7月29日


──突然、目の前がぱあっと白く、明るくなった。


『ん……』


柔らかいその光で、固くくっついてた瞼が解けたみたいで、俺はゆっくりと目を開いた。


知らない天井、それに、俺は……ベッドで寝ていて……ここは──病院?


──そう気付いた瞬間、何かが俺に飛びついてきて、身体が大きく揺れる。


『わっ……!?』


『しゅん、しゅん……っ!』


『こ、こうた……?』


見ると、康太が俺に抱きついてきていた。珍しい。康太はこんな風に、俺にくっついてきたりしないのに。どうしたんだろう……?


痛いくらい、ぎゅうっと抱きついてくる康太の腕の中で、わけも分からず瞬きしていると、俺の肩口に顔を埋めながら康太が零す。


『……よかった、生きてて……おれ、どうしようって』


──生きてて……?


まるで、俺が死んじゃいそうだったみたいだ。俺は何ともないのに……と思った時、頭がずき、と痛んだ。



──『いっつも、いっつも……おれに……っ、好きとか、ばかみたいなこと言って……っ!いい加減、ウザかったんだよ!』


──『こうたなんて……大っ嫌い!』



──そうだ……おれ、あの時……こうたと、けんかしちゃって……。


階段の側で、我を忘れて、康太に酷いことを言ってしまった。


そして、俺は、階段から──。


真っ逆さまに落ちていく浮遊感と、俺を見つめる康太の青ざめた顔がフラッシュバックする。


──あれは……俺の、せいだ。


喧嘩して、売り言葉に買い言葉になってたとは言え──康太に、思ってもないことを、口走ってしまった。


本当は全然、嫌いなんかじゃないのに。


康太が俺のこと──本当は、あんな風に思ってるわけないって、分かってたのに。


いつのまにか見失っていたことを、すぐそばに感じる康太の温かさで思い出す。

胸がほっとして、身体中が温かいもので満ちていく。


──ちゃんと、言わなきゃ……。


『こうた……おれ……』


『ごめん、しゅん……』


鼻を啜った康太が、真っ赤な目で俺の顔をじっと見つめて言った。


『ごめん、ごめん……』


『こうた……?』


『おれのせいだ……おれが、おれが……』


『こうたのせいじゃないよ』


自分を責めないでほしくてそう言ったら、康太は唇を噛んで俯いた。


『こうた?』


黙ってしまった康太に、首を傾げる。


すると、康太が、震える声で言った。


『もうだいじょうぶだ……これからは……』


膝の上でぐっと拳を握ってから、康太は俺を見据えて言った。


『おれが、しゅんをまもるから……』


もう一度、康太が『ごめん』と言った。だから、俺はそんな康太を抱きしめた。


『ごめんね……こうた』


俺も、同じだよ──そう伝えたくて。





「康太」


──見つけた。


飛ばされた真っ白な世界で、震えて蹲る康太を背中から抱き締めて、呼ぶ。


すると、康太は一瞬、びくり、としてから、ゆっくりと身体を起こし、俺の方を振り向いた。


驚きで見開かれた目で、俺を見つめる。それから唇を震わせて言った。


「しゅ、瞬……?」


どうして──声にならない、ただ唇を動かしただけの問いかけに、俺は答える。


「康太が、俺を呼んだから」


「お、俺が……瞬を……呼んで……」


俺の言葉を繰り返す康太は、小さな子どもみたいだった。


ああ、そうか……。


──康太の心の奥の時間は、あの時で止まってるんだね……。


あの日、俺と喧嘩をして、俺が階段から落ちた時から。


俺は康太に言った。


「……俺、ちゃんとここにいるよ。康太のそばにいる。これからもずっと」


「ずっと……」


俺を見つめる康太の瞳が揺らぐ。俺は康太を抱きしめる腕に力を籠めた。

──その時だった。


「そいつの言うことに耳を貸したらダメだよ、瀬良」


「……あなたは」


頭上から声が降ってくる。


見上げると、そこには……ぞくりとするような綺麗な男の人──『あの人』がいた。


「さすがに執念深いね、立花。そんなに瀬良を離したくないのかい」


「……あなたほどじゃないけどね」


腕の中の康太をあの人から庇うようにしながら睨むと、あの人は冷めた目で言った。


「それなら、瀬良から離れてよ」


「嫌。絶対離れない」


「俺ほどじゃないんだろう。その程度で、瀬良を連れて帰る気かい」


「そうだね。俺は『あなたほど』、康太に執着してない。だって──」


すっと息を吸う。身体に感じる、あの人の圧を吹き飛ばすように、俺は言い放った。



「俺は、あなたなんかとは比べ物にならないくらい、康太のことが好きだから」



すると、あの人は鼻で笑った。それから俺に向かって左腕を伸ばす。


「……よく言うよ。何も知らないくせに」


伸ばした腕の先、手にはいつの間にか銃が握られていた。照準は俺の額に真っすぐ向けられている。

だけど、こんな程度で怯んでたまるか……康太は、絶対に渡さない。


「立花は本当に無知で嫌になるね。瀬良が殺したくなるのも納得さ。無知で、無邪気で、癇に障る」


「康太が俺を、殺す?」


「……憐れだね。未だに騙されてるなんて──なら、いっそのこと、そのまま死んだ方がいいか」


あの人が綺麗な顔を歪めて笑った。肩が揺れて、銃の照準がほんの少し、俺から逸れる。その瞬間──。


──パァン!


「──っ!」


破裂音があたりに響く。床に落ちた銃が軽い音を立てて転がる──あの人の手から弾かれたのだ。

やったのは──。


「……悪霊」


「悪霊やないて」


──澄矢さんだ。瞬きの間に現れた澄矢さんが、あの人に歩み寄る。

あの人は澄矢さんを睨んで言った。


「人間に加担なんかして、今度こそ消えるよ」


「かまへんよ。よう考えたら、本当はこっちが、儂の『仕事』やったしな」


「馬鹿だな」


「馬鹿はお前や」


澄矢さんは、今度はあの人に銃を向けて言った。


「……もう終わりにしようや。なあ、いい加減、康太を離せ。ここまで捻じれて腐った縁は、お前の身も腐らす。お前も、もう楽になりたいやろ」


「離す……か、はは。瀬良は、それを望むかな」


「……どういうこと」


俺がそう訊くと、あの人は康太を指さして言った。


「俺は瀬良の願いを叶えてやっただけさ。だから、瀬良がそれを望まなくなれば、縁は切れる。だけど、瀬良がそれを望むと思うかい」


「……っ」


その言葉に、腕の中で康太がぴくりと反応する。


「康太?」


「……」


眉を寄せた康太が、俺から視線を外す。それから、俺の胸をそっと手のひらで押して言った。


「……離れてくれ」


「どうして」


「俺は……瞬といていい奴じゃない」


そう言って、康太が俺の腕の中から抜け出ようとする。だけど、俺がそれを許さない。

半ば、康太を羽交い絞めにするような体勢になると、康太は俺を振り返って言った。


「……離せって」


「嫌。離さないって、さっきも言った」


「それは、あいつにだろ……いいから、離せ……っ!俺は、こんな……」


「こんな……何だって言うの……?」


「──っ」


苛立ったように舌打ちすると、康太は力任せに俺の腕を振り切った。

そして、床に転がっていた銃を拾うと、それを俺の左胸にぐっと突きつけてきた。


「……康太」


──何してるの、とは訊かない。ただ、それを受け止める。


脈打つ心臓の上で、冷たい銃口から伝わる「死の圧」を感じながら、だけど、俺の心は凪のように静かだった。それは──絶対的な確信があるから。


だから、俺は、銃の照準をあの人から康太に移そうとした澄矢さんを手で静止した。


「怖くないのかい」


あの人が俺に尋ねる。俺は頷いた。それから、銃を握る康太の震える手に、自分の両手を重ねて言った。


「康太は、俺を殺さないよ」


「──どうかな」


俺の答えに、あの人が意味ありげに笑った。それから、言った。


「立花は、瀬良がどんな奴か知らないだろう」


「知ってるよ」


俺は、康太の手を包むように、きゅっと自分の手に力を籠めて、言った。


「口が悪くて、ちょっと見栄っ張りで、そのくせ格好がつかなかったり、意外と小心者で、だけど、根は素直で、優しくて、頑張り屋で、いつも俺のことを考えてくれる。すごく頼りになって、いざとなったら、俺を守ってくれる」


「違う」


声を震わせてそう言ったのは康太だ。俺は首を振った。


「違くない」


「違う……俺は……っ、そんな、瞬が思ってるような奴じゃ……本当は……っ」


銃を握る手に力が籠る。康太は、俺の胸に銃をさらに押し付けて言った。


「俺は……っ、瞬を……こんな風に、殺してたかもしれなくて……」


「……殺す?」


俺が訊くと、康太は苦し気に顔を歪めた。その後ろで、あの人が笑う。


「……自分で告白するかい、瀬良。いいよ、立花に教えたらいい。自分がどんなことをしたか」


──そうすれば、楽になれるよ。


「……」


あの人の言葉に、ふっと、康太の眉間の皺が引く。一度、俯いて──それから、顔を上げた康太の目は諦観の色が濃く見えた。何かに操られているみたいに、康太が口を開く。


「……瞬」


「……何」


「小学生の時……俺と、大喧嘩したの、覚えてるか」


「覚えてるよ」


「放課後だったよな。階段の側で鉢合わせて、そこで大喧嘩になってさ……瞬、足を踏み外して、階段から落ちただろ」


「……そう、だったね」


「瞬、何日も目覚まさなくてさ……皆、すげえ心配して……。楽しみにしてた林間学校だって、ギプスで行ったろ。辛かったよな……」


「……それが?」


「ああ。あれな……本当は、瞬は、足を踏み外したんじゃないんだ。あれは、あれは──」


康太が声を詰まらせる。

ふっと一度、息を吐いてから、康太は俺の目を見て言った。



「俺が、やったんだよ」



「──知ってるよ」



言った瞬間、康太の目が見開かれる。俺はもう一度、言った。


「知ってるよ。そんなこと、とっくに」


「なんで……」


「澄矢さんと託弓さんから、聞いた」


──二人のことは知ってるでしょ?


俺がそう訊くと、康太は澄矢さんを睨んだ。それが答えだった。



──『ここから先は──あなたへと託します。そのために、私は今からあなたに、この話をします』



あの晩、そう前置きして、託弓さんが俺に話してくれたのは──あの人にかけられた「認識」の裏で、康太だけが抱えている『本当の記憶』だった。



──『……どうして、今になってこの話を?』


──『彼にかけられた”認識”は剥がれかかっています。かけた者が力を失いかけているのもありますが、如何せん、時が経ちすぎている。じき、彼は認識が剥がれて、本当のことを思い出すでしょう。かつて逃げた罪の重さが、時を越えてその身に降りかかってきた時、彼の心はそのギャップに耐えられない』


──『そのための、瞬ちゃんや』


──『俺……?』


──『認識をかけられとるのは、あいつだけやない。瞬ちゃんもそうや。せやから、まずこの話をして、瞬ちゃんの認識を解く。それに耐えられたら、今度は……あいつの認識が解けた時に、瞬ちゃんが支えたらええやん』


──『……ちょっと待って。今さらっと言ったけど、俺が耐えられなかったらどうするつもりだったの?ていうか、俺どうなってたの』


──『死んでたでしょうね。まあ、その時はその時です』


──『儂は、瞬ちゃんなら大丈夫やって思てたで?』


──『この神様たち……本当……』



なんて、あの晩にしたやり取りを、こんな時に思い出して、つい笑う。

すると、康太が乾いた声で言った。


「な、なんで……そんな、笑えるんだよ……」


「逆に訊くけど、康太はどうしてそんなに思い詰めてるの?」


「だって、俺は……瞬を……っ、最低で……」


「もう、小学生の時のことでしょ」


俺は康太の手から、重ねた手をそっと離す。それから、もう一度、康太をぎゅっと抱き締めて、言った。


「ごめんね、ずっと一人で抱えさせて」


「そんな……これは、俺が、俺の方が……」


ごめん、ごめん、と康太が涙声で繰り返す。もう一生分じゃないかってくらいの「ごめん」の後に、康太は言った。


「……俺、怖かったんだ」


「怖い?」


「瞬が……俺から離れていくこと。俺を、嫌いになることが……怖かったんだ。馬鹿だよな、自分で、瞬のこと、いっぱい傷つけて、遠ざけたくせに。それでやっと気付いたんだ……俺は、馬鹿だ」


いつもならその言葉は否定する。だけど、今は──。


「そうだね。康太って、本当に馬鹿。だって──」


康太の額に、額をこつん、とくっつけて、俺は言った。



「俺が康太を嫌いになるなんて、絶対にありえないことを考えちゃうんだから」



でも、康太にそれを考えさせたのは、俺のせいだ。だから、俺も康太に謝らなくちゃいけない。

俺は康太に「ごめんね」と言った。康太は首を振って「そんなのいい」と言った。


「俺も、康太のそれと同じ気持ちだよ」


「瞬と、俺じゃ……やったことの重さが、違う」


「同じだよ。俺も康太を傷つけた」


「大したことねえよ……こんなの」


「じゃあ、俺もそうだよ」


堂々巡りだった。

つまり、どうやったって、俺は康太を嫌いになんか、なりようがない。


──いつか、俺があの人に「感情」を取られた時だって。


結局、俺はまた康太を好きになっちゃったんだ。俺にとって、この気持ちは、簡単に揺らいだりするようなものじゃない。今だって、そうだ。「本当のこと」を知ったって、俺の気持ちは変わらない。


だって──。


「……康太はね、ちゃんと、変われてるよ。昔に比べて、もっと素直になったし、嫌な意地悪もしなくなったし、俺がいじめられてる時、何度も守ってくれた。それは……あの時のことがあって、康太が自分で積み重ねてきたことでしょ。そんなことまで、一緒に忘れないでよ」


──俺はそんな康太を知ってる。だから、好きになったんだ。


「……っ、ぅ」


腕の中で、康太の力がふっと抜ける。俺の胸に突き付けられた銃は、どこかへ消えていた。たぶん、もう誰も必要としなくなったからだ。


俺に体重を預けるように、ぎゅっと抱き締め返してきた康太に、俺は言った。


「帰ろう。帰って……俺と生きてよ、康太」


「いいのか……俺で」


「いいに決まってる。康太が、俺でよければ……だけど」


「いいに決まってる」


──それが、俺達の答えだった。


「……もう、大丈夫やな」


いつの間にか、俺達よりも少し離れた場所に移っていた澄矢さんがそう言った。傍らには、あの人が座り込んでいた。……たぶん、俺達に手出しをしないように、澄矢さんが抑えててくれたんだろう。


俺は頷いた。康太は──そっぽを向いている。そう簡単には、素直になれないか。

でも、気持ちはきっと俺と同じで、それはたぶん、澄矢さんにも伝わっている。だって、あんなにニヤニヤしているし。


「行こうか」


「……ああ」


俺達は立ち上がった。どちらからともなく、お互いに手を差し出して、それを取る。

固く手を繋いで、俺達は歩き出した。


「あそこを見てや」


澄矢さんがそう言って、前を差す。そこには、目が眩むような眩しい光があった。

俺は澄矢さんの言いたいことを予感する。あれはきっと──。


「あの光に向かえば、現実に帰れる。……元気でな」


短いけれど、それは澄矢さんの別れの言葉だった。


俺はぐっと胸が詰まりそうになって、だけど、隣にいる康太が「言われなくてもそうする」とか、そんな憎まれ口を叩いているから、そんな気分も吹っ飛んでしまって──俺も、明るく澄矢さんに言った。


「うん、澄矢さん……ありがとう。じゃあね!」


「おう」


澄矢さんに手を振って、歩き出す。光はすぐそこにあった。


康太と頷き合ってから、その光の向こうへと踏み出す。


「……よく、信じられるね」


眩しい光に包まれる直前、背中越しに、あの人は俺にこう言った。


「怖くないのかい。自分をあんな目に遭わせた奴が」


「全然」


俺は一瞬だけ、後ろを振り返って言った。


「だって、俺は康太が好きだから。信じられる」


神様なんかよりね──そう心の中で付け足して、俺はもう、前を向いて振り返らなかった。

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