2月9日

【条件】


1.毎日0:00〜23:59の間に、立花瞬に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、立花瞬が「自分に対して言われた」と認識すること。


2.1の条件を与えられたことは決して、立花瞬に悟られないこと。


3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。





『むかしむかし あるところn』


『カーテンの隙間から溢れる朝日に瞼をノックされてめをa』


『串に刺さって暮らすおでんの三兄弟がいました。一番上のあにはこんny』


『春の陽射しが二人の上に、光と陰を落とす。白く眩しい世界のなかd』


「ん……」


背中に地面を感じて身体を起こす。


「なんだよ……これ」


ケツが地面についてなければ、平衡感覚を失ってしまいそうなほど、一面真っ白の世界。

宙にはパソコンの画面に文字が入力されていくみたいに、脈絡のない文章が現れてはまた、消えていく。


──一体何なんだ。ここは。


「ようやっと、目ぇ覚めたか」


よく知った声に振り向くと、そこにはクソ矢がいた。俺はおもむろに立ち上がり、奴に近づく。


床があんのかないのか、足の裏に感触がないから、ひどく歩きづらい。ほんの数歩の距離をやっと詰める。


「おい、教えろ。ここはどこなんだよ」


「言うたやろ。ここは──瞬ちゃんの小説の世界や」


「瞬の……小説?」


あたりを見回すと、今もなお、宙には文章のような何かが生まれては消え、また生まれを繰り返していた。


そうか。まだ書いてる途中だから、こんなんなのか──とぼんやり理解して、ふと気付く。


「ってか、今の俺どうなってんだよ……まさか死んでんのか?」


「死なん言うとるやろ。肉体の方は今、意識を失って寝とるわ。まあ、その辺は儂が適当に処理しとった」


「へえ……」


で。


「てめえ……いきなり撃ちやがって!妙なとこ連れてきて俺にどうしろって言うんだよ!」


俺はクソ矢に掴みかかったが、当然触れない。ので、エア揺さぶりだ。クソ矢は飄々といつもの調子で軽く言った。


「お前言うたやん。瞬ちゃんの力になりたいって。だから、『神足通』使うて、お前の意識を瞬ちゃんの思考の中に飛ばしたったわ。そんで、お前は小説が出来上がるように、ここで瞬ちゃんの思考の手助けをしたらええやん」


「は?待て待て分からん分からん……お前何言ってんの?」


『神足通』って何。意識を飛ばすって何。手助けするってどういうこと。


眉間に皺を寄せる俺に、クソ矢が「めんどいわぁ」と言いながら頭を振った。


「要するにな。お前ら人間の「思考」っていうのはな、現代流に言うところの「クラウド」みたいな場所に保存されてんねん。肉体はそれにアクセスするための、いわば端末みたいなもんや。で、自分の思考にアクセスできるんは、基本、自分だけやねん。お前らが普段、他人の思考を読み取れないのは、他人の思考にアクセスする権限がないからなんよ。でも、儂ら神にはそれができる。まあ、神と人間を分けるのはこの世の情報にどの程度干渉できるかっちゅう権限の差ってことや。そこをまあ、今のお前はライフラインを使って、瞬ちゃんの思考にアクセスできるようになって、そこから瞬ちゃんの小説に干渉できるってことや。意味分かったか?」


「分からん」


「返せや、儂の293字を」


「まあ実際お前らが知る必要ないことやしな」とクソ矢がため息を吐く。


とにかくだ。


今の俺は、瞬の小説に干渉することができるらしい。「この世界」は見ての通り、まだ真っ白で、未完成だ。俺はなんとかして、瞬の小説が完成するように、この世界を埋めていけばいいってことなんだろ。つまり。


「分かっとるやん。ほんなら、早速やってみ」


どうやって──そう聞く前に、俺の前に「文章」が現れた。


『カーテンの隙間から溢れる朝日に瞼をノックされて目を開ける。』


──ああ、さっきも見たやつだな。


ここで目が覚めた時に見えた文章だ。他の文章は現れては消えを繰り返しているのに。こいつだけはずっと残っていて、しかも続きが伸びていっている。


『カーテンの隙間から溢れる朝日に瞼をノックされて目を開ける。また一日が始まった。男はそう思いながら、一人で眠るには広すぎるダブルベッドの上で身体を起こした。ベッドには枕が二つ並んでいて、片方は当然、男が使っているものだったが、もう片方は誰の頭も乗せていない。それは、決して今日に限らず、もうずっと、いつものことだった。』


文章が伸びていくごとに、白い世界がにわかに色づき始めた。これが──今、瞬が書いてる途中のやつ、なのか?


「せやな」


クソ矢が頷く。訳知り顔が腹立たしいが、まあこいつも腐っても神だ。瞬の思考だっていうこの世界のことも、当然全て把握してるんだろう。


俺は、その文章に触れてみた。


「──っ!」


すると、世界は眩しい光に包まれる。

目を開けると、そこにはマンションの一室のような風景が広がっていた。殺風景で、必要最低限の家具以外何にもない部屋だ。窓の外は白くぼやけていて、どんなところに建っているのかは分からなかった。


さっきよりは、いくらか現実感のある風景のなかで、その文章は宙で伸び続けていた。


『カーテンの隙間から溢れる朝日に瞼をノックされて目を開ける。また一日が始まった。男はそう思いながら、一人で眠るには広すぎるダブルベッドの上で身体を起こした。ベッドには枕が二つ並んでいて、片方は当然、男が使っているものだったが、もう片方は誰の頭も乗せていない。それは、決して今日に限らず、もうずっと、いつものことだった。』


『男は寝室を出て、顔を洗い、髭を剃った。棚にはタオルも髭剃りも、歯ブラシも全部、二人分あった。だが、男が使うのはどれも、一本、一枚で十分だ。いずれも、もう片方は随分使っていない、新品同然のままだった。それでも男は、歯ブラシは月に二本、取り替えていたし、タオルだって二枚洗う。シェービングクリームも違う種類のもので二本揃えていた。』


名詞が現れる度に、世界にはそれが増えていく。殺風景だったマンションの一室には、振り返れば、洗面所があったし、歯ブラシもタオルも髭剃りもあった。そして、ぼんやりとした人の形の影がそこに立っていて、それが瞬の書いた「男」なのだと分かった。


──別に誰ってわけでもないんだな。


俺はそのことに、少し安心していた。見知った奴とかが出てきたらちょっと気まずいもんな。


「ていうか、ほとんどできてんじゃねえか。俺がわざわざ、ここに来る必要あったか?」


次々と出来上がっていく世界を見て、俺が思わずぼやくと、クソ矢が首を振った。


「そうとも限らんで」


「ほれ」とクソ矢が指をさす。そこにあったのは、さっきの続き──のような文章だった。


『男は冷蔵庫を開いた。そして、玉子を二つ取り出すと』


──文章はそこで止まって、一向に先へと伸びていかない。どういうことだ?


「迷ってんねん。瞬ちゃんはあの玉子をどうするか」


クソ矢がそう言った。なるほど……つまり。


「俺があの『男』のとこに行って、玉子をどうするか教えてやればいいのか?」


「やってみ」


クソ矢に促され、俺は「男」に近づいた。

近づいてなお、姿のはっきりしない男の影に向かって、俺は言った。


「おいお前、それは玉子焼きにしろ。いいか、だし巻き玉子だからな。だしの素を溶かして、そこで混ぜて作るんだよ。って、作り方は知ってるよな?」


影は俺の方をゆっくり見た、気がした。ちょっとびびったが、取って食われるわけでもなく、むしろ、ゆっくりと影が頷くのを見て、俺は安心した。


すると、文章が伸びていく。


『男は冷蔵庫を開いた。そして、玉子を二つ取り出すと、それで玉子焼きを作った。もちろん、二人分。男は二つのお椀によそった白米と玉子焼きをテーブルに並べて、手を合わせた。いただきます。』


──分かった。こういう感じか。


俺は男がいる、居間のテーブルへと近づく。……美味そうなもん食ってんな。そういえば俺、昼飯も食わずにここに来たんだよな。


「お前」


クソ矢が俺を呆れた顔で見ている。大丈夫だって。こいつの分は取らねえよ。

俺は宙に伸びていく文章を見つめる。


『男は自分の前に並べた分だけを食べて、もう一人分の方は』


「俺が食うわ」


そこで文章が止まったのを幸いとばかりに、俺は男が残した「もう一人分」の玉子焼きをテーブルの脇からつまみ食いした。


「……普通に食えるな」


「食うな」


玉子焼きを頬張る俺を、クソ矢の冷たい視線が刺す。一方、男の方は取られた玉子焼きをぼんやり見つめていた。何だよ。


「よく分かんねえけど、別に誰かの分ってわけじゃねえんだろ。だったら、食ったっていいだろ」


『いいよ』


「──っ!」


思いがけず、男から返事があったので驚く。男の声は掠れていて、感情のこもらない声だった。何を考えてるんだろう。そう思った時、宙に文章が現れる。


『いつも通り、何故、どうしてか分からないけれど、手癖で用意した食事を男が処分しようとすると、いきなり目の前に知らない男が現れて、それを口にした。知らない男はふてぶてしい態度で、さも食事を貰うのが当然かのように振舞っていたが、男は不思議と嫌な感じはしなかった。男は知らない男に食事を与え、そこに住まわせることにした。』


「……話、変わってもうたな」


「なんだよ……迷ってたんだから、いいだろ。てか、本当はどんな話だったのか知ってんのか?」


「刻一刻と形変えとる中で、未来予知なんて無意味やけどな。まあ……ええか」


一人でぼやき、一人で勝手に納得するクソ矢を俺はほっとくことにし、場面が変わっていく世界を見回す。部屋の外は朝から、どうやら夜に変わったらしい。ぼやけて白かった窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。


間接照明のような、ぼんやりした灯りが照らす部屋の中に、また文章が流れていく。


『男と知らない男の日々は、何の違和感もなく過ぎていった。』


『何の意味もなくそこにあった、枕や歯ブラシや髭剃りやタオルや食事には、意味が与えられ、常に一つ空いていて孤独だった男の暮らしは、ぴたりとはまるピースによって、不足なく埋められた。』


止まることなく流れていく文章。瞬、順調なんだな。


なんとなく、物語はもうすぐ終盤に近付いていっているような気がするし、結局俺は大したことはできてねえけど、瞬の方が上手くいってるならいいや。


居間のソファにはさっきの男と、もう一人別の影があった。知らない男の方か。俺が手を加えたせいか、ちょっと影の形が俺に見えなくもないような──考えすぎか。


俺は少し離れたところで、そんな二つの影を見つめながら、成り行きを見守る。


『男は知らない男との暮らしに満足していたし、きっと知らない男の方もそうだったと思う。そんな毎日はこれからも欠けることなく続いていくと思った。』


それにしても、この小説は、俺にはよく意味が分からなかった。よく知ってる奴が書いてるっていうのに、本当に瞬が書いてるのか分からないくらい、瞬の気配というか──そういうのはまるで感じないし、どうしてこんな話を瞬が書いているのかも分からない。

部誌に載るらしいし、もしも見せてもらえる機会があったら訊いてみるか。


部屋が薄暗いせいか、なんだか眠くなってくる。そういえば俺、現国の授業ダメなんだよな。朗読している教師の声聞くと秒で眠くなるし。映画館も眠くなるしな。


欠伸を噛み殺し、一瞬、ほんの一瞬目を閉じた時だった。


突然、世界がまた眩しく光り、薄暗い部屋の中にあった一切合切を全て飲み込んでしまう。


次に目を開けると、世界はまた、殺風景な朝のマンションの一室に戻っていた。


戸惑う俺の前に文章が現れる。


『ある朝、目が覚めると、男は一人なっていた。』


『昨日までベッドで一緒に寝ていたはずの男の姿はなく、それどころか、枕も歯ブラシも髭剃りもタオルも、知らない男が使っていたものは全てなくなっていた。』


──なんだよ、これ。


訳もなく、胸がざわつく。あの男はどこへ行った?


あたりを見回しても、あの最初に見た影の男が一人でいるだけだ。

どうして──答えるように、宙に文章が現れる。


『男はそれで思い出した。そうだ。俺は最初から一人だったんだ。俺の生活にははじめから誰もいなかったんだ。誰かを待っている必要なんてなかった。やっとそれに気が付けたんだ。』


「ちょ、ちょっと」


憑き物が落ちたように、すっきりした様子で歩きだす男の影を追いかける。


待てよ、待てよ──。


俺は焦っていた。なぜか分からないけど、さっきまでの何もかもを忘れていく男に耐えられなかった。

お前は一人じゃなかっただろ。


『男の暮らしはようやく元の静寂を取り戻した。もう無駄な待ち人をする必要はなかったし、空いた暮らしの形を見つめて悲観することもなくなった。これでよかった。男は知らない男も、かつて自分が何でも二人分用意していたことも忘れて、生きていった。おしm』


「おしまいじゃないって」


俺は男の影を掴んだ。掴んでどうしたかったのかは分からない。でも、これだけは言いたかった。


「玉子焼き、譲ってくれてありがとうな。本当は他の誰かの分だったんだろ──そいつのこと待っててやってくれよ。絶対帰ってくるから」


影は俺の方を振り向いた。何かを言った気がしたが、それは届かなかった。世界はまた白くなって、俺は自分がどうなったのか分からなくなって、意識が遠のいて──。





「──っ!」


目が覚めると、知らない天井がそこにあった。


どこだと思う前に、何かが俺に覆いかぶさった。


「康太──っ!」


「……瞬?」


瞬が俺に抱きついていた。痛いくらいだ。


ふと、窓を見ると、外には綺麗な青空が広がっていて、枕元のデジタル時計は──「2月9日 PM 14:00」と表示されていた。

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