7月2日

『康太』


『何だよ』


『好きだよ』


『……』


毎日、言われているはずなのに、それは随分久しぶりに言われた気がした。


今まで、ただ受け止めていたその言葉が、今は何か違う響きを持って、胸に迫ってきた。


身体の中で燻ぶっている、形を持たない何かが……瞬のその言葉で、輪郭を持ち始めたような──。


『それ……』


『何?』


ふと、いつか訊こうと思っていたことを思い出す。


『寝る前に……いつも言ってくれるよな。何か、意味があるのか?』


『んー……』


瞬が少し考える。それから、こう教えてくれた。


『母さんが……俺を寝かしつける時に、よく言ってくれた……ような気がして』


『……俺を子ども扱いしてるのか?』


『まあ、そうかも』


『おい』


『でも、それだけじゃないよ。小さい時の俺は、それがなんだかすごくほっとして……よく眠れたから。康太にも、それを分けたかったの』


──ああ、そうか。


今になってやっと分かった。

俺の中にあるこの気持ちはきっと、瞬に分け与えられたものだ。


そうか、これが──。





「はあー……やっと終わった」


この一週間で溜まった洗濯物と、留守の間に、すっかり埃だらけになってしまった家の掃除を終え、一息つく。


無事に直ったエアコンが効いた部屋は涼しく、家事で流した汗がさっと引いていった。冷蔵庫から出した冷たい麦茶が美味しい。ふと、スマホを見ると、康太からメッセージが届いていた。


『エアコンの調子は大丈夫か?』


『大丈夫だよ』と、返信する。すると、すぐに康太から『何かあったらすぐ言えよ』とまたメッセージが送られてきた。俺は思わず、笑ってしまう。


昨日……一週間、お世話になった康太の家から、俺は自分の家に戻ってきた。


来た時と同じで、康太は俺の布団や、持って行った荷物を運ぶのを手伝ってくれた。それから、直してもらったばかりのエアコンをガンガンに効かせた部屋で、一緒にテスト勉強をしたり、麦茶を飲んでまったりしたり……そんな風に二人で夕方までゆっくり過ごした。


別に、お互いにそうしようと言ったわけじゃなかった。だけど、自然とそうなった。お互いの気持ちが重なったような──そんな気がした。


帰り際──康太は俺にこんなことを言ってくれた。


『もう一晩くらい、いてもよかったんだぞ』


『それはもう……できないよ。エアコンも直ったし』


俺がそう言うと、康太は『そうだな』と、今言ったことは、冗談だったみたいに笑った。


そのくせ、こんな風に、俺を気にするようなメッセージを送ってきたりするから、分からない。


──やめよう、考えるの。


頭を振って、これ以上は考えないことにする。

俺は俺で、康太は康太だ。康太の中のことは、康太が……答えを出すしかない。俺は、それを待つだけだ。


コップを流しに持って行き、片付ける。それより、今日の夕飯のことでも考えよう。

一週間も家を空けていたから、買い出しにも行かないといけないし……そんな風に切り替えたつもりなのに、行きつくところはやっぱり──。


──『何かあったらすぐ言えよ』


『康太、このあと時間ある?』


『買い出しに行くんだけど、一緒に来てくれると助かる』





「わっ……」


玄関のドアを開けると、熱のこもった空気が肌を襲う。マンションの外廊下に差し込む夕日は、目に染みるくらい眩しくて、じわりと暑い。そっか、もう七月なんだもんね。


鍵を締めて、康太と待ち合わせをしているエントランスに向かう。スマホを見たら『もうちょっと待っててくれ』と康太からメッセージが来ていた。俺は『大丈夫だよ。急に呼んじゃってごめんね』と返す。


そして、少し前に康太に送った『ありがとう』に添えた……『大好き』のスタンプに、なんてずるい奴だと呆れた。


でも、康太が来てくれることに、どうしようもなく気分は舞い上がってしまう。昨日まであんなに一緒にいたのに。



階段を降りてエントランスに着くと、俺は、康太を待つついでにポストを確認した。そういえば、これも最近少し溜めてしまっていて、投函口には色々なチラシとか、お知らせが挟まっていた。すっかり忘れていたことを反省しつつ、持って来たバッグにそれを仕舞っていると、ふと、隣のポストが目に入る。


──あれ、お隣さん……誰か引っ越してきたのかな?


隣のポストには、チラシ以外に、明らかに個人宛っぽい郵便物が挟まっている。うちの隣はたしか……しばらく空き部屋になっていたはずだ。それが、郵便物が届くようになってるってことは──。


「あれ……すみません。もしかして、お隣の立花さんですか?」


「え?」


ふいに、後ろから声を掛けられて振り返る。

そこにいたのは、背が高くて、柔らかい笑顔を浮かべた、二十代くらいの爽やかな男性で──。


「ご挨拶が遅れてしまってすみません……私、隣に引っ越してきた──」


俺と視線が合うと、その男の人の目が大きく見開かれる。それからすぐに、ぱあっと表情が明るくなって……懐かしい声で俺を呼んだ。



「もしかして……瞬ちゃん?」



「み、みなと先生……?」



俺がそう言うと、「みなと先生」は手を叩いて「やっぱりそうだ!」と声を弾ませた。

その瞬間、俺も胸の底からぐっと気持ちがこみ上げてきて──。


「みなと先生!」


「瞬ちゃん!」


二人して、お互いを呼び合って再会を喜んだ。思わず、昔みたいに、先生に飛びつきそうになったけど、それはさすがにまずいので堪える。先生の方も、腕を広げそうになっていたけど、我に返って、俺と顔を見合わせて笑った。


──「みなと先生」……こと、「みなと 真宙まひろ」先生。


俺が小学二年生の頃に、教育実習でクラスに来ていた先生で、悩んでいた俺を励ましてくれたり、一緒に遊んでくれたりして、すごく慕っていた先生だ。


その後、俺が四年生の時に、今度は正式に「先生」として学校に戻ってきてくれたんだけど、たった一年で異動してしまって……会うのはそれ以来になる。


だから、先生は、俺を頭のてっぺんから爪先まで見ながら「大人になっちゃったなあ……」としみじみしていた。


反対に、みなと先生はちっとも変わってない。夏らしく、涼しげでラフな私服姿は新鮮だけど、他はあの頃と同じ──大人の男の人って感じで、格好良くて、俺が憧れてた先生のまんまだ。


俺はふわふわした気持ちのまま、先生に尋ねる。


「どうして先生がここに?それに、まさかうちの隣だなんて……」


「俺もびっくりしたよ。瞬ちゃんがまさかお隣さんだなんてね。表札を見て、お隣が『立花』さんだってことは知っていたけど、思いもしなかった。先週、引っ越してきた日に挨拶に行ったけど、留守だったみたいで、会えなかったしね」


「留守って……あ、そっか」


先週といえば、ちょうど、エアコンが壊れて、康太の家に移った時と重なる。その後は、ほとんど家に帰らなかったし、だから気付かなかったのか……。


俺は先生に事情を説明した。実は家のエアコンが壊れてしまったこと、それから、直るまでの間、幼馴染の康太の家にしばらく居候させてもらっていたこと……すると、先生は目をぱちくりさせて言った。


「居候って……その間、ご両親は?」


「二人は今、海外で仕事をしてるんです。だから実は、俺……今、一人暮らしで」


「ひ、一人暮らし!?」


目玉が飛び出ちゃうんじゃないかってくらい、先生はびっくりしていた。格好いいのに、時々コミカルな表情をして、皆を笑わせるのも、昔と同じだ。そんな先生につい笑ってしまっていると、先生はほっとしたような顔で「よかった」と言った。


「先生?」


「いや……瞬ちゃん、すっごく大人になっちゃったし、一人暮らしまでしてるって言うから……なんだか、ちょっと焦っちゃったけど。笑った顔が全然変わらないから。ちょっとだけ安心したよ」


「そんな……」


先生も同じようなことを考えていたんだと、胸がこそばゆくなる。すると先生は、にっと笑って言った。


「俺も負けてられないな。一人暮らしは初めてだから、気持ち切り替えて……頑張らないと」


「あれ?そうなんですか?」


このマンションはいわゆるファミリー向けだから、先生みたいな若い人の一人暮らしは珍しい。俺が出会った時からもう大分経っているし、てっきり、先生もご結婚されてるのかと思ったけど……。


すると、さっきまでの明るい表情が一転。先生は暗い表情で俯きがちに言った。


「いや……ちょっと色々あってね……本当はこんなはずじゃなかったんだけど……」


「え、あの……大丈夫ですか?」


引っ越す時に何かあったのかな?心配になって、先生に近づくと、先生は「大丈夫だよ」とそれを制して言った。


「とにかく……これから、お隣さんとして、お世話になります。よろしくね、瞬ちゃん」


「あ、えっと……はい。じゃあ、また」


顔を上げた先生は、もういつもの爽やかな笑顔に戻っていた。手を振って、その場を去っていく先生に、俺も手を振る。


──なんだか、これから楽しくなりそう。


そんな予感に胸を躍らせていると──。


「おう」


「わっ!?康太」


いつの間にか、康太が来ていた。いつからいたんだろうと思っていると、康太が「ついさっき」と言った。


「なんだ、声を掛けてくれたらよかったのに」


「瞬が誰かと話してたから……てか、随分親しそうだったな。誰だったんだ?」


「みなと先生だよ」


「みなと……?」


康太が眉を寄せる。あれ、忘れちゃったのかな。

二年生の時は、康太も同じクラスだったから、みなと先生のことは知ってるはずだけど……。


俺が「ほら、小学校の時の……」と教えてあげると、康太はようやく「ああ……」と頷いた。


「なんだ、じゃあ……あいつ、ここに住んでたのか?」


「うん。あ、でも最近引っ越してきたんだって。しかも聞いてよ、俺の家の隣だよ」


康太にも教えたらびっくりするかな。そう思ったけど、康太は「ふうん……」となんだか、そっけない反応だ。


──まあ、康太は、みなと先生といるイメージがあんまりなかったし……。


休み時間も、俺がみなと先生を連れて来ようとしたら、康太はもう他の友達と遊びに行っちゃってたし。

苦手……ってわけじゃないだろうけど、小さい時の康太って、大人相手だと結構人見知りしてたもんなあ……もしかしたら、その辺は、今も変わってないのかもしれない。


そんな康太を少し可愛く思っていると、康太は俺にこんなことを訊いてきた。


「あいつ……結婚してんのか?」


どうしてそんなことを訊くんだろうと思いながらも、俺は答える。


「えっと……してない、みたいだけど」


「ふうん」


自分から訊いたくせに、まただ。

というか……なんか、怒ってるみたいな……?


──あ、そっか……俺が康太を呼んだくせに、先生とお喋りしちゃって、待たせちゃったもんね。


エントランスは人が出入りするたびに外気が流れ込んでくるし、どうしても空調がそんなに効かないから、ずっといると暑い。そんなところで待たされたら、いくら康太でも、ムッとするに決まってる。


「ごめんね、待たせちゃったみたいで……」


俺が謝ると、康太ははっとしたような表情をしてから、首を振って言った。


「いや、なんていうか……悪い。ほら、行こうぜ。遅くなると、レジ混むだろ」


「うん、そうだね」


康太が俺の背中をぽん、と叩いて促す。


康太からはもう、さっきまでの少し棘のあるような雰囲気は消えていた。


俺も、それ以上はもう気にしないことにした。

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