7月11日

「失礼しましたー……」


礼をして、進路指導室を出る。ドアを閉めたら、すぐにブレザーを脱いで、ネクタイを緩めた。進路指導室に入室する時は、身なりを整えて正装で来る決まりになっているからな……どんなにクソ暑くても。


それにしても、今日はいつにも増して暑い。エアコンの効いた部屋から、熱気が籠る廊下に出ると、たちまち首のあたりから汗がじわりと噴き出てくるようだ。暑い。クソ暑い。


「はー……」


首元を緩めたシャツを引っ張って扇ぎつつ、廊下を歩く。今日はテスト返却が中心の特編授業だから、まだ昼前だが、もう放課後になる。俺も、あとはいつも通り、教室で俺を待ってる瞬と一緒に帰るだけ……。


──だけ、だけど。


そのことを考えると、自然と足取りが重くなる。もう少し、ゆっくりと教室に戻りたいというか、心の準備がまだ……というか。


──何なんだよ……クソ。


別に、瞬と仲違いしてるわけじゃないし、瞬が嫌いなわけじゃない。むしろ──。


「……っ」


その先の「答え」を思うと、胸がむしゃくしゃしてどうしようもなくなる。瞬が目の前にいなくてもこれなんだから、目の前にいて、平然を装うなんて無理だ。


昨日も今日も、瞬とは一緒に登校をしたり、飯を食ったり、にはしてみてるが……ロクな受け答えが出来てる気がしないし、瞬はこういうのに敏いから、俺を変に思っているに違いない。


──避けてると思われてるかもしれないし……。


前にも、ちょっと似たようなことがあって「瞬断ち」をしようとしたことがあったが、結局、瞬を不安にさせていたし、これだって、また瞬に余計な心配をさせているかもしれない。


だから、正直に……俺の今の想いを打ち明けるべきなんだと思う。俺の中では、理由は明らかなんだから……尚更。それなのに──。


──それができたら、苦労しねえよ……。


俺はため息を吐いた。頭を掻いて、ひとまず、手近なところにあったトイレに入る。完全に時間稼ぎ以外の何物でもなかったが、仕方ない。だって、今の状態で瞬になんか会えない。会ってもまた、ロクに口もきけないだろう。


一応、用を足してから、いつもの百倍くらい丁寧に手を洗う。ついでに、顔も洗った。ポケットに入れていたタオルで拭いてから、鏡に向かって息を吐く。よし。


「……行くか」


言い聞かせるように呟いたが、肝心の身体が動かない。もう少し、ここで……という、あまりにもダサすぎる弱気が俺の足を捕まえていた。クソ……。


「行くんだろ……行けよ……俺」


鏡に向かって呟いた、その時だった。


「……邪魔なんだけど」


「うわ、菅又」


振り返ると、そこには俺を睨む後輩──菅又がいた。


今日も、便器にこびりついた水垢を見るような目で俺を睨む菅又は、嘆息してから言った。


「さっきから、ここにじっと立って、気持ち悪いんだけど……用が済んだなら早く出れば」


「そ、そんなこと分かってんだよ。ただ……俺にも色々あんだって」


「鏡の前でブツブツ行くとか行かないとか言う色々って何」


「何でもいいだろ……」


俺は菅又に背を向ける。すると、菅又に脛を蹴られた。


「ってぇ!?お前、何すんだよ……」


「だから邪魔だって言ってんの。ここのトイレ、片方蛇口死んでんだから、あんたが退かないと使えないんだけど」


「な……そうなのか?悪かったな……」


たしかに、もう一個ある手洗い場の方には「使用禁止」と張り紙がある。先輩に対するの口の利き方はともかく、これはまあ、俺が悪い。俺が退くと、菅又は手を洗い、ポケットから取り出したハンカチで手を拭いた。俺は何となく、その様子を見ていた。


「……」


「……何」


「あ、いや……別に」


蛇口から退いたタイミングで、トイレを出ればよかったんだが、つい、ぼんやりとしてしまった。これも、俺のダサい弱気のせいかもしれない。菅又はそんな俺を訝し気な顔で見てから、やがて、トイレを出て行こうとして──ふと、足を止めて言った。


「……あんたさ」


「何だよ」


「瞬先輩と何かあったの?」


「はあ?」


俺を振り返った菅又は、さらにこう続ける。


「あんたがキモい時って、瞬先輩絡みだから」


「お前、先輩にキモいって……それは……」


相変わらず、目上への態度がなってない菅又を咎めようとして……だけど、その語気が弱くなっていく。だって実際、今の俺……。


「キモいよな……」


「そうだね」


ばっさりとそう斬られて、もはや落ち込む気にもならなかった。

俺は乾いた笑いを浮かべながら、気が付くと、こんなことを零していた。


「菅又はいいよな……はっきりものが言えて。ちょっと口は悪いけど、思ってることを臆さずに言えるっていいことだと思うぜ……」


「な、何急に……」


「それに比べて俺は、うじうじしてばっかなんだ……菅又が言う通り、キモいし、ダセえし、邪魔な存在なんだよ……」


「ちょっと……あんたって、そんなに卑屈だった?」


しっかりしてよ、とまた脛を蹴られる。その痛みで、俺ははっと我に返った。……俺は後輩に何を言ってんだ。自分で自分に呆れていると、菅又は、はあ、と息を吐いてから俺にこう言った。


「あんたがキモいのは勝手だけど……自分で自分にそう言うのは、もっとキモいからやめなよ。邪魔とか……俺は、手洗い場が使えなくて言っただけだし、誰も、普段からあんたをそう思ってるわけじゃないでしょ……」


「え……」


俯いていた顔を上げると、菅又は俺からさっと視線を逸らして、「とにかく」と言った。


「瞬先輩のためにも……あんたは、その倍増しでキモくなってんのは治して。じゃないと……」


「じゃないと?」


言葉尻を捕まえてそう訊くと、菅又は「何でもない」と、ぷい、と俺に背を向けた。それから、足早にトイレを出て行ってしまった。


──何だったんだよ。


あとに残された俺は、一人、首を傾げた。だけど、心はさっきよりも、いくらか軽くなっている。


「……行くか」


もう一度、鏡に向かってそう言って、俺はトイレを出た。

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