9月5日(火) ②


「……失礼します」


ノブを捻って扉を開け、一礼してから中へ入る。この数ヶ月ですっかり身体に染み付いた所作で、進路指導室へと入る。

先に中で待っていた武川と目が合うと、武川は椅子を手のひらで差して言った。


「……放課後に呼び出してすまなかったね。まあ、腰掛けなさい」


「……はい」


長机を挟んで、武川の対面に腰を下ろす。二人きりの部屋は、妙な緊張感が支配していて、否が応でも背筋が伸びる。年季の入ったパイプ椅子がぎし、と軋んだ。


「……進路関係でって、何ですか」


一秒でも早くこの緊張感から逃れたくて、呼び出してきた武川よりも先に口を開く。すると、武川は「ああ、その前に」と言った。


「先に、瀬良君に一応……確認したいことがあるんだけど、いいかな」


「……はい」


返事をすると、武川はひとつ頷いてから、俺にこう訊いてきた。


「……ちょっと噂が耳に入ったんだけど。遅刻してきた始業式の日……あの大通りのホテルに、立花君といたっていうのは……本当なのかな」


「……ないですよ」


間髪入れずに答えると、武川は「そうだよね」と言って、首を振った。


「少し、色々あってね。耳に入った以上、聴き取りはしないわけにはいけないから……いや、悪かったね」


──あの新聞の取材……で、知ったんだよな。


あの裏にいる存在がどんな奴で、どんな方法で武川に接触したのかは知らねえが……そいつは、武川に俺達のいかがわしい噂を漏らしたのだ。そいつの目的が何かは分からねえし、武川も深くは知らねえだろうけど……もう少し、正体に迫りたい。


だけど、俺がそれを尋ねる前に、武川は「瀬良君」と俺を見据えて言った。……その目がいつになく真剣だったので、俺はつい、自分の訊きたかったことを飲んでしまう。武川はいつもよりも、ゆっくりと──重いものを持ち上げるような慎重さをもって、俺に語り掛けてきた。


「疑いがなくなったところで……瀬良君に、私から一つだけ、いいかな」


「……はい」


武川は、噛んで含めるように俺に言った。


「どんな物事にも手順がある」


「手順……」


俺が繰り返すと、武川は大きく頷いて、続けた。


「手順を飛ばしたり、避けたりして、私達は前には進めないように……この世界はそうできているんだ。一度は避けたつもりでも、そのステップは、時を超えて、また目の前に立ちはだかる。それも、より強大になってね。だから、踏み出すべき時に、その段にちゃんと足を乗せてないとダメなんだ。後になって、向き合っておけばよかったと思っても……その時そこに、前に進めるようなステップが用意されてるとは限らないから。だから……苦しくても、一歩ずつ、着実に、目の前にあるステップを踏むことが大切なんだよ」


「分かったかな」と武川は、いつもの穏やかな調子で言った。俺は少し考えてから……「なんとなく」と首を傾げた。

それに対して、武川は「素直だね、君は」と肩を揺らして笑った。ひとしきり笑ってから、武川は「さて」とテーブルの上で両手を組みながら言った。


「本題はここからだ……瀬良君。君の、第一志望の会社なんだけどね──」





──カチ、カチ……。


秒針の音だけが響く居間で、テーブルに突っ伏しながら、ぼんやりと壁に掛かった時計を見つめる。


「もうすぐ、六時半だな……」


誰にともなくそう呟くと、一層、孤独感が増して……不安になる。音もしないのに、つい、玄関の方を気にしながら──俺は、ため息を吐いた。


『武川に呼び出されてんだ。ああ、進路関係のことだから気にすんな。ただ、ちょっと時間かかりそうで……何時になるか分かんねえから』


『……終わったら、瞬の家行く。ノルマのこともあるだろ……だから、うん。待っててくれると助かる』



──康太……大丈夫かな……。


放課後、俺に言った通り、武川先生に呼ばれていたらしい康太は、先生が教室を出ると、まだ少し暑いだろうに、ブレザーを羽織り、後を追うように出て行った。進路関係って言ってたから、たぶん、進路指導室で話をするんだろう。あの部屋に入る時は正装じゃないといけない。


──良いお話だったらいいけど……。


この時期に進路関係と言ったら、かなり大事な話になる。進学希望なら、推薦とかそういう話になるし、就職組なら、面接の日程だとか、そもそも、希望している会社の試験を受けられるのかどうかとか……つい、想像を膨らませて、俺はまた不安になった。きっと、康太の方が何倍も不安なのに。


──でも、あの表情はまるで……何か予感があったみたいな……。


胸騒ぎがする。どうか、俺の悪い想像なんか当たりませんように……そう心の中で祈った時だった。


──こん、こん。


康太だ。


いつになく控えめなノックは、康太らしくないけど、でも何故か、それが康太のものだって分かった。

俺は、逸る気持ちのまま、玄関へと駆けて、ドアを開けた。


「康太」


「……おう」


そこに立っていたのはやっぱり康太だった。制服姿のままリュックを背負ってるってことは、学校から直接うちに来たってことだ。

落ちていく陽を背に、薄昏の外廊下に立つ康太の表情はよく見えなかった。


「……おかえり」


気が付くと俺はそんなことを口にしていた。すると、康太もふっと笑って「ただいま」と返してくれた。

ひとまず、俺は康太を家の中に迎え入れる、と。


「……瞬」


「わ、康太……?」


がちゃり、とドアが閉まるなり、康太は俺を正面からぎゅっと抱きしめてきた。

肩口に顔を埋めた康太が、掠れた声で俺に囁く。


「……ごめん」


──どうして謝るの?


そう訊く代わりに、俺は康太の背中に手を回して、宥めるようにぽん、ぽん、と叩いた。

視界の端に鬱陶しく表示が出たような気がするけど、気にしない。


しばらくの間、俺と康太は言葉も交わさずそうしていた。言葉はなかったけど、俺達の間で、何かが行き交って、通じ合って、そして分け合っていた。やがて、それが胸の中に温かく染みて、満たされていくような気がした頃、俺達はどちらからともなく、身体を離した。


「ごめん」


「いいから」


目を伏せて、もう一度謝った康太に俺は首を振る。それから、俺は康太を居間に通して、ソファに座らせた。


「……ノルマ、まだあるよな」


俺も康太の隣に腰を下ろすと、唐突に康太がそう言った。俺は少し考えてから、康太の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。


「おい……何するんだよ」


唇を尖らせる康太に、俺はもう一度首を振って言った。


「そんなことより、大事なことがある」


「なんだよ……それ」


「康太だって、分かるでしょ。ノルマのことなんかじゃなくて……本当は、他に何かあって、うちに来たんじゃないの?」


俺が言うと、康太は「う」と渋い顔をした。当たりだ。どのくらい幼馴染をやってると思ってるんだ。このくらい──分かるに決まってる。

「早く言っちゃえ」とまた、頭をぽんぽん、と撫でると、観念したのか……康太は大きなため息を吐いてから、言った。


「……進路のことで」


そこで言葉を切ると、康太は俯いて口を噤んだ。俺は相槌を打って先を促す。


「……うん。武川先生に呼ばれてたんだよね。それが、どうしたの?」


康太は視線を彷徨わせると、また、はあ、とため息を吐いてから──こう言った。



「第一志望で出してたとこ……校内選考で、落ちた」



「……そっか」


俺がそう呟くと、康太はずるずると身体をソファに沈ませて──それから俺の肩にもたれかかって、続けた。


「俺以外にも、何人か……希望してた奴がいて。成績とか、まあ色々……考慮されて、俺は落ちた」


「……」


「なんかそうじゃないかって気はしてた。武川に呼ばれた時、あんまいい顔してなかったし。俺も第一にはしてたとこけど、イメージは湧いてなかったから、そんなにショックもない」


「うん……」


「ショックはないけど……まあまあ、なんか、その……良い気分は、しないよな……」


「……」


俺は康太の肩を抱いて、寄り添った。何も言わず、そうしていると康太がぽつりと言った。


「ごめん」


俺は呆れながら言った。


「……何回目だよ」


「いや、マジで……ノルマがどうとか言ったけど、本当は……口実だ。そりゃあ、命かかってるから、やんなきゃだけど……でも」


「だから、いいって。もう」


じれったくなって、俺は康太を無理やり、自分の膝の上に寝かせた。戸惑う康太に俺は言った。


「こういうことは……たぶん、本当は、こんな風にすることなんだよ。ノルマとかじゃなくて、求めて……だから、いいんだよ」


「……どういうことだ?」


「うーん……俺も分かんないや」


そう言ったら、なんだか急に可笑しくなって、俺達は声を上げて笑った。一生分の笑いを取り戻した気分だった。

ひとしきり笑って、目尻を拭った時、ふと視界の隅に【ノルマをクリアしました】と表示が見えた。


「ああ……なんか、クリアしたんだな」


すると、康太も表示に気付いたのか、俺の膝から身体を起こしながら呟く。俺は頷いた。


「うん……俺、今日は自分が頑張るつもりで、計画立ててたのに、上手くいかないと思ったら、意識しないとクリアできるんだもんね……不思議だなあ……」


「……そういうもんかもな」


「康太?」


その言い方に妙な含みを感じて訊くと、康太は頭を掻きながら言った。


「その……さっきは、第一のとこ落ちたって言ったけど。俺、第二にしてた方は受けられることになった……来週。十六日に面接行く」


「え、なんだ。そうなの?」


結構もうすぐだな、と居間のカレンダーをちらりと見遣る。康太は「ああ」と頷くと、表情を和らげて言った。


「計画通りじゃねえけど……まあ、案外そっちの方がよかったり、するかもな」


「そうだよ。きっと、そう」


頑張れ、と気持ちを込めて──俺は康太の背中をばしっと叩いた。康太は笑ってそれに「おう」と返した。




【現在の獲得pt】

瀬良康太 3,150pt

立花瞬  2,147pt 計 5,297pt 


クリアまで残り 18,077,853pt

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