6月13日



──『あの時──俺、瞬のこと、勝手に抱きしめて、寝たんだ……そうしたくなったから』



「……」


「水、出っ放しやで」


「え?!あ……」


澄矢さんに言われて、慌てて蛇口を締める。いけない、ついぼんやりしてしまった。


「……」


洗面所の鏡に映る自分を見つめる。見るからに、心ここにあらずって感じだ。

身体に染み付いた習慣もあって、朝の諸々はなるべく無心で済ませたけど、それでも、パンを齧っていたり、歯を磨いたり……みたいな、無意識になるような瞬間に、つい考えてしまう。昨日のことを。


──あんなこと言われたら、もっと期待したくなる……。


昨日の帰り──康太が打ち明けてくれたことは、俺にとってあまりにも都合が良すぎて、良すぎるからこそ……先を急ぎたくなる気持ちを抑えないといけなくて、いっぱいいっぱいだった。


──だって、康太は……。



『……そ、そうしたくなったって。じゃあ、康太は……無意識とかじゃ、なかったの?』


『……そうだ。俺が、瞬にそうしたくてした。瞬は……気付いてたか?』


『うん、俺が先に起きたから……でも、寝ぼけてしたのかなあって……』


『わざとした』


『それは何か、言い方がよくない気がするけど……でも、どうして、今まで言わなかったの?』


『……すげえずるいけど』


『ずるい?』


『ああ。言ったら、瞬に……嫌がられて……』


そこまで言うと、康太は一瞬顔を顰めた。でもすぐに『何でもない』と首を振って、俺に続けた。


『とにかく……それは、本当にごめん。自分でも……よく分かんねえけど、やっちまった。すげえ今更だけど……』


俯く康太に、俺は『気にしなくていいんだよ』と言って、それから最後に一つだけ訊いた。


『……どうして、今教えてくれたの?』


すると、康太は顔を上げて、俺に言った。


『瞬には、言うべきだと思ったからだ……俺の中の、こういうことを』


──康太の言葉に、俺は直感した。


康太の中には……俺にもうかがい知れないような、康太自身にさえ、まだ正体の掴めない……そんな、何か「暗いもの」があるのだと。





「お疲れ。ありがとう」


「おう」


両手に抱えた荷物を一度、玄関で下ろす。そこからはバケツリレーみたいに、康太と協力して、買ってきた日用品を仕舞っていく。一人暮らしを始めてから、すっかり定番になった康太との「火曜日の買い出し」も、二年目ともなると、何も言わなくても事が運ぶ。それでも今日は、いつもより荷物が多い。


原因は、今まさに、康太が抱えて持って行ってくれた「アレ」だ。


「まさか、お米切らしてたなんてなあ……」


「今日気付いてよかったじゃねえか。ちょうど安かったし」


「うん。康太と一緒で助かったよ。本当、ありがとう。頼りになる。大好き」


そう言って、半袖のシャツから覗く康太の自慢の筋肉──二の腕のあたりをぺちぺちと叩く。本当にちょっとだけムキムキになったかもしれない。康太は「何だよ」と照れ臭そうに言ったけど、顔は満更でもない感じだった。分かりやすいなあ。俺は調子に乗って、前にテレビで見たことを言ってみた。


「そこまで絞るには眠れない夜もあっただろー」


「ボディビルか」


「もういいだろ」と康太が俺の手を軽く叩いて、制止する。俺が手を引っ込めると、康太は冷蔵庫を指して言った。


「それより暑いだろ……さっき買ったアレ食おうぜ」


「そうだね」


俺は冷蔵庫を開け、冷凍室から、さっき入れたアイスの箱を早速取り出す。冷凍食品のコーナーに大きく貼りだされた「安売り」の文字に誘われて、つい買ってしまったのだ。今日は暑かったもんね。


カラフルな棒アイスの箱を開けて、康太に好きな味を一本選ばせる。康太はソーダ味だった。俺はみかん味にする。


居間のエアコンを点けて、康太と並んでソファに腰を下ろす。ちょっと行儀がよくないけど、足を投げ出すようにソファに身を沈めて、棒アイスを口に入れる。冷たくて、甘い。エアコンが効き始めると、この上ない極楽だった。ふと隣を見ると、康太も同じような体勢でアイスを舐めてたので、なんだかちょっと面白かった。


「あ、康太、垂れそう」


「え?」


エアコンは頑張ってるけど、部屋がまだ少しぬるいせいか、アイスは少し溶け始めていて、棒を握る康太の指を滴っていく。俺はテーブルの上からティッシュを持って来て、康太に渡した。ついでに自分のアイスの棒にもティッシュを巻いていると、それを見ていた康太が言った。


「ちょっと前に丹羽に借りた本でさ……」


「うん」


「こういうシーンあったんだよな」


「へえ……アイスを食べてるの?」


「そうだ。それで、主人公の男のアイスが溶けて、手がべたべたになっちまって」


「よくあるよね」


「ヒロインがそれを舐めとる」


「……」


「……」


エアコンが風を送る音がよく聞こえる。


「……なんで今それ言ったの?」


「……そうだよな、今じゃないよな……」


「今じゃないよ……」


康太はいつの間にか食べきっていたアイスの棒を咥えて、宙の一点を見つめていた。顔が虚無だったので、結構反省してるのかもしれない。暑かったし、重いものをいっぱい運んだから、ちょっと頭がぼんやりしてたのかな。


……というのは、俺の方も同じなわけで。


「な、舐めよっか……?」


沈黙に耐えられなかったからなのか、康太を助けようとしたのか、それとも……割とその気だったのか、単なる失言なのか。


いずれにしても、俺のこのうっかりは、今の康太にはだいぶ刺激が強かったのか、康太は見たことがないくらい顔を真っ赤にして「馬鹿言うなよ……」とやっと声を絞り出して言った。それから、そっぽを向いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る