【はじめての(ふかい)チュウ】 ①


「まず、ムードを作らなあかんと思うんよ。ほんなら、やっぱ家はうってつけやん。それやのになんでできないん?」


「うるせえ」


部屋で待っている瞬に出してやろうと、台所でコーヒーを用意している時だった。

例によって、どこからともなく現れたクソ霊が、余計な口を挟んでくる。ウザいので、ノールックでしっしと片手で払うが、奴はヘラヘラと「ほんまのことやん」と茶化してくるだけだ……クソ。


土曜日の昼下がり──今日も今日とて、俺と瞬は、特に何をするでもなく一緒に過ごしているんだが。

ひとつ違うのは、今日は母さんが仕事でいないので、俺の家に瞬が来ていることだ。


明日は、瞬は予定があるって聞いてるし、連休中、こうして瞬とゆっくり過ごせるのは今日が最後になるだろうな。


──ということは、だ。


「【ノルマ】をやるんはもう、今日しかタイミングないっちゅうことやろ?躊躇っとる場合ちゃうやん」


「うるせえ。そんなこと分かってんだよ……」


そう。クソ矢に言われるまでもないことだが……瞬と【ノルマ】を実行に移す機会は、今日しかないのだ。


それは昨日から、俺も、そしてたぶん、瞬も意識していることだ。言葉にならなくても、お互いにそれを感じ取っているのが分かる。


ポットから湯をマグカップに注ぎ、トレイに載せる。すると、またしてもクソ矢が口を挟んできた。


「こうなったらもう、そのコーヒーに何か入れて、べろべろになった状態でやるしかないんちゃう。そうしたら、恥ずかしいとかそんなこと構わずやれるやろ?」


「馬鹿か。これだから、倫理観のいかれた奴らは……」


あまりにも阿呆な案に呆れて、ため息を吐く。


もうクソ矢は無視して、俺はトレイを持って部屋に向かった。


「……おい」


「なんや」


ドアの前まで来たところで、俺は当たり前のようについてきていたクソ矢を振り返る。


「失せろ。ここからは、俺と瞬の時間だ」


「失せろ言われてもな。儂は瞬ちゃんの守護霊やから、いつもその辺におるで。姿出さんだけで」


「ふざけんな。それじゃ、俺と瞬が……そういうことをしてる時も、てめえはそこにいるってことじゃねえか!」


「そらそうやろ。なんなら、お前らは常に見られとるで?あの時から、今までずーっと。どんな瞬間も」


「は、はあ?」


「まあ、今は深く考えんでええよ。そのうち、意味分かると思うわ」


「……どういうことだ?」


「ああ、ほら。はよ行け。お望み通り、儂もう消えるから……ほな」


──せいぜい、楽しませたってや……と、訳の分からないことを言い残して、クソ矢は消えやがった。


なんだったんだ……と思っていると、ふいに、ドアが開く。


「康太?」


「っ、瞬」


俺とクソ矢の話し声が聞こえたのか、瞬は「どうしたの?」と首を傾げる。俺は「大したことじゃねえ」と言い、部屋に入った。





──こと。


「……」


「……」


静かな部屋に、カップを置く音が響く。


俺は手のひらのマグカップの中で、残り少なくなったコーヒーを見つめて、ふう、と息を吐いた。


──今、並んでベッドに座っている俺達の間には緊張の糸が張り詰めている。


理由はもちろん【ノルマ】だ。

もう、引き下がれはしない……と分かってはいても、相変わらず、一歩を踏み出すきっかけを掴み損ねているのだ。


俺は、隣の瞬に視線を遣った。瞬の顔は、頬が少し赤くなっていて、視線は、テーブルの上にある自分の分の空になったマグカップに向けられている。あ、今、唾を飲んだな。


──俺が……リードするって言ったもんな。


それは見せかけの覚悟なんかじゃない。


瞬はこの前の【ノルマ】で……きっと、恥ずかしくてたまらなかっただろうに、それを飲んでくれたから……俺達は前に進めたのだ。


──今度は、俺の番だ。


恥ずかしくないって言ったら嘘になる。できるのかって不安もある。そもそも、こんなことがなかったら、きっと……まだ、俺達はここまで来ていない。


けど──。


「……瞬」


「……康太?」


俺はマグカップを置き、瞬がベッドの縁についていた手に、そっと手を重ねた。それから、瞬の目を見据えて、切り出した。


「……俺さ」


「……うん」


「なんか……ずっと、こんな状況で……何が強制されてることで、どれが自分の気持ちなのか……正直、分かんなくなる時あるけど。でも、俺……これだけは絶対、俺の気持ちだって分かることが、ある」


「うん」


瞬が柔らかい眼差しで俺を見つめて、その先を待っていてくれる。俺は、小さく深呼吸をしてから、瞬に言った。


「それは、瞬が好きだってこと……それから、瞬と……こういうことが、したいってことで……」


「……うん」


俺の言葉を、瞬は照れつつも、ふわりと笑って受け止める。


……けど、それから、少し意地悪く俺に訊いた。


「……こういうことって?」


「キス」


恥ずかしがるのも悔しいので、俺はすぐに答えた。

それから、瞬の柔らかい頬に手を添えて、顔を寄せる。瞬は目を見開いて、ぴくり、と身じろぎしたが、やがて、目を閉じて俺を受け入れ──。


「あ、待って」


「っ、な、なんだよ」


あと数ミリで触れ合うというところで、ストップがかかる。不満がじわりと胸に広がっていくが、瞬が「本当ごめん!」と手を合わせてきたので仕方がない。


そうは言っても、恨めしく思っている間に、瞬はぱっとベッドから立ち上がり、床に置いていた自分の手提げからポーチを持って来た。


何のつもりだ?とその様子を眺めていると、瞬はポーチから「リップ」を取り出す。いつも使っている、乾燥を防ぐとかいうやつだ。柑橘系みたいな、いい香りがするやつ。


瞬はリップのキャップを取ると、いそいそと、それを自分の唇に塗った。そして、俺にもリップを差し出して言った。


「はい、これ。康太もするといいよ。冬は唇が特に乾燥しちゃうし……き、キスの前にすると、いいんだって」


少しはにかみながら、どこかで調べて来たんだろうことを言う瞬。俺は正直、そんな瞬に──。


「……っ、!」


思い立った瞬間、俺は、リップで艶めく瞬の唇に唇を重ねていた。爽やかでちょっと甘いリップの味がする。


「ん……っ」


「……っ」


味わうように何度も重ねていると、瞬の顔がさっきよりも赤くなっている。恥ずかしさからかと思ったが、瞬の鼻から息が漏れてこないので、そうじゃないと気付く。


──このままじゃ、瞬が窒息してしまう。


俺は唇を離そうとした──すると。


「ん……っ、ふ」


それを拒むように、瞬が俺のシャツをきゅっと握り、縋ってきた。それでも、俺は瞬の唇にもう一回だけ触れてから、唇を離す。

息を整えながら、潤んだ目で見つめてくる瞬に、俺は言った。


「……苦しかっただろ」


「……ちょっとだけ。でも、大丈夫だから……」


瞬はもう一歩、俺に身を寄せて言った。


「も、もっとして……」


俺のシャツの裾を握る、瞬の手の力が強くなる。瞬も、目一杯、俺に応えてくれようとしてるんだと感じる。

俺は、そんな瞬の頭に手を添えて、再び唇を重ね合わせた。

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