7月15日①



『好きだ、瞬』



──思い出すと、まだふわふわする。


しつこいくらい、耳元で何度も伝えてくれた『好き』も、康太の胸の音も、その後の、唇の感触も……何もかも夢みたいで──これから康太に会った時、やっぱり何もなかったことになってたら……って怖くなる。


だけど、それを否定してくれる存在が──ありがたいことに、今の俺にはついている。


「昨日はよかったなあ、瞬ちゃん。大丈夫やで。これ、ちゃんと現実やで」


「澄矢さん……」


康太との待ち合わせまで、あと一時間。心はまだ落ち着かないけど、そろそろ……と部屋で身支度を整えていると、どこからともなく「キューピッド」が現れる。


きっと、ぽーっとした顔の俺に、澄矢さんは笑って言った。


「そない心配なら、ベタやけど、ほっぺ引っ張ってあげてもええで。または銃でぱーんと撃ったろか」


「銃でぱーんはダメだよ」


せっかく、康太と……両想いになれたのに、意味がない。そう、両想い。俺と康太は……同じ「好き」の両想い……。


「……えへへ」


改めてそう思うと、なんだか胸がくすぐったくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、幸せで……つい、頬が緩んでしまう。すると、そんな俺に澄矢さんがうんうん頷く。


「ええなあ。瞬ちゃんが幸せそうやと儂も嬉しいわ。ここまでようやったなあ」


「うん……澄矢さん、色々ありがとう」


「かまへんよ」


ぽんぽん、と澄矢さんが俺の背中を叩く。すぐ近くで、誰かに祝ってもらえたことで、さらに嬉しさがこみ上げてくる。……今までの色々あったことを抜きにしても、今は、澄矢さんの存在がありがたかった。いてくれてよかったなんて、失礼だけどたぶん、初めて思った。


「ええよ。ほんまは手放しで感謝してもらえるような存在やないからな、儂」


「それでも……ありがとうは、ありがとうだよ。康太の命を賭けさせたのは……だけど、あの【条件】がなかったら、きっと──」


言いかけて、ふと思う。そういえば、だ。


「俺と、康太が両想いになったってことは……【条件】はどうなるの?」


たしか、前に言っていた話では……康太を【条件】から解放するのは、俺と康太が「一線を越える」……まではいかなくても、「そういうこと」ができる関係になれば──とか、なんとか。


「き、キスは……そういうことに、なるの?」


「うーん」


恐る恐る訊いてみると、澄矢さんは渋い顔で、曖昧な返事をする。そうとも言えるし、そうとも言えない……みたいだ。でも──。


──両想いになった……ってことは、それこそ、康太とはいつか、「そういうこと」も……。


意識した瞬間、頬が熱くなった。想像を散らそうと、頭をぶんぶん振ってみたけど、澄矢さんにはお見通しで……。


「まあ、あとは若い二人で……ってことやな。それより」


「え、あ……ちょっと」


「それより、や」


強引に話を変えようとする澄矢さんに、食い下がってみたけど、澄矢さんは取り合ってくれなかった。

【条件】がこれからどうなるのかは気になるところだけど、答えてくれないのなら、俺にはもう、知る方法がない……俺が諦めると、澄矢さんは「すまんな」と言って、続ける。


「まあ、瞬ちゃんには随分迷惑かけてんのも承知の上や。儂かて、好きであいつを【条件】で縛っとるわけやないよ……せやから、まあ、今日はあいつにもってことで、一個お詫びさせてな」


「お詫び?」


そんなこと言って。またロクな目に遭わないような気がして、身構える俺の肩を、澄矢さんが「大丈夫や」と叩く。


「これから、お祭りデートやろ?ええから、一瞬、目、瞑っててな──今日の儂は『魔法使い』や」





「……」


瞬との待ち合わせ、一時間前。いい加減、朝から着てた寝間着から着替えるために、部屋のタンスを開く。いつも通り、適当なシャツとパンツを引っ張り出そうとして──ふと、俺の手が止まる。


──待てよ、俺。それで……いいのか?


今日の瞬とのこれは、今までのとは違うのだ。なんてったって、俺と瞬は──。


──両想い、なんだよな。


両想いということは、つまり、瞬は俺にとって「恋人」ということになる。

「恋人」……あまりにも慣れない響きだが、これは今までの「幼馴染」とは違うのだ……と思う。


ということは、服装ひとつとっても、俺はそういうことを意識するべきなんじゃないか?


「そんなこと言ったって、分かんねえよ……」


自分で言ったことに、自分でぼやく。

当たり前だ。俺にとって、瞬は十数年の付き合いがある幼馴染であると同時に、初めての恋人でもある。

だから、分からないのも当然だろ……そういう時に、どういう感じでいけばいいのかなんて。


──別に気にしないか?今更……俺がどんな格好で来るかなんて。


瞬は俺が、ファッションにほとんど関心がない奴だってことくらい、十分すぎるくらいよく知ってるだろうし、その上で、まあ……そういう俺でも「好き」だと言ってくれている……んだと思う。


だから、別にいつも通りにしてたっていい。いいけど……。


──瞬にはたくさん待たせちまったから、その分……これからは……。


俺の方から、瞬に「好き」だと伝えたいし、その「好き」は、瞬が俺に伝えてくれるものと同じなんだって、特別なものなんだって、示したい。それは、些細なことからでも。


だからこそ……「分かんねえ」とか言ってられない。どうにか考えなくちゃいけないが、まあ、経験は今更どうにもならない。そんなことを考えているうちに、家を出る時間は刻一刻と迫っている。……どうする?


──経験……そうだ。


その時、俺は思いつく。いるだろ、ごく身近にそういう経験がありそうな人が。まあ、正直この人に頼るのは大分恥ずかしいが……背に腹は代えられない。


俺は部屋を出て、居間の扉を開ける。そして、その人物を呼んだ。


「母さん、ちょっと──」





──三十分後。


「……ふう」


何度となく訪れた「立花」の表札が掛かる家の前で、俺は小さく息を吐いた。

ふと、視線を下に向けると、普段とは違う装いの自分を意識して余計に緊張する。



『これからデートに行くから、何着てけばいいか教えてくれ』──居間のソファで寝っ転がっていた母親にそう言うと、奴は『はあ!?』と声を上げて驚いた。


『何……あんた、デートって……そんな相手いたの?いつからよ?』


『な、なんでもいいだろ、そんなの』


『よくないわよ……というか誰よ。あんた、ちゃんとその子のこと大事にしてるんでしょうね?変なこととかするんじゃないわよ』


『しねえよ!てか、昨日からそうなったばっかりだし……』


『昨日!?』


……とまあ、しばらくはそんなやり取り応酬が続いたんだが、やがて母親は「はあ」と大きなため息を吐くと、ソファから立ち上がり、『待ってなさい』と居間を出て行った。


それから、どこから出してきたのか、俺のタンスにはない男物の服一式をいくつか持って来て、俺にあてがいながら、「これとそれにしたらいいんじゃない」とか、何とか……まあ、言われるがままに着てみたんだが、今一つ、自信はない。


それでも、家を出る直前、母親は俺にこう言った。


『ふうん……まあ、いいじゃない。あんたにしては』


『あんたにしてはって何だよ。てか、これ……俺のじゃないだろ。どこから出したんだ?』


『父さんのよ』


……訊けば、『こっちに来てから、ほとんどそんなことなかったけど。それでも、たまに出かける時……何かいつも、こういう格好してたのよ。あの人』と、懐かしむように言った。

それがこの人にとっての、「デート」の記憶なんだろうとなんとなく思って……「母さんって一途なんだな」と言ったら、思いきり尻を蹴られたんだが。まあ、いい。


──俺、似てるらしいしな……。


俺はもう一度、自分の格好を検める。そしてもう一度、息を吐いてから、俺はドアをノックした。


──こん、こん。


すると、間もなくドアが開く。やたら、ゆっくりと開くような気がしたが、それは気のせいなんかじゃなかった。本当にゆっくりとドアは開いて……そこから、瞬がひょこりと顔だけ出す。


「こ、康太……!」


「お、おう」


瞬が俺を見た瞬間、目を丸くする。それから、ドアの陰に隠れて見えない、自分の身体を見て──そっとドアを閉じようとしたので、俺は慌てて「待て待て」とそれを止める。


「祭り行くんだろ。どうして引っ込む」


「だ、だって……こんな格好じゃ、康太の隣に並べないよ……」


「ど、どんな格好なんだよ」


俺だって、今の自分の格好に自信があるわけじゃないんだぞ……と言うと、瞬は「そんな」と首をぶんぶん振った。


「こ、康太はすごく……格好良いよ。だから、俺恥ずかしくて……」


「いや、そんなに言われると気になるだろ。瞬なら、何着ても大丈夫だ。セーラー服だって着こなすだろ」


「あれはちょっと違うよ!いや、でも……うーん」


ドアから覗いた瞬の顔が渋くなる。訳も分からず、どうすりゃいいんだ……と思っていると、ふいに、瞬が家の中の方を振り返る。すると──。


「え、あ……ちょっと、すみ……っ、わっ!?」


突然、何かに押し出されるように、瞬が俺の方に転がり出てくる。咄嗟に抱き止めると──。


「え、えっと……」


なんていうことだろう──腕の中の瞬は、甚平姿だった。

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