10月15日(日)


──こん、こん。


朝八時頃。

いつもよりも、少し控えめなノックが玄関の方から聞こえてくる。


台所で朝ご飯の片付けをしていた手を止め、俺は小走りで玄関に向かう。チェーンを外して、ドアを開けると、そこにいたのはもちろん──。


「康太、おはよう」


「おはよう、瞬」


そう言って、康太が片手を挙げる。日曜日なのに、康太はブレザーまで羽織った学校指定の制服姿だった。

それもそのはず。今日は、康太の二社目の就職試験の日だ。


「緊張してる?」


「まあ、さすがに……」


俺が訊くと、康太はふっと息を吐いてそう答えた。眉間には皺が寄っていた。これは……結構緊張してるな。


まだ少し時間があると言うので、俺は康太を家に迎え入れた。

日に日に秋が深まる今日この頃。朝のマンションの廊下は、少し肌寒いからね。大事な試験前に身体を冷やしたら、余計に身体ががちがちになっちゃうだろう。


俺は康太を居間のテーブルの前に座らせ、台所でちょうど沸かしていたポットから、お湯を注いで、お茶を淹れてあげた。

康太はそれを「ありがとう」とカップで手を少し温めてから、ずずっと啜る。こと、とカップを置いたのを見て、俺は康太に訊いた。


「……もしかして、『日課』のこと気にして、うちに来てくれたの?」


『日課』というのはもちろん、【ノルマ】のために俺達が日々しているキスのことだ。

人目につかない場所でするために、大抵はお互いの家で、朝することにしてる。どうして朝なのかというと、進路活動や文化祭の準備で立て込んでる最近は「後でしよう」と思っても、急な予定でそれができなくなるリスクがある。確実に時間が確保できる時に……と思うなら、朝が最適なのだ。だから今日もそういうことかと思ったんだけど……。


「ああ……まあ、それもそうだけど……」


康太は歯切れ悪く、俺から視線を逸らしてそう言った。

どうしたのかと思って「康太?」と首を傾げると、康太は俺をちらりと見て──やがて、諦めたように、ぼそりと零した。


「……試験前に、顔見たくなって」


「……俺の?」


「他にないだろ」


口を尖らせてそう言う康太に、俺は言いようのないふわふわとした気持ちになった。同時に、「康太になんて無粋なことを訊いたんだろう」と反省した。今も、目の前で、そわそわとしている康太の顔を見れば、察しがついてもよかったはずなのに。


俺は康太に「ごめんね」と言って、頭をぽんと撫でた……面接のためにせっかく整えた髪が乱れない程度に。

康太は「おう」とそれを受け入れて、さっきまで少し強張っていた表情を和らげた。


それから俺達は、緊張を解しがてら、たわいもない話を少しして、試験の後のご飯の予定のことなんかも決めて──そのうちに、いよいよ、康太は出発しなきゃいけない時間になった。


「頑張ってね、康太なら大丈夫だよ!」


「ああ……ありがとう。行ってくる」


玄関で背中を押して、康太を送り出す。手を挙げて、ドアの外に出た康太は、ふいに「あ」と俺を振り返った。


「どうしたの?」


「……日課、しなかったな」


ああ──と俺もそこで思い出す。後のことを考えれば、今ここでした方がいいのかもしれない、けど……。


「……今日は大丈夫だよ。ご飯もあるでしょ?帰ってきた時に、俺の家に寄って……そこでしよう」


「……そうだな」


俺の提案に康太は頷いてくれた。……試験前の康太に、余計なことはしたくなかったから、これでいい。


廊下を階段に向かって歩きながら、何度も俺を振り返る康太に、俺は手を振って──それから「頑張れ」と呟いた。



______________



「おう、就活浪人」


「うるせえ」


就職試験が終わり──飯に行く約束をした瞬との待ち合わせのために、駅前のベンチに座ってぼんやりしていた時だった。


いきなり頭上から声が降ってきたかと思って見上げると、随分久しぶりに見る気がする──クソ悪霊ことクソ矢がベンチの背もたれの上に立っていやがった。


「はー……相変わらず態度がなっとらんな。せやから、三社も落ちるんやで」


「落ちたのは二社だけだ。しかも一個は校内選考で、だ」


「そんなに変わらんやろ」


行儀悪く胡坐をかいて、そのままベンチの背もたれの上に腰を下ろしたクソ矢が、腹の立つ顔で鼻を鳴らす。そんなクソ矢に俺は舌打ちをしてから、訊いた。


「……何の用で来やがった」


「忠告や。お前が最近、毎晩やっとるアホなことについてな」


「……」


──やっぱり、見てんのか……と思いつつ、俺はクソ矢に言った。


「俺がどうしようと、お前には関係ねえだろ。どうせ、お前もあっち側なんだから」


「関係大アリや。お前がアホやって死んだら、親父にどやされんのは儂や……せやから、そうなる前に止めとんのやろ」


「……」


父親のことを出されて、つい言葉に詰まる。……どういう縁かは知らねえが、こいつが俺の父親と繋がってるらしいことは、聞いたことがある。だから、俺が死んだらどうこうってのは嘘じゃねえとは思う、が。


「別に死ぬ気なんてねえよ。瞬を置いていくわけねえ。ただ……懸けてるだけだ。あいつを呼び出すために」


「マンションの外廊下だの、ベランダだの、近所の川の橋の上から身を乗り出すことがか?それがアホやって言うてんねん。しかも、それは何の効果もない無駄や。やめとけ」


クソ矢がやれやれと肩を竦める。俺は苛立ち交じりに、また舌打ちをした。アホなことだってくらい、俺だって分かってる──けど。


「あの【ゲーム】は二人でするもんだろ。【ゲーム】の参加者である一人が、【ルール】の外で死んだらどうなるかってことは明記されてない……つまり、想定にないことが起きるかもしれないと見れば、あいつが出てくるかもしれねえ……お前らの親玉が」


クソ矢どもの親玉──つまり、この【ゲーム】のマスター「せかいちゃん」が。


それを期待して、俺は夜な夜な……人目につかない時間に、クソ矢の言うように、自分の身を危険な場所に置いてみたりしてるんだが。


「お前のそんな思惑、せかいちゃんは見透かしとるわ……せやから出てこんよ。お前が死ぬ気ないのも分かっとるし」


「だから、無駄なんやって」とクソ矢が首を振る。俺はそんなクソ矢に訊いた。


「じゃあどうしたら、あいつと話せる。お前、あいつとも繋がってるんだろ、どうにかしろ。瞬のためでもあるんだぞ」


「せかいちゃんはそないに暇やないし、儂がおいそれと呼べるような存在でもないわ……どうもできんよ」


「クソ無能霊が……」


「無能霊ってなんやねん」


「大体」とクソ矢は俺を見据えて言った。


「お前、せかいちゃんと話してどうする気やねん」


「……このゲームをぶっ壊す」


「はあ?」


眉を寄せて訊き返してきたクソ矢に、俺は言った。


「……俺はこのゲームをぶっ壊す。そのために、奴と取引をする。暇じゃねえってのに、こんな【ゲーム】を仕掛けるってことは、あいつにとってこの【ゲーム】は何か意味があるものだし、目的があるはずだ。それが分かれば、取引の余地はある」


──瞬に、望まないことをさせないために。


俺がそう言うと、クソ矢は「ふん……」と鼻を鳴らした。それから、視線をどこか遠くに投げると、独り言のように言った。


「まあ……その見立ては合っとるわ」


「は?」


「【ゲーム】がせかいちゃんにとって意味があるものっちゅうのは、そうや。せやから、せかいちゃんが出張ってくるとしたら、それは──」


「なんだよ」


もったいぶるような口ぶりのクソ矢に先を促すと、クソ矢は苦々しい顔でこう言った。


「意に沿わない展開になってきた時、それを軌道修正するため……とかやろな」



______________



──……あんたの方だったか。



「……っ!」


ふいに降ってきた声に目を開ける。薄暗い部屋の中で、何かの影が目の前で揺らいだような気がして、俺は声にならない悲鳴が出た。


──だ、誰……っ!?


恐怖に身体が竦むけど、ゆっくりとベッドから身を起こす。ぱちぱちと瞬きをすると、その影はどうやら俺の上に跨っていたらしいと分かった。闇に目が慣れてくると、朧げにその正体が掴めてくる──この影は、いや……この子は……。


「せ、せかいちゃんさん……?」


「あれ、起きちゃった?寝起きどっきり失敗かー」


俺の寝込みを襲った(?)ことに悪びれもせず、けらけら笑うこの女の子は──忘れもしない、俺と康太に【ゲーム】を強いている人物その人だ。


俺は布団の上で、ぺたんと座っているせかいちゃんさんに警戒しつつ、尋ねる。


「な、何の御用ですか……?」


「んー?御用ってか、悪戯」


「い、悪戯?」


うっすらと嫌な予感がしつつ訊き返すと、せかいちゃんさんは「そ」とにっこり無邪気に笑って言った。


「あんたら、セックス失敗しちゃったじゃん?だからさー……あ、ってかアレ、結構惜しかった……くもないか。康太くんはヘタレだし、瞬ちゃんも余計なこと気にするからさあ……あんな前のこと、いちいち引っかかってたら生きてけないじゃん。何してんの」


「……」


言葉を返すことができず俯く俺に、せかいちゃんは「ま、いいけど」と言って続ける。


「いっそ、めちゃめちゃにヤッてもらった方が忘れられるんじゃないの?あのままヤレばよかったのに」


「……ごめんなさい」


何に対してか分からない謝罪が喉から押し出されるように口を吐く。だけど、せかいちゃんさんはそれを「気にしないでよー」と肩を揺らして笑って流す。


「あんたにヤる気がないなら、引き出すだけだから。いい加減、ぼーっと観察してるのも飽きちゃったし。前もやってたみたいなキャンペーン?あたしもやってみよっかなって」


「どういうこと……ですか?」


楽しそうに言うせかいちゃんさんの意図が掴めず、眉を寄せる。すると、せかいちゃんさんはにっと笑って……俺をベッドに押し倒し、跨ってきた。


「え、ちょっと……何……っ!?」


俺よりもずっと小さいのに、まるで抵抗できない。あっさりと組み敷かれてしまった俺の、ちょうどお腹のあたりに乗っかってきたせかいちゃんさんはそのまま、俺の寝間着のシャツをぺろりと捲った。そして、剥き出しになった俺のお腹を手のひらで撫でる。


──その瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。


「な、何……やめて……やめてよ……っ」


恐怖で掠れる声でそう叫ぶけど、せかいちゃんさんは「大人しくしててよ」と言うだけで手を止めようとしない。

そのうちに、せかいちゃんさんが手のひらで触れたところが、まるで焼き印でも押し付けられてるみたいに熱くなって──。


「──っ、あ……うぅ……な、何……これ……っ?!あ、あつ……っ」


あまりの熱さに悶える俺を見下ろして、せかいちゃんさんは「ミッションコンプリート」と笑って言った。


「神様連中って、認識を弄るのが得意だったっしょ?あたしもさ、それと同じで得意なことがあるんだ。例えば──人の感情を倍に増したりとかさ」


「か、感情を……倍に……?」


肌を刺すような痛みに意識が遠のきそうになりながら繰り返すと、せかいちゃんさんはさらに言った。


「あとは感覚とか?とにかく、あんたにはこれから一週間──そのままでいてもらうから。これ、ぶっちゃけボーナスタイムだよ?精々頑張ってねー」


「詳しくはまた明日」とせかいちゃんさんの声がぼんやりとあたりに響く。ほんの一瞬、瞬きをした間にせかいちゃんさんはもう消えていた。


「……っ、はあ……はあ……」


お腹に感じていた熱さがやっと引く。それでもまだ、じりじりと火傷でも負ったみたいに肌が痛むから……俺は気になって、恐る恐る、シャツを捲って見た。


──そこにあったのは。



「う、嘘……何……これ……?」



──何かの紋章……みたいな……。



そこには、ハートマークをいくつも象ったような、妖しい紋章が……俺のお腹にくっきりと大きく刻まれていた──。

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