2月11日 建国記念の日

【条件】


1.毎日0:00〜23:59の間に、立花瞬に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、立花瞬が「自分に対して言われた」と認識すること。


2.1の条件を与えられたことは決して、立花瞬に悟られないこと。


3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。





こん、こん。


「立花」の表札のかかるドアを二回ノックする。すぐに「待ってー」と返事があって、俺は瞬が出てくるのを待った。


廊下に差す、昼過ぎの日の光は昨日よりも随分暖かく、「ああ、立春もあながち嘘じゃなかった」とようやく思う。昨日まで道端や屋根に積もっていた雪はすっかりなくなり、マンション下の広場で遊んでいる子ども達は心なしか残念そうだ。


雪でテンションが上がらなくなったのはいつからだろうな──そんなことを考えていると、ドアが開いた。


「おはよう。もういいの?」


「おう、おはよう瞬」


俺はドアから半身を覗かせた瞬にノートとタッパーを手渡す。


「タッパーは母さんからな。漬物のおすそ分け。こっちは昨日借りたノート……ありがとう」


「え、あ……うん。ありがとう」


瞬はタッパーとノートを抱えて、はにかむ。……なんて言うべきかな、と少し迷ってから、俺は口を開いた。


「なんていうか……すげえな、瞬の小説。俺はその、瞬が書きたかったこと……ちゃんと受け取れてる自信はねえんだけど、良いと思う」


「そ、そう……?」


「ああ、読んでたら秒で眠くなったし」


「最低」


瞬の顔が険しくなったので「まあ待てよ」と俺は続けた。


「俺は現国の授業も秒で眠くなるし、映画も最後まで見れた試しがないだろ。つまり俺は良いものに触れると眠くなるんだよ」


「ひどい言い訳だなあ」


はあ、と瞬がため息を吐く。


「……まあ、俺も何が書きたかったのか、自分でもまとまってないところがあって、出した後もずっと、もっとこうだったら良かったのかなとか、考えちゃってるんだけどね」


「……ちょっと訊きたかったんだけどよ」


「何?」


瞬が目をぱっちり開けて俺を見つめる。


「瞬はこれ書いてる時──どんなこと考えてた?」


「どんなことって……」


うーん、と瞬が腕を組んで考え込む。それから、宙の一点を見つめながら言った。


「自分の心の中に深ーい井戸があって、その底の方で誰かがずっと何かを叫んでるの。耳を澄ましても、聞こえてくるのは、ただの音で、何て言ってるのかなって。俺はその音にしっくりくる言葉を探してるみたいな……そんなイメージで書いてた」


「じゃあ話は?あの話はどうやって思いついたんだ?」


「それもイメージかな……最近、自分の中に溜まってたものとかを、いちばんしっくりくるイメージに当てはめてるみたいな……だから、登場人物もキャラクターというよりは、置物みたいな感じになっちゃって」


「ふうん……」


俺は自分が見た「あの世界」のことを少しでも知りたくて、訊いてみたんだが……瞬自身にもはっきりした答えがあるわけじゃないみたいだ。むしろ、答えを持ってないからこそ、瞬は小説を書いてるのかもしれないと思った。自分の中にある、言葉未満の何かを形にしたくて。


その時、ふと気がついたことがあり、俺は瞬に尋ねた。


「……そういえば、その、前に俺が見ちまった小説じゃないやつなんだな。今回、部誌に出したの」


俺が借りたノートの中の、あの小説が書かれていたページは抜かれていた。おそらく、瞬がボツにしたんだろう。てっきり、あの話の続きを書いてるとばかり思っていたんだが。


「ああ、あれね……」


瞬がまた考えるような素振りをしてから言った。


「別に康太のせいじゃないんだけど。あの話を書いていた時に俺が考えていたことが、ちょっと分からなくなっちゃって。さっきの井戸のイメージで言うと、声も聞こえなくなっちゃったみたいな……それで、今回は別の話にすることにしたの。それもあって、提出が遅くなっちゃったんだけどね……」


「分からない、か……」


ひょっとしたらそれは、感情とやらが抜かれたせいなんだろうか。

瞬が小説を書く理由が「自分の中にある感情を言葉にしたいから」なら、ないものは形にしようがないだろう。それでも……抜かれる前の瞬は、今はない「それ」を書きたかったんだよな。


──何とか、するべきなんだよな。俺のせいなんだし。


だけど、この前みたいな無茶はもうできない。相手はクソ矢の身内で、人とは違う倫理観で生きる連中だ。クソ矢は俺に教えるつもりないだろうし……クソ神も同じだ。他にあてがないわけじゃないが、そいつにも今は会えないしな。


思わず舌打ちすると、瞬が「どうしたの?」と顔を覗き込んできた。俺は首を振って「何でもねえ」と答えた。


「じゃあ……もう行くわ。マジで、色々ありがとう」


「いいよ、そんなの。とにかく、今日はまだじっとしててね」


「へーい」


俺は瞬に片手を挙げて、立花家を後にした。





「……ふふ」


廊下の角に消えていく康太の背中を見送りながら、思わず笑みが零れる。

一昨日の昼までは、本当に……こんな風に、また康太と話せるかどうかも分からなくて苦しかったから、今がよかったって、心から思う。小説を見せる恥ずかしさが、ちょっとだけ気にならないくらい。


部屋の中に入り、受け取ったタッパーを冷蔵庫にしまってから、俺は返ってきたノートを開く。



『カーテンの隙間から溢れる朝日に瞼をノックされて目を開ける。また一日が始まった。男はそう思いながら、一人で眠るには広すぎるダブルベッドの上で身体を起こした。ベッドには枕が二つ並んでいて、片方は当然、男が使っているものだったが、もう片方は誰の頭も乗せていない。それは、決して今日に限らず、もうずっと、いつものことだった。』



『いつも通り、何故、どうしてか分からないけれど、手癖で用意した食事を男が処分しようとすると、いきなり目の前に知らない男が現れて、それを口にした。知らない男はふてぶてしい態度で、さも食事を貰うのが当然かのように振舞っていたが、男は不思議と嫌な感じはしなかった。男は知らない男に食事を与え、そこに住まわせることにした。』



「うわぁ……」


ぱらぱらとノートを捲りながら、思わず声が出てしまう。書いてた時もこれは、という手応えがあったりなかったりだったけど、見返すとやっぱり「もっと他の言葉があったかもしれない」とか、そんなことを考えてしまう。それでも今は、不思議な達成感だけは胸にあった。



『ある朝、目が覚めると、男は一人なっていた。』



『昨日までベッドで一緒に寝ていたはずの男の姿はなく、それどころか、枕も歯ブラシも髭剃りもタオルも、知らない男が使っていたものは全てなくなっていた。』



『それで男は思い出した。あの男は知らない男なんかじゃなかった。俺はずっと一人じゃなかった。かつて、今日のように、突然あの男がいなくなったことがあった。それでも俺は帰りを待っていたんだ。だから、何でも二人分揃えていたのだ。なくなったことはあったことの何よりの証じゃないか。』



『それから、男はまた何でも二人分揃えるようになった。あの男が入る隙間を作らなければ、俺はずっと一人を受け入れて生きてしまうから。隙間を用意して、またあの男を待とうと思った。』



「あれ……」


最後の行まで何となく読み進めていくと、ページの端に小さく何か書いてあった。

これは……康太の字だ。



『見せてくれてありがとう。むずかしいことは分かんねえけど、おれは好きだと思った。よくねれるし』



「本当にひどいなあ……」


まあ、康太らしいかな。それに、寝るのにでも役に立ってるならいいか。


──それにしても、わざわざノートにも書くところが、なんていうか……。


これも康太らしい。俺はまたつい、一人で笑ってしまって、それから──。


──ああ、なんか、やっと見つかった気がする。


俺もそんな康太が好きだと思った。





「……はぁ」


家に帰ってくるなり、デカいため息を吐く。


憂鬱だ。瞬のためとはいえ、こいつと向き合うのは。


俺は昨日、瞬から手渡された課題の山を机に広げていた。


俺が休んでる間、勉強が遅れないようにと思ってくれたのかもしれないが、俺の勉強の遅れは今に始まったことじゃない。たぶん、中学まで巻き戻らねえと無理だ。


でも、やらないわけにはいかねえか。瞬のありがたい厚意だからな?


諦めて、とりあえず一番楽そうなのから……と思ったが、やっぱりやる気が出ず、俺は一旦部屋を出る。


「よう」


ドアを開けたところで、居間の椅子にどっかりと腰を下ろしているクソ矢がいた。

……子犬を抱えて。


「……うちのマンションはペット禁止だ」


「ペットちゃうわ。犬の形しとるだけで」


「じゃあ何なんだよそいつ……」


「神様」


俺はクソ矢の腕の中で尻尾を振っている犬を見つめた。ふわふわした白い毛のそいつは、柴犬とポメラニアンの中間みたいな犬だ。こいつが神?どう見ても普通の犬だろ。


犬をじっと見ている俺にクソ矢が言った。


「今日からしばらく、こいつ匿ってくれへん?」


「はあ?なんでだよ」


「殺されてまうから」


「……てめえらのごたごたなんて知ったことじゃねえよ」


「それなりの見返りはやるで。頼むわ」


お前が人間に頼んでどうする。神だろ。


だが、クソ矢の目は真剣だった……いや、こいつはいつも何考えてんのか分かんねえけど。それでも今ばかりは、本気っぽい感じがする。それに──。


「見返りって、何でもいいのか?」


「建国記念の日を明日にして、月曜日を振休にしろとかは無理やで。あと『条件』に関わることもな。まあ、お前にやってもええことなら」


「じゃあ」


俺は考える。それなら、見返りは決まりだ。


「瞬の感情を奪った奴のこと、教えろよ」


ふん、とクソ矢が鼻を鳴らす。それから、クソ矢は「ええわ」と言った。

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