10月19日(木)


「っ、しゅ──……っ?!」


「ん……っ、ふ……」


突然のことに思考が散って、一瞬、俺は何をされているのか分からなくなった。


それでも、側の道路を行き交う車のエンジン音が他人事みたいに過ぎていくと、俺と瞬は世界から切り離されたようで──はたから見たら、キスに没頭しているように見えるだろう。


「瞬、ちょ……っ、ん……」


「はぁ……、ん……っ」


ほんの数秒、唇が離れた隙に、呼んで咎めようとするが、言葉も、継ごうとした息も、すぐに塞がれてしまう。

足を踏ん張っていないと、アスファルトに押し倒されるんじゃないかってくらいの勢いで、瞬は俺に迫ってきていた。


──マズい。このままだと、色々……マズい!


重ねてるというより、押し付けられてるみたいな、柔らかくて温かい瞬の唇の感触。

それに、すぐそばにある瞬の体温は熱くて、いつもは目を閉じてするキスも、今の瞬は蕩けた目で俺のことを見つめてしてくるから──うっかりすると、大事な何かごと巨大な波に攫われて流されそうな感覚に陥った。


視界の端では、あの表示が【225,000pt】まで膨れ上がっていくのが目に入る。


──瞬は……たぶん、【ノルマ】を気にして……けど……。


ふと、足元を見ると、瞬の足は震えていた。いつの間にか、俺の腰に回された腕も、微かに震えている。


その時「あの出来事」が俺の頭をよぎった。瞬が密かに押し殺してきたものを、垣間見た時のことを──。


「瞬……っ」


俺はぎりぎりのところで、足ごと踏ん張った。そして今度こそ、瞬の両肩を掴んで、俺から引き剥がす。


「っ、あ……」


ふうふう、と呼吸を荒くした瞬が、とろんとした目で俺を見つめる。油断すると、また迫ってきそうな気配すらあったので、俺は瞬の目をしっかり見据えて言った。


「……落ち着けって。こんなところじゃマズいだろ……どうしたんだよ」


「――……っ」


息を整えながら、俺を見つめ返す瞬の瞳が揺れる。ややあってから、瞬は掠れた声で言った。


「ご、ごめん……」


自分の中で燃えていた激しい何かが引いたのか、瞬がまた、思い詰めた顔で俯く。


俺はそんな瞬の頬に、触れるか触れないか――という加減で、両手をそっと添えて言った。


「……こんなことがなくても、俺は瞬が好きだ。だから、一人で背負おうとしなくていい……無理するな」


「ノルマはもう済んだし」と言うと、瞬は、はっと目を見開いた。それから、眉を寄せて苦しげな顔で息を吐くと、瞳を潤ませて零した。


「――……そんなのっ、康太だって……」


「瞬?」


「……――っ、ぁ?!」


その時だった。突然、瞬が呻きながら、腹を押さえてうずくまる。


「……はぁ、っ、うぅ……ぅ、く……」


「瞬っ!」


地面に膝をついて、さっきよりも苦しそうに息を吐く瞬の背中をさすってやろうとして、思い止まる。……今は、それですら瞬が苦しんでしまう。


どうすれば──と迷っていると、苦痛に顔を歪めた瞬が俺を見上げる。瞬は、ゆるゆると首を振って言った。


「お、俺は……大丈夫、だから。ちょっと……休めば……っ、ん……」


「そんなわけないだろ……」


とても、瞬が言うようになるとは思えない。俺は地面に向かって荒い息を吐く瞬に「ごめん」と言うと、半ば強引に、瞬の片腕を自分の肩に回させる。それから、せーので立ち上がると、瞬の両膝の下に腕を入れて、抱え上げた。


「っ、え、こ、康太……ぁ?」


「……家まで走ってくから、大人しくしてろ」


「……っ」


いわゆる「お姫様抱っこ」で俺に抱えられた瞬が、重そうな瞼を持ち上げてぱちくりと瞬きをする。不安げな瞬の瞳に、ひとつ頷くと、俺はマンションまでの道を全速力で走った。





「っ、はあ、はあ……」


ようやく着いた立花家の前。ドアを開けるために、俺は瞬をそっと地面に下ろし、座らせた。それから一旦、膝に手をついて呼吸を整える。……エレベーターを待つ間も惜しく、瞬を抱えてダッシュで階段を上ったから、さすがに息が切れた。


「……ん、っ、こ、康太」


「っ、はぁっ……大丈夫だ。待ってろ、すぐ鍵開けるから……」


心配そうな顔で俺を見つめる瞬に、手を挙げて応える。俺は瞬が背負っていたリュックを漁って、家の鍵を探した。えっと、鍵は──。


「犬のポーチの中、だよな。あれ、どこだ……?」


「あ、ご、ごめん……こっちかも……」


そう言った瞬がスラックスのポケットに手を突っ込む。だけど、鍵がポケットの奥まで入っちまってるのか、瞬の手はなかなか鍵を捕まえられない。俺は少し迷ったが──瞬に「ごめん」とことわり、ポケットに入れられた瞬の手をそっと掴んで、外に出した。そして、代わりに俺が瞬のポケットに手を突っ込んで鍵を探す。


「……っ、あ、康太……っ、それ……」


「ちょっとだけ、我慢してくれ……」


「ん……」


俺の言うことに、瞬が気だるげに頷く。

座り込む瞬のポケットをまさぐろうとすると、自然と、瞬の顔が肩に乗るような体勢になってしまう。耳に瞬の悩ましい息がかかる度に、こんな状況なのに、俺の心拍は跳ね上がった。「我慢してくれ」はむしろ、俺の方だ。


俺は、できる限り、心を無にして、必死に瞬のポケットの中を漁った。そして、なんとか家の鍵を掴んだ。


「……っ、あった。ごめん、瞬……もうちょっとだからな……」


「はぁ……ぁ、康太……」


うわ言のように俺を呼びながら、見上げる瞬の視線を受けつつ、俺は鍵穴に鍵を差し込んでノブを捻った。ドアを開け、再び、瞬を抱えて中に入る。あとは、勝手知ったる立花家の中をずんずん歩き、瞬の部屋を目指すだけだ。


「っ、しょ……と」


うす暗い部屋に入ると、俺は瞬をベッドの上に寝かせた。熱の籠った目で俺を見つめる瞬が、艶っぽく掠れた声で「ありがとう」と言うから、なんとなく目のやり場に困った俺は、瞬から視線を逸らしつつ、尋ねる。


「まだ……辛いか?」


「ん……さっきよりは……だいじょう──っ、ぁ……?!」


「……瞬っ!」


言いかけたところで、瞬が腹を押さえて丸まる。痛いのか、苦しいのか──涙を浮かべて悶える瞬のそばにしゃがんで、俺は呼びかける。


「瞬、マジで、どうしたんだよ……っ?腹が痛えのか?」


「っ、う、いたい、っていうか……あ、あつくて……っ、ん」


「熱い……?」


何かやべえ病気にでもなっちまったのか──と考えかけて、ふと気が付く。まさか……。


「【呪い】のせい、なのか……?」


「っ、あ、そ、それは……っ」


俺の呟きに、瞬が目を見開く。何か……心当たりがあるんだろう。俺は、瞬が押さえてる腹のあたりに視線を遣る。


──『でも、身体の方は今のところ、何もないよ。どこも痛いところも、へ、変なところもないし……』


「……っ!」


……妙な胸騒ぎがする。俺が「瞬」と呼ぶと、瞬は何かを感じたのか、俺に「ま、待って……っ」と吐息交じりに言った。


「俺は、ん、大丈夫、だから……っ、ほんと……ちょっと横になれば、治るから……なんともないの……」


「……俺にそれ、通じると思うか?」


「っ、康太……」


俺は瞬の腹に手を伸ばす。瞬が「だめ」と言って俺の手を掴んで止めようとするが、その手に力は無い。

瞬が羽織っているブレザーのボタンを外すと、俺はシャツの上から瞬の腹にそっと触れた。すると、瞬がびくりと身体を大きく震わせる。


「や、だめ……康太……っ、ん、お腹、触っちゃ……」


「なんだよこれ、すげえ、熱い……」


瞬の腹は、シャツ越しなのに異常なくらい熱かった。まるで、肌が燃えてるみたいだ。瞬が突然、苦しみだした原因は明らかだった。


俺は瞬の腹から手を離すと、赤い目で俺を見つめる瞬に言った。


「瞬……何があったか、自分で教えてくれるか。できないなら、俺は瞬のシャツを少し捲って、この中を見る」


──自分でも、卑怯なことを迫ってると思う。だけど、俺はこんな状態の瞬を「何でもないだろう」と思って、見過ごすことは絶対にできない。もう二度と、瞬に一人で抱えさせたりなんかしない。


「……っ」


折れる気のない俺の視線を受けて、瞬が俯く。外の灯りだけがぼんやりと差していた薄暗い部屋は、さっきよりも闇が濃くなったようで、塗りつぶすみたいに、瞬の表情を見えなくした。


──しゅる。


しばらくすると、静かな部屋に衣擦れの音が響いた。見ると──瞬がおもむろに、スラックスにしまっていたシャツの裾を引っ張り出していた。微かに震える指で、ボタンをいくつか外した瞬は、シャツの重なりの隙間を割って「それ」を俺に見せた──。


「っ、な、なんだよ……これ……っ!」


──白い肌に妖しく、濃く刻まれた……暗闇で鈍く光る紋章。


禍々しいそれに思わず声を上げると、瞬はぽつりと言った。


「これが……俺が、あの子から受けた【呪い】」


息を詰まらせながら、瞬は指先で紋章を撫でて見せた。不謹慎にも艶めかしい光景に、跳ねそうになる心臓を抑えて、俺は瞬に訊いた。


「……なんで、隠してた」


すると、瞬はぐっと切なげに眉を寄せて、俺にこう返した。


「……俺の方が、訊きたいよ」


「……どういうことだ?」


すん、と鼻を啜る音がする。それから瞬は、声を詰まらせながら言った。


「康太だって、俺に、隠して……っ、危ないこと、してる……っ」


「……っ、な、なんで、それ」


俺が言うと、瞬は腕で目を擦りながら「澄矢さんと話してるの、聞いた」と言った。待ち合わせの時のを聞かれてたらしい。

迂闊だった──と思いかけて、すぐ、「そうじゃねえか」と気が付く。


──俺の方も、同じじゃねえか……。


俯いて、言葉に詰まる俺に、瞬は言った。


「さっき、康太が俺に言ったこと……そのまま、返す。一人で、抱えないでよ……これは、俺のせいなのに……」


「っ、それは違う……!瞬のせいじゃない。俺が、ずっと瞬に……気が付けなかったから……っ!」


「そんなわけないでしょ──……っ!」


瞬の声が部屋に響く。


はあ、はあと肩で息をしてから、ふいに──震える腕を伸ばして、瞬が俺の手を取る。


「……瞬?」


分けも分からず、されるがままになっていると、瞬は──昏い目で「康太」と俺を呼んで、続けた。


「……今なら、俺はもう、大丈夫だから。だから……この前の続き、しよう」


──違う。


掴まれた腕から辿って、その先にいる瞬を見つめて、俺は分かった。


──これは、瞬の本心じゃない。


「瞬」


俺は瞬に掴まれた腕をやんわりと引き剥がした。それから、瞬に背を向けて言った。


「今日は……やめよう。もう」


「……っ」


俺の言葉に、瞬が自分を取り戻すような気配を感じる。


俺は、そんな瞬に「またしんどくなったら、すぐ呼べ」とだけ言い残して、部屋をあとにした。





「……」


部屋のドアが閉まって、その向こうに康太が去っていくのをただ見つめていた。


いつの間にか、すっかり熱が引いた身体が、今度は急に冷えていく。

俺は頭まで布団を被って、枕に顔を押し付けると「何やってんだろ」と吐いた。



______________



──10月19日 PM 16:30。


「……」


「何しとんねん」


「……うるせえ」


放課後。文化祭の放課後準備作業を抜けて帰ってきた俺は、「立花」の表札の前で……かれこれ十分くらい、足踏みをしていた。

……今日は学校を休んだ瞬の様子を見に来たが、どう行こうか、悩んだからだ。


「普通に行ったらええやん。別に喧嘩してるわけやないやろ」


ムカつくツラで、俺の周りをうろちょろするクソ矢の言う通り、昨日の一件は……喧嘩っていうもんじゃねえ。


実際、今朝は、瞬から「昨日はごめん。今日は学校をお休みします」と連絡があったし、その後もぽつぽつとメッセージのやり取りはしてる。だから別に、見舞いにだって、普通に行けばいいのだ。それでも足踏みしちまうのは……。


──会って、どう話すべきなんだ……。


瞬が俺に、紋章を隠してたこと。俺が瞬に、黙って……馬鹿なことをしてたこと。

その先にあるのは、俺達のこれからのことだ。


この「ふざけたキャンペーン」が終わって、打開策も見えない八方塞がりな状況で、これから……俺達はどうするべきなのか。


「腹を割れ。いつもそうしてきたやろ」


「……何だよ」


表札を見つめてじっと考える俺の思考を遮るように、クソ矢が口を挟んでくる。分かったようなこと言いやがって──という俺の視線をクソ矢はさらりと流して、俺に続けた。


「【ノルマ】とか、そういうん、いっぺん置いて、自分らがどうしたいんか話し合えや。その上で、やるんならやるで、一緒に乗り越える。抗うなら抗うで、一緒に戦ったらええ。要は、連帯責任や。一人で全部背負おうとか、ひ弱な人間のくせにおこがましいわ」


「……」


死ぬほど悔しいが、返す言葉がなかった。それは、ちょっと最近、忘れちまってたことだった。


色んなことを分け合って生きていきたいって言ったのに。


通じ合ってるのと、勝手に動くのは違うって知ってたのに。


大事なことは言葉にしないと、簡単に見失うって分かってたのに。


「……チッ」


俺は舌打ちをした。こんなことを、クソ矢に言われたことに対して。そして、つまらないことでうじうじしてた自分に対して。


「分かってんのやったら、最初からそうせえよ。全く……なあ」


クソ矢がちらりとドアを見遣る。その視線の意味に気が付いた俺は、頭を掻いてから──いつものように、ドアをノックして言った。


「……瞬。今、いいか?少し──話をしよう」

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