8月13日 お前の名は(後編)
※注 以下、便宜上、下記の通り表記します。ご確認ください。
【康太】「~……」→瀬良康太の肉体に入った「立花瞬」の発言
【瞬】「~……」→立花瞬の肉体に入った「瀬良康太」の発言
なお、地の文における「瞬」「康太」は、それぞれ、中身のことを差します。
ご不便をおかけしますが、何卒、お付き合いいただければ幸いです。
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【康太】「……」
【瞬】「……」
──換気扇の音だけが静かに響くトイレにて。
男二人で入るには狭すぎるこの密室で、俺達は心の準備を整えていた。
状況としては、ドアを背に、俺──の姿の瞬が立っていて、瞬と、蓋の開いた便器の間に挟まれるように、瞬──の姿の俺が立っている。
図にすると、
[便器]
瞬(in 俺)
俺(in 瞬)
[ドア]
──という感じだ。
では、このフォーメーションで一体何をしようとしているのかというと……。
【康太】「……準備はいい?」
【瞬】「ああ。もう大丈夫……だ。いつでも、やってくれ」
【康太】「う、うん……」
俺の後ろで、瞬が唾を飲む音が聞こえた気がする。俺は、瞬に身を委ねようと、目を閉じる。すると、すぐに、後ろから頭に向かって、瞬の手が伸びてくる気配があった。
しゅる──と音を立てて、俺の目は布らしきものに覆われる。たぶん、体育祭の時に使ったクラスカラーの鉢巻きだ。目隠しにちょうどいい布がそれしかなかったからな。瞬は、俺の顔に手際よくそれを巻くと、頭の後ろできゅっと結ぶ。
後ろから瞬が訊いてくる。
【康太】「どう?見えない?」
【瞬】「ああ、ばっちりだ。全然見えねえ」
【康太】「じゃ、じゃあ次は……下ね」
【瞬】「おう……あの、なるべく早くな。もうあんまり持たねえかも……」
【康太】「わ、分かったから……っ」
抑えようのない「アレ」に、つい急かすようなことを言ってしまうと、瞬はすごく恥ずかしそうに、それに応じる。
ややあってから、今度は、俺の腰のあたりに瞬の手が回された。背後からズボンのゴムに手がかけられると、シャカシャカとビニールが擦れる音がする。瞬が手に嵌めているビニール手袋だ。俺はそんなのいいって言ったんだが、瞬が「康太の手を使って……直になんか触らせられないよ……」と言って聞かなかったので、仕方ない。
【康太】「……っ」
【瞬】「瞬?」
と、そこで、瞬の手が止まる気配がした。俺が促しても、瞬は「うぅ……」と唸るばかりで、手はその先に動きそうな気配がしない。
──まあ、無理もないよな……。
俺は改めて、今、自分達が俯瞰的に見て、どういう状態になっているか、想像する。
鍵を締めたトイレ。便器を前に、鉢巻きで目隠しをされた瞬。その後ろから、俺がズボンを下ろそうとしている。
──捕まるだろ……これ……。
さらに、俺はこれからなんと、瞬のズボンどころかパンツにまで手をかけて、あまつさえ、瞬の「瞬」を手で持って、「アレ」を促そうとしているのだ。うん……これ……。
──捕まるだろ……!間違いなく……っ!
たとえ恋人同士だったとしても、いや、恋人同士だからこそ、だいぶマズい絵面だ。実際には、瞬は自分の身体の面倒を見ようとしているだけなのだから、別にマズくはないのだが、ヤバい。
というか、こうやって、瞬の身体を見ないようにするための目隠しが、却ってそのマズい絵面への想像を掻き立ててしまう。
瞬からしたら、自分の身体の面倒を見ているだけだが、俺の方は、俺自身が瞬に介護されているのと感覚的には同じだ。
そりゃあ、瞬のことは信頼してるし、身体だって、瞬にならいくらでも委ねられるけど──。
──それはそれとして……これはちょっと、恥ずかしいだろ……!
こうして、瞬に焦らされれば焦らされるほど、羞恥がこみ上げてくる。早くしてくれ──と思わず、口を開きかけたが、その前に、瞬が俺を呼んだ。
【康太】「こ、康太……」
【瞬】「な、なんだ……どうしたんだよ……」
【康太】「お、俺……今から、するから……覚悟を決めた。だから、ちょっと……我慢してね……」
【瞬】「分かった……」
俺はふう、と息を吐いた。後ろで、瞬も深呼吸をしているようだ。ややあってから、宣言通り、瞬はズボンにかけた手をゆっくりと下ろしていく。
【瞬】「……はあ」
下半身が外気に晒されて、すうっとするような感覚があった。すると──。
──っ、まずい……っ!
じわりと、芯に血が集まっていくような感覚を覚えて、背中が、ぞくりとする。これは……まずい……。
【瞬】「しゅ、瞬……っ」
【康太】「え、な、何……?そんなに、慌てて……」
【瞬】「悪い……早く終わらせろ……っ、そうしないと……もっと大変なことになる……っ!」
【康太】「え、え!?た、大変って……ま、まさか……」
俺の慌てようで察したのか、瞬はすう、と息を吸ってから、俺に「いくよ」と囁いた。俺が頷くと、瞬はパンツに手をかけて、一息にそれを下ろした。それから──。
~都合により会話のみでお楽しみください~
【康太】「……えっ、え?ど、どうして……こんな……」
【瞬】「悪い、瞬……必死に散らそうとしたけど、今の状況を想像したら……それに、いい加減漏れそうというか……」
【康太】「そ、それにしても……う、ううん。分かった。康太はじっとしてて……俺が支えてるから……」
【瞬】「ああ──……あ、でもちょっと……波が……」
【康太】「お、落ち着いて。集中して……!しぃー……って」
【瞬】「俺は……赤ん坊かよ……」
【康太】「もう、ほら。俺だって、恥ずかしいんだから……じっとしてよ……」
【瞬】「……っ、あ──」
。
。
。
【瞬】「……」
【康太】「……」
あまりにもアレだった、アレを終え──力尽きた俺達は、瞬の部屋の床にへたり込み、手近にあったベッドに顔を埋めて、ぐったりしていた。もう何もする気になれない。今はただただ、早く元の身体に戻りたい──そして、さっきのことは忘れたいという気持ちでいっぱいだった。
と、その時。
──ぐぎゅるるるる……。
【瞬】「……瞬か?今の」
【康太】「う……ごめん」
腹の鳴る音がして、ちらりと隣を見ると、ベッドの縁に頬を押し付けた俺──の姿をした瞬が、口をへの字にして俺を見つめていた。
俺が俺を見つめてるって、ちっとも慣れない感覚だ。だから俺は、頭の中で、俺の顔に瞬の顔を重ねて、その表情を想像した。瞬がしてるなら可愛らしいもんだな……まあ、それはともかく。
【瞬】「飯……食うか?もう昼時だろ」
【康太】「そうだね……あ、でもうち、今何もないかも……買い出し行かないと」
【瞬】「買い出しか……」
俺が呟くと、瞬が「ごめんね」と言った。俺は「しょうがないだろ」と首を振る。こんなことがなければ、今日は日曜日だし、いつもなら、瞬は買い出しに行く日だ。そういう予定でいたんだろうし、無理もない。
【瞬】「でもそれなら、なおさら……リスクはあるけど、外に出るしかないな。今日はここに泊まるわけだし」
【康太】「うん。夜ご飯まで準備しないといけないから……」
そうと決まれば、だ。俺達は重い腰を上げて、近所のスーパーへと買い物に行くことにした。
できるだけ、知り合いに会いませんように──そう願って。
……たのだが。
「お、新婚さん」
【康太】「わっ!?」
【瞬】「猿島か……」
カートを押しながら、スーパーの中を物色していると、早速、知り合いに会ってしまった。
猿島だ。かなり久しぶりに会う気がする猿島は、それでも相変わらずで、手をひらひらさせながら、俺達を揶揄ってくる。
「夏休みでも二人は仲良いねー。何、ついに同棲したの?」
【瞬】「そんなんじゃねえよ。ちょっとその……買い出しだ」
【康太】「康太……!」
【瞬】「え?」
いきなり、瞬に服の裾を引っ張られ、小声で咎められる。俺、何かしたか……と首を捻っていると、瞬が「ほら」と猿島の方を指さす。
見ると、猿島は珍しく、目を丸くして、俺と瞬を交互に見ていた。
「えー何、瞬ちゃん……瀬良の真似?今一瞬、瀬良に言われたのかと思っちゃったよー」
【康太】「え、あ、その……違うよ、猿島。そっちは康……あ、いや、そっちは瞬だよ。何言ってるの?」
「いや、瀬良。何言ってるのは、こっちなんだけどー……」
【康太】「あ……」
俺同様、つい、いつもの自分の調子で喋ってしまい、瞬が「しまった」という顔をする。
まあ、猿島からしたら、まさか、俺達が入れ替わってるなんて、夢にも思わないだろうし、大丈夫だと思うが──。
「まさか、瀬良と瞬ちゃん、中身が入れ替わってるとか?何それ、やばー……ちょっと前に流行った映画みたいじゃん。マジで?」
【瞬】「すげえ簡単に受け入れんじゃん……」
さっきまでの戸惑いが一転、心なしか、いつもよりも前のめり気味に、むしろ目を輝かせて、俺達を眺める猿島。
瞬はそんな猿島に訊いた。
【康太】「し、信じられるの?」
「えー……まあ正直、超ファンタジーすぎるし、半信半疑って感じだけど……それなら、面白い方を信じたいよねー」
【瞬】「面白がるな」
「はー……瞬ちゃん、マジで瀬良みたい。すごーい」
この「ありえないファンタジー」に、感心さえして、ぱちぱちと手を叩く猿島に、俺達の方が「もういいか……」と折れた。
結局、猿島はその後、ひとしきり俺達の状況を面白がり、満足すると、「じゃ、まあ頑張ってねー」とさらりと去っていこうとした……が。
「あー、そうそう。こういうのってさあ、元に戻るための定番の方法があるよね」
【瞬】「定番?なんだよそれ」
【康太】「それをやったら、元に戻れるの?」
一応聞いてみようと、俺達が身を乗り出すと、「あくまでフィクションの話だけどね」と前置きしてから、猿島は言った。
「キス」
【瞬】「……行くか、瞬」
【康太】「うん、じゃあね……猿島」
……聞かなくてよかったな。
「あれー」と首を傾げる猿島を置いて、俺達はまたカートを押して、買い物に戻った。
☆
「お、立花じゃん!おーい」
【瞬】「……」
──買い出しを終え、マンションへと歩いている途中のことだった。
「ある意味、いま一番会いたくなかった」その声を振り切ろうと、俺は足を速める。だが、瞬の方が──。
【康太】「森谷。元気だった?」
「おう。会いたかったぜ」
足を止めて、森谷と話しだしてしまった。クソ……と思わず、舌打ちするが、俺はふと、違和感に気付く。
──こいつ、今……?
【康太】「夏休みはどこかに行ったの?」
「ああ、まあ……予備校行ったりとかあるけど、暇な時は絵……とか描いてるかな。立花はどうしてた?」
【康太】「えっと……ちょっとお出かけしたり、とか」
【瞬】「いや、立花て」
【康太】「え?」
二人の会話に割って入ると、戸惑う瞬を押し退け、俺は森谷に詰め寄った。
【瞬】「た、立花は俺だろ……なんで、こっちが瞬だって言うんだ」
だが、森谷はきょとんとした顔で、むしろ「何言ってんだよ」とばかりに言った。
「いやだって、立花はそっちだろ。何でか知らないけど、瀬良の見た目の」
【瞬】「お前らはもっと、その『何でか』を疑えよ」
なんなんだ、こいつらのこの順応性の高さは──と戸惑っていると、森谷は困ったように笑いながら言った。
「うーん。見た目は立花だけど、中身は瀬良だな。立花みたいないい匂いもしないし。俺は、肉体だけじゃなくて、総合的に立花を見てるからな。すぐに分かっちまうっていうか──」
【瞬】「分かるな、そんなの」
「何だよ瀬良。ていうか羨ましいな……立花の身体を手に入れるなんて。俺と入れ替わってくれよ。どうやってやったんだよ」
【瞬】「あの世に行けば入れ替われるぞ」
「立花の声で物騒なこと言うなよ……いや、でも、やっぱりなんかいいな……」
森谷から俺にいやらしい視線を感じる。瞬の身体になって、初めて受けるこいつの視線は、やはり危険だ。
俺はこれからも絶対に、瞬をこいつの毒牙から守ろうと誓った。
そんな俺と森谷のやり取りを、蚊帳の外で見ていた瞬が首を傾げる。
【康太】「康太……どうしたの?」
【瞬】「何でもねえ。おい、早く行こう。この変態は置いて」
【康太】「変態?」
戸惑う瞬の手を引いて、俺は森谷から逃げた。しばらく走ると、後方から「じゃあなー!今度俺にも変わってくれよー!」という奴の声が聞こえてきて、心底ゾッとした。
☆
「喜べお前ら。ようやっと、お前らの入れ替わりを何とかできそうやで」
昼過ぎ──俺の身体で手際よく昼飯を作る瞬の手伝いをしながら、不思議な気持ちでいると、突然、クソポンコツ幽霊が俺達の前に姿を見せた。
【康太】「澄矢さん……ずいぶん早かったね」
【瞬】「なんだよ。一日がかりとか言ってたくせに……もうできたのか?」
口々に訊くと、クソ矢は「せや」と得意げに胸を張って言った。
「儂なりに責任感じてんねんで。せやから、もうクビになったけど、託弓にまで頭下げて、直してもらえるようにしたんよ。感謝せえ」
【康太】「ありがとう、託弓さん」
【瞬】「ていうか、クソ矢の自業自得だろ」
「あたりキツイな、お前ら……まあええわ」
そう言うとクソ矢は「じゃあほら」と俺達に言った。
「早よ、キスせえよ」
【康太】「ん?」
【瞬】「は?」
「せやから、早よ。キスやって」
【康太】「ん?」
【瞬】「は?」
「もう、飲み込み悪いなあ。お前らは」
クソ矢はやれやれと肩を竦めているが──は?
【瞬】「何で急に……キスしねえといけねえんだよ」
【康太】「そ、そうだよ。それが、元に戻るのと何の関係が……?」
「だから、その元に戻る方法がキスなんやって」
【瞬】「……」
【康太】「……」
俺達は言葉を失った。マジかよ。
呆然とする俺達に、クソ矢は「ええやんか」と、ムカつく笑みを浮かべて言った。
「やっぱ入れ替わりの戻る方法言うたらなあ、定番やん。それに、お前らもう、一緒にアレした仲やん。今更キスくらいどうってことないっやろ。付き合うとるんやし」
【康太】「う、そ、その話はもうしないで……!」
「瞬ちゃんもなかなか思い切ったこと提案するなあ。とりあえず、一歩前進ちゃう?これならそのうち──」
【康太】「も、もういいから──!」
その時、瞬にしては珍しく、大きな声を張り上げたので、俺は一瞬、びくりとする。だけど、すぐにそれに気付いた瞬が「ごめんね」と言った。
【瞬】「いいけど……どうしたんだよ」
【康太】「ううん。何でもないの……それより、ほら、その」
瞬が、俺の身体でもじもじしつつ、俺をじっと見つめる。……瞬の方はもう、覚悟が決まったってことだ。
──仕方ない、か。
俺は瞬の──自分の肩に手を置いた。すると、自分の顔を見ないようにするためか、瞬が目を閉じる。俺も瞬に倣って、そうする。
それから、ゆっくりと顔を寄せて。そして、それだけだと瞬の身体では届かないから、ほんの少し、踵を上げて──なるべく考えないようにしながら……自分の唇に、俺はキスをした。
たぶん、もう一生経験しないことだろうな──と思いつつ、ふと、瞬はいつもこんな風に俺の唇を感じてるのか、とそんなことを考えた……。
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