……最後に、瞬ちゃんに伝えたいことがある』
──『もしも、儂のことを……少しでも信じてくれるなら、来てほしい』
──『何もかもが始まった、あの場所で待っとるから』
朝……澄矢さんから送られてきたメッセージ。
そこには俺が望んでいた、【条件】の廃止とともに──こんなことが書かれていた。
──『今日から、あいつはもう自由の身になる』
──『せやけど、それは本当の意味での「自由」とは違う』
本当の意味での「自由」。
それは【条件】から康太を解放しても、康太にはまだ何か──澄矢さん達にも関わるような何かがあるってこと……なのかな。
俺と康太を縛る【条件】はもうない。
澄矢さんのことを……手放しで信用できるかと言ったら、それは、難しい。
相手は人ならざる存在で、価値観も何もかも、俺達とは違う。どんな目的があってかは分からないけど、康太の命を賭けさせたのは澄矢さんだ。そのくせ、俺を励ましてくれたり、協力してくれることもあった……だから、どんな存在と捉えればいいのか、俺自身、分からない。
だけど──。
──『瞬には、言うべきだと思ったからだ……俺の中の、こういうことを』
時々、顔を覗かせた、康太の中の……康太自身でさえも掴めない「暗い何か」が、引っかかる。
もしも、澄矢さんの言う「本当の自由」と、その「暗い何か」が関係あるのなら。
俺が、それに光を当てられるなら。
俺は行くべきだと思った。澄矢さんの待つ場所へ。
──俺は、康太が抱える全部ごと、康太のことが好きだから。
澄矢さんの待つ「何もかもが始まった、あの場所」はすぐにピンときた──きっと、あの神社だ。
俺と康太が初詣に行った神社。
──俺が、康太のことを願った神社。
朝の夢もたぶん、澄矢さんからのメッセージなんだと思った。前に、康太に変な夢を見せていたことがある。だから、そういうこともきっとできるんだろう。
神社に向かうと決めたら、あとは、いつ行くかだった。
よくは分からないけど……澄矢さんが言うには、「パス」というのが消えてしまったら、もう澄矢さんは俺とは関われないらしい。つまり、話をするなら、その前じゃないといけない。メッセージによれば、「パス」は、俺がメッセージを見てから、二十四時間以内に消えるらしいから、今すぐでなくても大丈夫だろう。
送り主が澄矢さんだと仮定すれば、そのルールの範囲内でなら「パス」を消すタイミングは、澄矢さんの手にかかってる……のだと思う。澄矢さんなら「ふしぎパワー」で俺が神社へ行く時間は分かるだろうし、それなら……なるべく人目につかない方がいいだろう。メッセージには、「第三者への情報提供はするな」って暗に書かれていたし。
それに、昼間に外出すると、うっかり康太に会ってしまうかもしれない。会ったらきっと、康太は俺がどこへ行こうとしてるのか訊いてくる。康太相手に上手く隠せる自信がないし……康太に、心配はかけさせたくないから。
──そんなわけで、人目を忍ぶように……俺はこうして、真夜中に神社へとやってきた。康太のため……とはいえ、正直、かなり心細い。それでも、なんとか自分を鼓舞する。
「大丈夫、瞬はできる。瞬はできる……」
拳を握って、呟いていた──その時だった。
「よっ」
「っ!?きゃ、きゃー!?」
いきなり、背後から誰かに肩を叩かれて、みっともなく声を上げてしまう。
ばくばくと跳ね上がる胸を抑えながら振り返ると、そこには、けらけらと笑う澄矢さんがいた。
「な、何するの!?すっごいびっくりしたよ!?」
「はは、すまんなあ。なんや、おててぎゅーって握ってぶるぶるしてて、可愛らしかったから。つい」
「ひどいよ!俺は、どんな話なんだろうって……どきどきしながら来たのに」
「まあまあ、リラックスしてや。せっかく、【条件】もなくなったわけやし、な」
澄矢さんがぽんぽん、と背中を叩く。全く、この適当関西人は──だけど、俺は半泣きになりながらも……とりあえず、澄矢さんに会えたことでほっとした。
ごしごしと目尻を拭っていると、澄矢さんがふいに、真面目な顔になって言った。
「……来てくれてありがとうな、瞬ちゃん。儂のこと、信じてくれて」
「……」
俺は少し考えてから、答えた。
「……康太のためだから」
「……それでええよ」
澄矢さんが頷く。そこで俺は一つ……気になっていたことを訊いた。
「【条件】から康太を解放するって、決めたの……澄矢さんなんだよね?一昨日訊いた時は、はぐらかしたのに……どうして、そうしてくれたの?」
すると、澄矢さんは「儂の一存やないよ」と言って続けた。
「確かに、上に進言はさせてもろたけど、まあ総合的に見て……やな。今の瞬ちゃんとあいつなら、それをしてもええと、上も含めて判断したっちゅうことや」
「それって……」
澄矢さんの言葉に、俺はかねてから気になっていたことをぶつけた。
「【条件】は、そもそも……どうしてそんなことを、康太に持ち掛けたの?」
前に訊いた澄矢さんの話だと、この【条件】はそもそも、はじめは康太に持ち掛けられたものだったらしい。その後、何かがあって、今度は康太ではなく、俺が実行することになった。だとしても、だ。
どうして、そんなことを康太がしなければならなかったんだろう。
澄矢さんは、キューピッドで、俺と康太を「くっつける」ことが目的だって言ってたけど、それなら【条件】だって、最初から康太じゃなくて、俺に持ち掛ければよかったんだ。
そんな俺の疑問を察した澄矢さんは、俺に「それはな」と言った。
「必要な過程やったからや。あいつを通すことがな」
「必要……?」
「儂らには必要やったんや、あいつに干渉するための『縁』が。それを作るための口実が【条件】やったんよ」
干渉?縁?
澄矢さんの言っていることは、よく分からない……どうして、澄矢さん達は、それほどまでに康太に関わろうとするんだろう。
──そういえば……「あの人」も。
めっきり、姿を見せなくなった「あの人」──「タマ次郎」も、康太のことにこだわっていた。
康太の何が、澄矢さん達をそこまで惹きつけている?
それは……康太の中の「暗い何か」と関係が、あるのかな。
じっと考え込む俺に、澄矢さんは言った。
「聡いなあ、瞬ちゃん」
「……澄矢さん?」
「それこそが、儂が瞬ちゃんをここへ呼んだ理由や。パスを消す前に、瞬ちゃんには、知っておいてほしいことがあんねん……あいつが抱えとること。あいつが向き合わなあかん、『本当のこと』」
「本当の……こと?」
「それは、私から話しましょう」
──ふいに、どこかから声がした。
静寂の中で波紋が広がっていくように響いた、その凛とした声の主は、数メートル先の本殿の方からゆっくりと歩いてきた。
「……託弓さん」
一見すると小さな子どもなのに、自然と背筋が伸びるような独特な圧を感じさせるその人は、俺の前で足を止めると、「瞬さん」と言った。
「まずは……彼に代わり、ここまで【条件】を実行してきたこと、ご苦労様でした」
「は……はい」
「一連の事は、兄様からも報告を受けています。イレギュラーな形とはなりましたが……ご自分の力で、よく、願いを叶えましたね」
「は……願い……?」
──願い。
その言葉で、俺はあることに気付く。そうだ……。
──この神社で、俺は……願ったんだ。
朝の、あの夢を見て思い出した──俺は、あの時、この神社で願ったんだ。
『康太に、好きって言ってもらえますように』
『両想いになれますように──』
──それを、この人の口から言うってことは……。
「あ、あなたは……」
「──神」
俺の言葉の先を掠め取るように、託弓さんが続ける。
「私達は『キューピッド』などではありません。この神社の、神です」
「へっ……?!」
思わず上げそうになった声を、手のひらで必死で抑えつつ、澄矢さんの方を振り返る。澄矢さんは頭を掻きながら「すまんなあ」と言った。
「あいつが神様とか嫌いやから、もしかしたら瞬ちゃんもあんまりええ印象はないかもなあ、思って。それになんや、神様って堅苦しい肩書やし、もっと、キャッチ―でとっつきやすいもんを名乗った方がええかなあって」
「正確には兄様は神ではなく、使いですが」
「まあ、瞬ちゃんからしたら、どっちにしても超常的な存在やし、そんな変わらんやろ?」
「……兄様のくだらない配慮で、余計な驚きを与えてしまったことは謝ります」
「……きついなあ」
託弓さんの物言いに、澄矢さんがため息を吐く。
確かに、澄矢さんの言う通り、キューピッドが実は「神様」だったからと言って、俺にとって何がどうってわけじゃないかもしれないけど。
それでも、俺はこの数ヶ月を振り返って「神様に対してちょっと失礼な態度をしてたかも」と、胸をどきどきさせていた。しかし、それを察した託弓さんが「気になさらなくて結構です」と首を振った。
「少なくとも康太さんは、我々を神と認識した上で、この上なく無礼でしたから」
「ご、ごめんなさい……!」
「瞬ちゃんが謝ることちゃうで」
この場にいない康太に代わって、頭を下げていると、澄矢さんに宥められる。
すると、託弓さんがぼそりと呟いた。
「……まあ、彼の不敬は、今に始まったことではありませんが」
「え?」
思わず聞き返すと、託弓さんは「いえ」と短く言葉を切り、「それよりも」と続けた。
「話を戻しますが……先程、兄様が言ったように、瞬さんには、パスが消える前に話すべきことがあります。ですが、その話をする前に、いくつか……我々のことについて説明しなければならないでしょう」
「神様のこと……について、ですか?」
「ええ……兄様」
「はいはい……」
託弓さんに視線で促され、澄矢さんがその横に並ぶ。「使いの使いが荒いわあ」と言いながら、澄矢さんは俺にいくつかのことを教えてくれた。
この世界には「神」と呼ばれる、人の営みを見守る存在がいること。
「神」は人からの「信仰」を得て、存在を維持していること。
「信仰」を得る方法はいくつかあるけれど、そのうち、最も多く「信仰」を集める方法が、人の「願い」を叶えることだということ。
「ですが──私達は、いわゆる『魔法使い』とは違います。人の営みに、人の為すことに、直接干渉することはできません。ですから、叶えると言っても、私達ができることは限られている」
「じゃあ、どうやって人の願いを叶えるんですか?」
「私達にできることは──人に気付きを与え、行動を促すことです」
「気付き?」
「瞬さんも体験したことがあると思いますが、例えば、『認識』を操作することなどが、それにあたります。人は『認識』が変われば、それに伴って、行動も変わりますから」
……覚えがある。前に、俺が康太を「恋人」だと「認識」していたことがそうだ。あの時の俺の行動は、確かに「認識」の影響を強く受けていた。つまり──。
「『認識』によって、人に、自ら、願いを叶えられるよう行動を促しているのです。私達が人にできることなど、言ってしまえばその程度なのです」
「でも、それなら……どうして、俺の願いは」
今の話を聞くと、俺の「願い」も、託弓さんが叶えようとしたのなら、俺の「認識」を操作して、行動を促していたことになる。だけど、俺の場合は──。
俺はある結論に辿り着き、恐る恐るそれを口にする。
「康太に【条件】をつけて──叶えようとしたんですか?」
「はい」
託弓さんが頷く。俺は──胸にナイフを突きつけられたみたいに、苦しくなった。
──それって……俺が願ったから、康太が、あんなリスクを負うことになったってことだ。
「それはちゃうよ」
思った瞬間、すかさず、澄矢さんが口を挟んだ。
「さっきも言うたけど、儂らはあいつに用があんねん。せやけど、儂らに祈りもせん、信仰もない奴に、勝手に関わることはできんから。瞬ちゃんの『願い』はいわば、あいつと関わるための口実──たまたま、ちょうどよかったから利用しただけや」
「願わなければ──などということも考えるのはおやめなさい。人が奇跡を願い、神を頼るのは通常の営みです。度が過ぎなければ──ね」
言いながら、託弓さんが目を伏せる。その言い方に、引っかかるものを感じた俺は、託弓さんに尋ねた。
「度が過ぎる……っていうのは?」
「……それが、本題です」
託弓さんが顔を上げる。
──本題、ということは。
「康太が……抱えていること、ですか」
「はい」
ひとつ、頷いてから、託弓さんは言った。
「あなた達はとてもよく似ています。お互いを想い、同じことを望んでいる。ですが、その性質は全く異なる」
波ひとつ立たない水面のような、静かな面持ちの託弓さんは、ややあってから、口を開いた。
「ここから先は──あなたへと託します。そのために、私は今からあなたに、この話をします。これはいわば、ここまであなたが毎日積み重ねてきた行いに対する、私達からの『信頼』の証──あなた方の言うところの、『ログインボーナス』とでも言いましょうか」
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