7月2日
『康太』
『何だよ』
『好きだよ』
『……』
毎日、言われているはずなのに、それは随分久しぶりに言われた気がした。
今まで、ただ受け止めていたその言葉が、今は何か違う響きを持って、胸に迫ってきた。
身体の中で燻ぶっている、形を持たない何かが……瞬のその言葉で、輪郭を持ち始めたような──。
『それ……』
『何?』
ふと、いつか訊こうと思っていたことを思い出す。
『寝る前に……いつも言ってくれるよな。何か、意味があるのか?』
『んー……』
瞬が少し考える。それから、こう教えてくれた。
『母さんが……俺を寝かしつける時に、よく言ってくれた……ような気がして』
『……俺を子ども扱いしてるのか?』
『まあ、そうかも』
『おい』
『でも、それだけじゃないよ。小さい時の俺は、それがなんだかすごくほっとして……よく眠れたから。康太にも、それを分けたかったの』
──ああ、そうか。
今になってやっと分かった。
俺の中にあるこの気持ちはきっと、瞬に分け与えられたものだ。
そうか、これが──。
☆
「はあー……やっと終わった」
この一週間で溜まった洗濯物と、留守の間に、すっかり埃だらけになってしまった家の掃除を終え、一息つく。
無事に直ったエアコンが効いた部屋は涼しく、家事で流した汗がさっと引いていった。冷蔵庫から出した冷たい麦茶が美味しい。ふと、スマホを見ると、康太からメッセージが届いていた。
『エアコンの調子は大丈夫か?』
『大丈夫だよ』と、返信する。すると、すぐに康太から『何かあったらすぐ言えよ』とまたメッセージが送られてきた。俺は思わず、笑ってしまう。
昨日……一週間、お世話になった康太の家から、俺は自分の家に戻ってきた。
来た時と同じで、康太は俺の布団や、持って行った荷物を運ぶのを手伝ってくれた。それから、直してもらったばかりのエアコンをガンガンに効かせた部屋で、一緒にテスト勉強をしたり、麦茶を飲んでまったりしたり……そんな風に二人で夕方までゆっくり過ごした。
別に、お互いにそうしようと言ったわけじゃなかった。だけど、自然とそうなった。お互いの気持ちが重なったような──そんな気がした。
帰り際──康太は俺にこんなことを言ってくれた。
『もう一晩くらい、いてもよかったんだぞ』
『それはもう……できないよ。エアコンも直ったし』
俺がそう言うと、康太は『そうだな』と、今言ったことは、冗談だったみたいに笑った。
そのくせ、こんな風に、俺を気にするようなメッセージを送ってきたりするから、分からない。
──やめよう、考えるの。
頭を振って、これ以上は考えないことにする。
俺は俺で、康太は康太だ。康太の中のことは、康太が……答えを出すしかない。俺は、それを待つだけだ。
コップを流しに持って行き、片付ける。それより、今日の夕飯のことでも考えよう。
一週間も家を空けていたから、買い出しにも行かないといけないし……そんな風に切り替えたつもりなのに、行きつくところはやっぱり──。
──『何かあったらすぐ言えよ』
『康太、このあと時間ある?』
『買い出しに行くんだけど、一緒に来てくれると助かる』
☆
「わっ……」
玄関のドアを開けると、熱のこもった空気が肌を襲う。マンションの外廊下に差し込む夕日は、目に染みるくらい眩しくて、じわりと暑い。そっか、もう七月なんだもんね。
鍵を締めて、康太と待ち合わせをしているエントランスに向かう。スマホを見たら『もうちょっと待っててくれ』と康太からメッセージが来ていた。俺は『大丈夫だよ。急に呼んじゃってごめんね』と返す。
そして、少し前に康太に送った『ありがとう』に添えた……『大好き』のスタンプに、なんてずるい奴だと呆れた。
でも、康太が来てくれることに、どうしようもなく気分は舞い上がってしまう。昨日まであんなに一緒にいたのに。
階段を降りてエントランスに着くと、俺は、康太を待つついでにポストを確認した。そういえば、これも最近少し溜めてしまっていて、投函口には色々なチラシとか、お知らせが挟まっていた。すっかり忘れていたことを反省しつつ、持って来たバッグにそれを仕舞っていると、ふと、隣のポストが目に入る。
──あれ、お隣さん……誰か引っ越してきたのかな?
隣のポストには、チラシ以外に、明らかに個人宛っぽい郵便物が挟まっている。うちの隣はたしか……しばらく空き部屋になっていたはずだ。それが、郵便物が届くようになってるってことは──。
「あれ……すみません。もしかして、お隣の立花さんですか?」
「え?」
ふいに、後ろから声を掛けられて振り返る。
そこにいたのは、背が高くて、柔らかい笑顔を浮かべた、二十代くらいの爽やかな男性で──。
「ご挨拶が遅れてしまってすみません……私、隣に引っ越してきた──」
俺と視線が合うと、その男の人の目が大きく見開かれる。それからすぐに、ぱあっと表情が明るくなって……懐かしい声で俺を呼んだ。
「もしかして……瞬ちゃん?」
「み、みなと先生……?」
俺がそう言うと、「みなと先生」は手を叩いて「やっぱりそうだ!」と声を弾ませた。
その瞬間、俺も胸の底からぐっと気持ちがこみ上げてきて──。
「みなと先生!」
「瞬ちゃん!」
二人して、お互いを呼び合って再会を喜んだ。思わず、昔みたいに、先生に飛びつきそうになったけど、それはさすがにまずいので堪える。先生の方も、腕を広げそうになっていたけど、我に返って、俺と顔を見合わせて笑った。
──「みなと先生」……こと、「
俺が小学二年生の頃に、教育実習でクラスに来ていた先生で、悩んでいた俺を励ましてくれたり、一緒に遊んでくれたりして、すごく慕っていた先生だ。
その後、俺が四年生の時に、今度は正式に「先生」として学校に戻ってきてくれたんだけど、たった一年で異動してしまって……会うのはそれ以来になる。
だから、先生は、俺を頭のてっぺんから爪先まで見ながら「大人になっちゃったなあ……」としみじみしていた。
反対に、みなと先生はちっとも変わってない。夏らしく、涼しげでラフな私服姿は新鮮だけど、他はあの頃と同じ──大人の男の人って感じで、格好良くて、俺が憧れてた先生のまんまだ。
俺はふわふわした気持ちのまま、先生に尋ねる。
「どうして先生がここに?それに、まさかうちの隣だなんて……」
「俺もびっくりしたよ。瞬ちゃんがまさかお隣さんだなんてね。表札を見て、お隣が『立花』さんだってことは知っていたけど、思いもしなかった。先週、引っ越してきた日に挨拶に行ったけど、留守だったみたいで、会えなかったしね」
「留守って……あ、そっか」
先週といえば、ちょうど、エアコンが壊れて、康太の家に移った時と重なる。その後は、ほとんど家に帰らなかったし、だから気付かなかったのか……。
俺は先生に事情を説明した。実は家のエアコンが壊れてしまったこと、それから、直るまでの間、幼馴染の康太の家にしばらく居候させてもらっていたこと……すると、先生は目をぱちくりさせて言った。
「居候って……その間、ご両親は?」
「二人は今、海外で仕事をしてるんです。だから実は、俺……今、一人暮らしで」
「ひ、一人暮らし!?」
目玉が飛び出ちゃうんじゃないかってくらい、先生はびっくりしていた。格好いいのに、時々コミカルな表情をして、皆を笑わせるのも、昔と同じだ。そんな先生につい笑ってしまっていると、先生はほっとしたような顔で「よかった」と言った。
「先生?」
「いや……瞬ちゃん、すっごく大人になっちゃったし、一人暮らしまでしてるって言うから……なんだか、ちょっと焦っちゃったけど。笑った顔が全然変わらないから。ちょっとだけ安心したよ」
「そんな……」
先生も同じようなことを考えていたんだと、胸がこそばゆくなる。すると先生は、にっと笑って言った。
「俺も負けてられないな。一人暮らしは初めてだから、気持ち切り替えて……頑張らないと」
「あれ?そうなんですか?」
このマンションはいわゆるファミリー向けだから、先生みたいな若い人の一人暮らしは珍しい。俺が出会った時からもう大分経っているし、てっきり、先生もご結婚されてるのかと思ったけど……。
すると、さっきまでの明るい表情が一転。先生は暗い表情で俯きがちに言った。
「いや……ちょっと色々あってね……本当はこんなはずじゃなかったんだけど……」
「え、あの……大丈夫ですか?」
引っ越す時に何かあったのかな?心配になって、先生に近づくと、先生は「大丈夫だよ」とそれを制して言った。
「とにかく……これから、お隣さんとして、お世話になります。よろしくね、瞬ちゃん」
「あ、えっと……はい。じゃあ、また」
顔を上げた先生は、もういつもの爽やかな笑顔に戻っていた。手を振って、その場を去っていく先生に、俺も手を振る。
──なんだか、これから楽しくなりそう。
そんな予感に胸を躍らせていると──。
「おう」
「わっ!?康太」
いつの間にか、康太が来ていた。いつからいたんだろうと思っていると、康太が「ついさっき」と言った。
「なんだ、声を掛けてくれたらよかったのに」
「瞬が誰かと話してたから……てか、随分親しそうだったな。誰だったんだ?」
「みなと先生だよ」
「みなと……?」
康太が眉を寄せる。あれ、忘れちゃったのかな。
二年生の時は、康太も同じクラスだったから、みなと先生のことは知ってるはずだけど……。
俺が「ほら、小学校の時の……」と教えてあげると、康太はようやく「ああ……」と頷いた。
「なんだ、じゃあ……あいつ、ここに住んでたのか?」
「うん。あ、でも最近引っ越してきたんだって。しかも聞いてよ、俺の家の隣だよ」
康太にも教えたらびっくりするかな。そう思ったけど、康太は「ふうん……」となんだか、そっけない反応だ。
──まあ、康太は、みなと先生といるイメージがあんまりなかったし……。
休み時間も、俺がみなと先生を連れて来ようとしたら、康太はもう他の友達と遊びに行っちゃってたし。
苦手……ってわけじゃないだろうけど、小さい時の康太って、大人相手だと結構人見知りしてたもんなあ……もしかしたら、その辺は、今も変わってないのかもしれない。
そんな康太を少し可愛く思っていると、康太は俺にこんなことを訊いてきた。
「あいつ……結婚してんのか?」
どうしてそんなことを訊くんだろうと思いながらも、俺は答える。
「えっと……してない、みたいだけど」
「ふうん」
自分から訊いたくせに、まただ。
というか……なんか、怒ってるみたいな……?
──あ、そっか……俺が康太を呼んだくせに、先生とお喋りしちゃって、待たせちゃったもんね。
エントランスは人が出入りするたびに外気が流れ込んでくるし、どうしても空調がそんなに効かないから、ずっといると暑い。そんなところで待たされたら、いくら康太でも、ムッとするに決まってる。
「ごめんね、待たせちゃったみたいで……」
俺が謝ると、康太ははっとしたような表情をしてから、首を振って言った。
「いや、なんていうか……悪い。ほら、行こうぜ。遅くなると、レジ混むだろ」
「うん、そうだね」
康太が俺の背中をぽん、と叩いて促す。
康太からはもう、さっきまでの少し棘のあるような雰囲気は消えていた。
俺も、それ以上はもう気にしないことにした。
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