7月9日
【条件】
1.毎日0:00〜23:59の間に、瀬良康太に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、瀬良康太が「自分に対して言われた」と認識すること。
2.1の条件を与えられたことは決して、瀬良康太に悟られないこと。
3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。
☆
──最低だ。
──『瞬は──どっちがいいんだよ……』
頭の中では、昨日言ってしまったことが、いつまでもぐるぐると巡っている。
後悔と、自分への苛立ちと嫌悪、羞恥──色んな感情をぐちゃぐちゃに掻きまわされているような感覚で、気持ち悪い。身体に張り付いた倦怠感に負けて、俺は、机の上に突っ伏していた。
──何もする気がしねえ……。
明日は求人票の公開日だし、武川にも「夏休みは面接対策と教養試験対策をするように」と言われている。それに向けて課題も出てるし、やることは山積みだ。だが、ひとつもやる気が起きなかった。
もしも、瞬に「一緒に課題をやってくれ」なんて言ったら、瞬はここに来てくれるだろうか。
来てくれるだろうな。俺が怠けそうになったら、瞬は俺を上手く扱って、やる気にしてくれるし、休憩しながら他愛もない話をするのもいい。そういえば冷凍庫に、母さんが買ってきた、瞬が好きなアイスがあるし、おやつにはそれを出してやろう。
課題が終わったら、久しぶりにゲームをするのも悪くない。このところ、テスト勉強とかで、瞬とそういう風に遊ぶことはあんまりなかったしな。夏休みも、どこかに遊びに行ったりはあんまりできないだろうし──。
なんて。
「そんなこと、望む資格ねえよな……」
吐き出すように、独り言を言う。
──俺は、最低だ。
──『ど、どっちって』
──『そんなの、こ、康太の方が……いいじゃん。好きなんだから』
分かってて、瞬にあんなこと言わせたんだ。瞬なら、そう言うって、頭のずっと奥では分かってて。
それなのに、俺は瞬を試すようなことを訊いた。
瞬は毎日、真っすぐに自分の気持ちを、俺に伝えてくれているのに。受け止めると言いながら、俺は逃げている。そのくせ、その言葉が欲しくなって、あんなことをする。あまりにも身勝手で、最低だ。
──俺は、自分の気持ちからさえ、逃げてるってのに……。
全くもって、西山の言う通りだ。俺は、俺のずっと奥に仕舞っている自分の気持ちを覗くのが怖くて、「分からない」というコーンで、その先を塞いでいる。瞬とは、大違いだ。
「最低だ……クソ」
身体を包む怠さは、ますます重くなる一方だった。額を勉強机にくっつけて、しばらくそのままでいると、ふと──頭の中で声が響いた。
──『時が来たら、それを開いて──向き合うといいよ』
……『それ』?
「……」
気が付くと、俺は机の引き出しに手をかけていた。
「やめておけ」と身体の中で、もう一人の俺が叫ぶのに、身体の自由が効かないみたいに、手が止まらなかった。何かに導かれるように、俺は引き出しをゆっくりと開ける。開けながら、「そういえばここには」と思い出す。
──鶴、だ。
封の空いてないノートとか、使いかけの短い鉛筆とか、カバーのない丸くなった消しゴムとか──そんなものの中に埋もれるように、『それ』はあった。
──こんなに綺麗だったか?
記憶にあるよりも、『それ』──『赤い折り鶴』は、綺麗だった。角がきちんと合っていて、皺もない。昔、瞬から貰ったはずのその『鶴』は、もっとぼろぼろだったような気がするのに。
鶴を手に取った俺は、しばらくそれを、矯めつ眇めつしていた。そのうちに、俺はもう一つ思い出した。
そうだ、この鶴の中には──。
「……」
手から先が別の生き物になったみたいに、俺の意思を離れて、鶴が開かれていく。身体の中のもう一人の俺は「やめてくれ」と必死に叫んでいた。それをまた別のところから静観している俺がいて、そいつは俺を責めるような目で見ていた。
自分がばらばらになっていくような感覚に眩暈がして、息が苦しくなる。気持ち悪い、この感覚には、覚えがある。
──あの変な夢を、見ている時みたいな……。
ぐちゃぐちゃに溶けた景色が線と形と色を取り戻して、フラッシュバックする。
茜色の校舎、一人きりの境内、鈴緒の感触、鈴が鳴る音、賽銭箱──それから……。
──かこん。
「これ、は……」
開いた鶴の中から、何かが転がって、机に落ちる。
──それは、五百円玉だった。
ああ、そうだ。
その瞬間、俺は朧げに、またひとつ、思い出した。
俺──あの時、あの場所で……『神様』にお願い事、したんだよな。
──『神さま、お願いです。どうか──』
──『どうか、瞬と、仲良くできますように』
──『ひどいことを、言わない俺に、なれますように』
「……変わってねえ」
嫌いだ。
五百円も出したのに、叶えなかったクソ神も。
でも、それよりもクソ神のせいにして、何一つ変わってねえ俺が、俺はムカついていて、嫌いだったんだ。
☆
「……はあ」
曇りだってのに、じっとりと暑い、マンションの外廊下を歩きながらため息を吐く。手には、母親に持たされた「そうめん」を持って。
『田舎のばあちゃんが送ってきたのよ。私とあんたでこんなに食べられないでしょ。瞬ちゃんにも分けてきてよ』
嫌なことを思い出してうだうだしていた俺を、部屋まで来て呼びつけてきたかと思えば、これだからな。いつもなら、心の中で舌打ちしてるところだが、今はまあ……ある意味よかったかもしれない。
──とりあえず一旦、頭から追い出せるし、それに……。
瞬にも、会いに行く口実が出来た。
あのままうだうだしていたら、明日まで瞬とは話せなかったかもしれないし、ちょうどいい。
昨日のことも、ちゃんと謝った方がいい……だろ。
「……」
そうは言っても、腹の底では、瞬に会えることにそわそわしてしまっているんだから、救えない。
そんなことを考えながら、階段を上り、瞬の家の前に着く。一度、息を吸って吐いてから、いつもみたいにドアをノックする。すぐに返事があるだろう──と思ったが、その期待は外れた。
「瞬、俺だ」
──こん、こん。
「瞬?」
──こん、こん。
「……留守か?」
何度呼んでも、瞬は出てこないどころか、家の中からも何も反応がなかった。というか、なんとなくだが、人が中にいる気配がしない。
「……帰るか」
そうめんなら、ポストに突っ込んでおいてもよかったが、そうする気にはなれなかった。
それじゃ、意味がない。諦めて、家に戻ろうと、踵を返そうとした、その時だった。
「康太?」
「瞬……っ」
ドアが開く音と、声に振り向くと、瞬が顔を覗かせていた──隣の、湊の家から。
──何で。
胸がどきりと跳ねて、身体の中で、何か熱くて嫌な感情が巡っていくのを感じる。何でもないフリをして立っているのがやっとで、何も言えずにいると、瞬が俺の方に寄ってくる。
「俺に用事だったの?ごめんね、ちょっと先生の家に行ってて……」
「お、おう……」
「ああ、康太くん。こんにちは」
瞬の後ろから、湊もやってくる。顔を見たら、抑えきれなくなりそうで、俺は湊から視線を外した。すると瞬が、俺に言った。
「あ、そうだ。これから康太も一緒にどう?先生がね、実家からそうめんがいっぱい送られてきちゃったんだって。それで、お裾分けしてもらったんだけど……」
「ゆで方が分からなくて、瞬ちゃんに教えてもらってたんだ。俺、料理はほとんどできないから……」
「先生なら大丈夫ですよ。一人暮らしって、最初は何でも初めてなことばっかりですから。これから一緒に──」
「──っ!」
そこまでだった。
俺は湊に詰め寄ると、その胸元にそうめんの袋を半ば叩きつけるように押し付けて、その場を走り去った。頭に血が上ったみたいに、瞬のことでさえも、何も考えられなくなって、ただただ、そこから離れたくて、逃げたくて、階段を駆け降りた。体当たりするくらいの勢いで、エントランスを抜けて、あてもなく走る。走って、荒くなる呼吸に色んなものを混ぜて吐いて、紛らわす。
そうしないと、何をしてしまうか分からなかったから。
「……っ、はあ……っ、はあ……っ」
気が付いたら、俺はマンションの裏手の土手まで走って来ていた。倒れるように、土手の斜面に転がる。空に向かって、ぜえぜえと息を吐いていると、汗がつうっと、垂れた。たぶん、汗が。
「……っ、……はあ」
息が整ってくると、頭がじわじわと冷えてきた。何やってんだ、俺。本当に、ずっと……何やってんだよ。
「……っ」
腕で目を擦った。土手の草の屑みたいなのが汗で張り付いて鬱陶しい。でも何も考えられなかった。
しばらくそうやって、腕で目を塞いで、身体を地面に投げ出していた。どのくらい経っただろう。ふいに、すぐ隣に温かい気配がした。
「……」
「康太」
優しく俺を呼ぶ声は、簡単に誰のものか分かる。でも、今はそいつの顔を見れる気がしなくて、俺は返事をしなかった。すると、そいつは、今度は俺の耳元に囁いた。
「探したよ」
「……」
いい加減、俺は腕をどかした。おもむろに身体を捻って、そいつの方を向くと、やっぱり瞬だった。
瞬は俺に寄り添うように、隣で一緒に寝転んでいた。
蒸すような外気とすぐそばの瞬の熱が混ざる。背中を汗が伝っていくのを感じながら、俺は瞬の顔をじっと、見つめた。瞬はそんな俺に柔らかく微笑んだ。
ふっと息を吐いてから、俺は瞬に言った。
「瞬」
「何?」
「……ごめん」
それから、俺は言った。
「俺に、好きなんて言わないでくれ」
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