6月13日
──『あの時──俺、瞬のこと、勝手に抱きしめて、寝たんだ……そうしたくなったから』
「……」
「水、出っ放しやで」
「え?!あ……」
澄矢さんに言われて、慌てて蛇口を締める。いけない、ついぼんやりしてしまった。
「……」
洗面所の鏡に映る自分を見つめる。見るからに、心ここにあらずって感じだ。
身体に染み付いた習慣もあって、朝の諸々はなるべく無心で済ませたけど、それでも、パンを齧っていたり、歯を磨いたり……みたいな、無意識になるような瞬間に、つい考えてしまう。昨日のことを。
──あんなこと言われたら、もっと期待したくなる……。
昨日の帰り──康太が打ち明けてくれたことは、俺にとってあまりにも都合が良すぎて、良すぎるからこそ……先を急ぎたくなる気持ちを抑えないといけなくて、いっぱいいっぱいだった。
──だって、康太は……。
『……そ、そうしたくなったって。じゃあ、康太は……無意識とかじゃ、なかったの?』
『……そうだ。俺が、瞬にそうしたくてした。瞬は……気付いてたか?』
『うん、俺が先に起きたから……でも、寝ぼけてしたのかなあって……』
『わざとした』
『それは何か、言い方がよくない気がするけど……でも、どうして、今まで言わなかったの?』
『……すげえずるいけど』
『ずるい?』
『ああ。言ったら、瞬に……嫌がられて……』
そこまで言うと、康太は一瞬顔を顰めた。でもすぐに『何でもない』と首を振って、俺に続けた。
『とにかく……それは、本当にごめん。自分でも……よく分かんねえけど、やっちまった。すげえ今更だけど……』
俯く康太に、俺は『気にしなくていいんだよ』と言って、それから最後に一つだけ訊いた。
『……どうして、今教えてくれたの?』
すると、康太は顔を上げて、俺に言った。
『瞬には、言うべきだと思ったからだ……俺の中の、こういうことを』
──康太の言葉に、俺は直感した。
康太の中には……俺にもうかがい知れないような、康太自身にさえ、まだ正体の掴めない……そんな、何か「暗いもの」があるのだと。
☆
「お疲れ。ありがとう」
「おう」
両手に抱えた荷物を一度、玄関で下ろす。そこからはバケツリレーみたいに、康太と協力して、買ってきた日用品を仕舞っていく。一人暮らしを始めてから、すっかり定番になった康太との「火曜日の買い出し」も、二年目ともなると、何も言わなくても事が運ぶ。それでも今日は、いつもより荷物が多い。
原因は、今まさに、康太が抱えて持って行ってくれた「アレ」だ。
「まさか、お米切らしてたなんてなあ……」
「今日気付いてよかったじゃねえか。ちょうど安かったし」
「うん。康太と一緒で助かったよ。本当、ありがとう。頼りになる。大好き」
そう言って、半袖のシャツから覗く康太の自慢の筋肉──二の腕のあたりをぺちぺちと叩く。本当にちょっとだけムキムキになったかもしれない。康太は「何だよ」と照れ臭そうに言ったけど、顔は満更でもない感じだった。分かりやすいなあ。俺は調子に乗って、前にテレビで見たことを言ってみた。
「そこまで絞るには眠れない夜もあっただろー」
「ボディビルか」
「もういいだろ」と康太が俺の手を軽く叩いて、制止する。俺が手を引っ込めると、康太は冷蔵庫を指して言った。
「それより暑いだろ……さっき買ったアレ食おうぜ」
「そうだね」
俺は冷蔵庫を開け、冷凍室から、さっき入れたアイスの箱を早速取り出す。冷凍食品のコーナーに大きく貼りだされた「安売り」の文字に誘われて、つい買ってしまったのだ。今日は暑かったもんね。
カラフルな棒アイスの箱を開けて、康太に好きな味を一本選ばせる。康太はソーダ味だった。俺はみかん味にする。
居間のエアコンを点けて、康太と並んでソファに腰を下ろす。ちょっと行儀がよくないけど、足を投げ出すようにソファに身を沈めて、棒アイスを口に入れる。冷たくて、甘い。エアコンが効き始めると、この上ない極楽だった。ふと隣を見ると、康太も同じような体勢でアイスを舐めてたので、なんだかちょっと面白かった。
「あ、康太、垂れそう」
「え?」
エアコンは頑張ってるけど、部屋がまだ少しぬるいせいか、アイスは少し溶け始めていて、棒を握る康太の指を滴っていく。俺はテーブルの上からティッシュを持って来て、康太に渡した。ついでに自分のアイスの棒にもティッシュを巻いていると、それを見ていた康太が言った。
「ちょっと前に丹羽に借りた本でさ……」
「うん」
「こういうシーンあったんだよな」
「へえ……アイスを食べてるの?」
「そうだ。それで、主人公の男のアイスが溶けて、手がべたべたになっちまって」
「よくあるよね」
「ヒロインがそれを舐めとる」
「……」
「……」
エアコンが風を送る音がよく聞こえる。
「……なんで今それ言ったの?」
「……そうだよな、今じゃないよな……」
「今じゃないよ……」
康太はいつの間にか食べきっていたアイスの棒を咥えて、宙の一点を見つめていた。顔が虚無だったので、結構反省してるのかもしれない。暑かったし、重いものをいっぱい運んだから、ちょっと頭がぼんやりしてたのかな。
……というのは、俺の方も同じなわけで。
「な、舐めよっか……?」
沈黙に耐えられなかったからなのか、康太を助けようとしたのか、それとも……割とその気だったのか、単なる失言なのか。
いずれにしても、俺のこのうっかりは、今の康太にはだいぶ刺激が強かったのか、康太は見たことがないくらい顔を真っ赤にして「馬鹿言うなよ……」とやっと声を絞り出して言った。それから、そっぽを向いた。
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