7月24日
──じわ、じわじわ、じわ……。
「あちぃー……」
予報通りの「地獄」の暑さで、息苦しいほど蒸した廊下から、教室へと戻ってくる。
とは言え、今は夏休み中だし、教室には誰もいないので、当然、エアコンは付いてない。だから、ここは外と同じ「地獄」だ……。
俺は、ネクタイを緩め、ボタン上二つまで外してはだけさせたシャツで、胸元をぱたぱたと扇ぎながら、隅にある教室のエアコンのスイッチを押した。何がエコモードだクソくらえ、とばかりに、一気に二十二度まで下げる。風量も最大にしてやった。それから、手近な席に腰を下ろして、手に持っていたブレザーを椅子に掛けた。
──瞬は……まだ、講習か。
今日は、瞬が受験組の「夏期講習」で、俺は就職組の「面接練習」があった。俺の練習はついさっき終わったところだが、講習の方は十二時で終わりらしいから……あと三十分くらいか。
瞬とは終わったら、教室で落ち合うことになってるから、適当に時間を潰すことにする。
「……」
──じわ、じわじわ、じわ……。
誰もいない教室は、当たり前だが静かで、聞こえてくるのは、セミの鳴き声とエアコンが風を送る音くらいだ。この猛暑ではさすがに外部活も休みらしく、何気なく見た窓の向こうの校庭にも人影はない。
なんだか、世界中から人が皆消えちまったみたいだ。
「てかなんだよ、『
気味が悪いくらいの静けさを紛らわそうと、暇つぶしに見ていたネットニュースの記事へのツッコミを口に出してみる。あるSNSの名称を変更するとかなんか、そんな記事だ。
こういうのを見ると、もう随分前に、この辺の鉄道路線に付けたられた全然普及してない「愛称」のことがつい、頭に浮かぶ。いまだに旧名称の方で呼ぶ人は呼ぶし、これもなんかそんな感じになると思う。
とかなんか、何の益にもならないぺらぺらの時間を過ごしていると、ふいに、教室の外から足音が聞こえてくる。やがて、がらがらと教室の後ろのドアが開き、振り返るとそこには──。
「……瀬良くん、来てたんだ」
「……おう」
ペンケースとかノートとか、参考書っぽいテキストとか──そんな勉強道具一式を抱えた茅野さんがいた。ってことは……。
「講習は終わったのか?」
「うん……さっき終わったとこ」
言いながら、茅野さんが俺の方に歩み寄ってきた。ついでなので、俺は彼女に瞬のことを訊こうとして──だけど、それは先回りされる。
「立花くんなら、まだ来ないよ」
「……え?ああ……そうなのか?」
「うん。まだ」
俺が陣取っていた席の前で、茅野さんが足を止める。彼女はそのまま、静かに俺をじっと見つめた。
「……」
「……?」
揺らぎさえ、瞬きさえせず、俺を見つめる茅野さんの黒い瞳から、俺は不思議と目が離せなかった。
──……何だ?この感じ……。
まるで、身体が、動かない……みたいな……。
降って湧いた想像をかき消そうと、俺は口を開く……開いた。
「な、何だ?」
声も出る。だけど、彼女は物言わぬまま、ただ俺を見つめている。圧力さえ感じる瞳が、俺に何を言いたいのか、考えてみる……。
「……あ、ここ、茅野さんの席、だったか」
「……違うけど」
じゃあ何なんだ、と思いかけた時──今度は彼女から俺にこう言った。
「……いつまで、そうしているつもり?」
「は……?」
一瞬、何のことを訊かれているのか分からなかった。だけどすぐに「ああ、瞬をいつまで待ってるかってことか」と思い当たり、俺は答えた。
「そりゃ……来るまで、待ってるだろ。待ってるって言ったからな」
「逃げる気、ないんだね」
「はあ……?まあ、瞬を置いてなんか、行くわけないだろ……」
……どうにも会話が噛み合わない気がする。
優等生のテンポに俺がついていけないだけか?と首を傾げると、ふいに──茅野さんが笑った。
──背筋が冷たくなるような、昏い目で。
「……っ」
本能的に、ここから離れた方がいいと察する。席を立とうと腰を浮かそうとして──だけど、椅子に縫い付けられたみたいに、身体が、動かない……今度は、本当に。
──なんでだ……っ!?
身体は動かず、彼女から視線を外すこともできなかった。そんな俺に、彼女はゆっくりと顔を寄せて、それから──耳元でこう囁いた。
「──立花瞬を、殺そうとしたことからも?」
「は──?」
声は、ほとんど息だった。音にすらならない、乾いた俺の息は、彼女にどんな返事と聞こえたのか──茅野さんは肩を揺らして笑った。俺は「ふざけたことを言うな」と言いたかった。
だけど、それはやっぱり声にならなかった。身体のどこかに穴でも開けられたみたいに、ただ、しゅう、と息だけが口から漏れて、荒い呼吸で喉の奥が痛む。
──俺が、瞬を……殺そうだって……?
あまりに馬鹿げたことは、冗談にもならない。笑えない、許せない……。声が出ない代わりに、彼女を睨みつけて抗議すると、彼女はそんな俺にふっと冷笑を浴びせかけた。それから、彼女は俺に一冊のノートを差し出してきた。
──何だよ、これ……。
視線で問うと、彼女は、ノートを開いて、その見開きのページを見せてくる。
『七年、逃れ続けた真実──瀬良康太が目を背ける ”立花瞬・殺人未遂”』
『幼心と些細なすれ違いが生んだ悲劇──仲睦まじいカップルの失われた血塗られた過去』
『甘言に乗り、全財産を投じて揉み消した己の罪──そのあまりに大きい代償……命の期限はあと僅か』
──見開きいっぱいに、殴り書きみたいな字で書かれた、心を刺すセンセーショナルな見出しの数々。
「……っ、お、お前……っ、こ、これ……これ、は……っ」
「よく書けているでしょう。明日には世界に発信しようと思っているの……皆、知りたいと思うから。楽しみにしていて?」
「──っ、……!」
掠れた声で、言葉もロクに継げず、ただみっともなく息を吐きながら、彼女を睨む。彼女はもう笑ってなどいない。代わりに俺を冷ややかに見下して言った。
「いつまで、そうしているつもり?」
「いつ……、いつって……」
「逃げないんでしょう、あなたは」
「何……から……」
頭の中に散り散りにあった点と点が像を結ぶ前に、それを振り切ろうと声を絞る。
すると、彼女はくるりと俺に背を向けて言った。
「第一情報処理室」
──知りたければそこに来て。
最後の呟きが耳に届いた時、彼女はもう姿を消していた。
「……ま、待て!」
その瞬間、身体が動くようになる。弾かれたみたいに、椅子を立って、俺は彼女を追った。教室を飛び出す。だけど、彼女はいない。どこだよ──どこだ……。
「……っ」
──第一情報処理室。
俺の頭はそれだけだった。どうしてかは分からないが、俺はそこに行かなければいけないと思った。でないと、でないと、でないと──。
焼けつくような焦燥が思考を支配していた。身体はそれに操られて、廊下を、階段を駆けた。
──待っていると言った、その存在を置いて……。
☆
「……今の」
講習会を終え、康太の待つ教室へと戻ろうと歩いている途中のことだった。ちょうど、俺達のクラスの教室が見えた時、その教室を飛び出していく、よく知った背中を見た気がしたのだ。
俺は少し足を速めてその背中を追う。だけど、廊下を猛スピードで駆けていったのか、その背中を見失ってしまった。俺は諦めて一度、教室に戻る。
──見間違い?かもしれないし……。
だけど、教室に康太の姿はなかった。まだ、戻って来てないのかな──と思ったけど、すぐにそれはない、と気付く。
「康太のブレザーだ……」
廊下に近い席の椅子に、康太のブレザーが掛かっていたからだ。うちの制服のブレザーの裏地には、生徒の名前が刺繍されることになってるから、誰の物かは見ればすぐに分かる。
「じゃあ、さっきのはやっぱり……?」
見間違いなんかじゃない……康太だったんだ。
だとしたら、どうして何も言わずに教室を飛び出していったんだろう?もうすぐ、俺が戻ってくる時間だってことは知ってたと思うけど。
──何か、よっぽどのことがあった?
そう思うと、妙な胸騒ぎがした。何か、すごく嫌な……まるで、康太は、もうここには戻ってこないような……そんな──。
「……そんなわけない、よね」
そう言って聞かせるけど、一度したその想像が頭にこびりついて離れない。
「……っ」
気が付くと、俺も教室を飛び出していた。
康太が走っていた方へ──それが、どこかは分からないけど……俺は後を追った。
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