3月16日

【条件】


1.毎日0:00〜23:59の間に、立花瞬に対して「好き」と一回以上言うこと。伝え方は問わないが、必ず、立花瞬が「自分に対して言われた」と認識すること。


2.1の条件を与えられたことは決して、立花瞬に悟られないこと。


3.1、及び2の条件が実行されなかった瞬間、瀬良康太は即死する。




『くすくす……』


『おい、みろよ……ふっ』


『やっべー……カスだらけじゃん、キモ』


『のろまだから、きづいてねえよ』


──きづいてるよ。


えんぴつを握る指に力を込めて我慢する。

先生の声と黒板の字に集中して、「嫌な奴ら」を頭から必死に追い出した。


──くやしくなんかない……だいじょうぶ、だいじょうぶ……。


無視すればいいんだ。気にするだけ無駄だ。そうだ……そうだけど。


背中に刺さる小さな笑い声と頭の後ろに感じる……消しゴムのカスを投げつけられる気配に、胸がどうしようもなく苦しくて、悔しくて、悲しかった。


──たいしたことないのに。そんなことで。気にしなければいい……分かってるけど。


「……っ」


気が付くと、まだ真っ白なノートには染みができている。


蓋をしてもせりあがってくる「それ」を我慢できない自分が、あいつらよりも嫌いだった。


──もういやだ……こんなめにあう、じぶんが、だいきらいだ……。


そう思った時だった──。


『いてえっ!』


『なにすんだよ!』


『ははっ、だっせえ!こんなのもよけられないとか、よわすぎだろ!』


『先生!せらが消しゴムぶつけてきたあ!』


『ちょっと、何してるの!瀬良くん』


『うるせえな、先にこいつらがやってきたんだよ』


『おまえにはやってねえだろ!』


『しゅんにやってるってことは、おれにやってんのとおなじだっつーの』


『……っ!』



「……ふふ」


薄暗い洗面所で、鏡に向かって思わず笑う。ふっと思い出した昔のことのおかげかな。


──なんとか、笑って……学校に行けそうだ。


俺は、玄関前に置いた、今朝まとめたゴミ袋を見遣る。


『0.01』


──昨日。俺の靴箱の中に入れられていた「それ」はもう、箱のまま、パッケージが見えないように、新聞紙でぐるぐる巻きにして、捨ててしまった。


誰が入れたのかも分からないし、別に……俺に悪意があってっていうか、たぶん軽い気持ちなんだ。ほんの悪ふざけで、いたずら心でやっただけなんだろう。


だから、気にすることなんてない。


昨日から何度も自分に言い聞かせてきたことだ。


それでも、やっぱり……ちょっとショックで、悔しくて、もう痛くなくなったところも思い出したみたいに痛くなってきて、油断すると何かが溢れてしまいそうになって、うまく笑えなかったけど。


── 顔が浮かんだだけで、一瞬で笑えちゃったから、すごいな。


「よし」


大袈裟に拳を握って、声に出して、自分を鼓舞する。


もう大丈夫、行こう。


床に置いていたリュックを背負う前にチャックを閉めようとして──中にいた「その子」と目が合った──康太に貰った「犬のぬいぐるみポーチ」だ。


「……うん、大丈夫」


見ているだけで、冷たかった胸の中が温かくなる……大丈夫。


「いってきます!」


いつもよりも大きな声で言って、俺は家を出た。





『おはよう、瞬』


『おはよう!康太』


『……瞬』


『な、何?』


『……何か、あったか?』


『ないよ。あー……強いて言えば』


『何だよ』


『今日はまだ、好きって言われてないなーって』


『……やっぱり何かあったろ。変だ、そんなこと言うなんて』


『へ、変なのは康太の方じゃん。毎日毎日、そんな……恥ずかしいことばっかり言って。言われる方の身にもなってよね』


『そんなこと言ったって、俺だって好きで言ってるわけじゃねえし……』


『え、何?もしかして誰かに……』


『い、言わされたりなんかしてねえよ!好きだよ、好き好き……瞬のことはめちゃくちゃ好きだから。マジで』


『そ、それはそれで困るけど……』


『何だよ本当。言えって言ったんだろ、瞬が』


『言ってほしいとは言ってないよ……冗談だよ!』


『そうかよ』



「はあ……」


教室に入り、クラスの皆に挨拶しつつ席に着く。

全く……なんか、昨日のことも忘れちゃうくらい、くだらない会話をしたな……。


──でも、それが……助かったかな。


康太は付き合いも長いし、俺は隠し事が苦手だから……何かあったのは分かってると思う。でも、その上で俺が言い出せないことを無理に聞かずに、普通にしてくれた……やっぱり優しい。


──俺は、恵まれてるよね。


康太に感謝しつつ、俺はリュックから教科書やノートやペンケースを取り出して、机にしまおうとする。

すると、奥の方で何かがつっかえた。


──嘘……。


ほのかに嫌な予感がする。大丈夫、大丈夫……と言い聞かせながら、おそるおそる、俺は机の奥に手を伸ばす。


「……っ」



『一箱じゃ足りないかw』


『ハメる方?ハメられる方?』



昨日と同じ──今度はメモ付きの「0.01」に、俺はしばらく、息をするのを忘れていた。


「瞬ちゃん」


「……っ!」


ふいに後ろから声を掛けられて、びくっとなる。慌ててブレザーの内側にそれを隠して、振り返ると、猿島が立っていた。


「あ……猿島、おはよ……」


「……どうした?顔、真っ青なんだけど」


猿島がいつになく真剣な顔で俺を見つめる。俺は首を振って「大丈夫だよ」と言った。声が震えた。


「昨日……ちょっと、遅くまで勉強しちゃって……寝不足かな」


「……本当に?」


「う、うん……大丈夫。大丈夫だから……ほんと」


「ねえ……瞬ちゃ……」


「顔!洗ってくる!」


猿島の言葉を遮るように、俺はお腹を押さえて教室から駆け出す。

猿島、心配してくれたのに、悪いことしちゃった……でも。


──どうして……どうして。


胸が苦しかった。うまく息ができなかった。教室からダッシュしてるせいかな……違うか。違った。


「……っ」


気が付くと俺はピロティまで走って来ていた。朝練を終えて、校庭から校舎に戻っていく生徒達から逃げるように、隅のベンチに腰掛ける。


「……はあ」


人の流れが捌けて、ようやくピロティが静かになる。遠くで予鈴が鳴った。戻らなくちゃ──そう思うけど、腰が重い。動きたくない。


──大丈夫だって思ったんだけどな。


俺はブレザーの中で「それ」を握りしめた。


ほんの一瞬覗いた、軽くて何でもない「悪意」に、俺はすごくショックを受けていた。


誰かに分けられたらどんなに楽だろう。でも、言えなかった。言いたくなかった。


「……ふう」


息を吐いて、蓋をした感情を抑え込む。油断すると溢れてしまうから、慎重に息を吐いた。大丈夫、大丈夫……何でもない。俺一人で大丈夫だ──。


「何してんの」


「っ!」


顔を上げると、康太がいた。


「……な、何」


ごみでも取るフリをして、瞼を擦りながらそう言うと、康太が頭を掻く。


「もう予鈴鳴るぞ」


「うん……ちょ、ちょっと、外に出たくなっただけだから。ほら、今日あったかいし」


「花粉飛んでるだろ。目、赤いぞ」


「そ、そうだね……そうだった」


目が赤いと言われてドキッとする。俺、ダメだったかな……我慢できてなかった?


「て、ていうか……康太は何でここに?」


「廊下の窓から瞬が見えたから」


言いながら、康太は俺の隣に座った。俺はなんとなく、ベンチの端に避けようとすると、康太はすかさず、俺の肩に腕を回してきた。


「な、何するの」


「……腕置き」


「置くな」


康太の腕を退けると、康太は行き場のなくなった手で、また頭を掻いて──それから「あー……もう」と言った。


「瞬、やっぱ何かあったろ」


「……ないって言った。何でもない」


「俺にそれ、通用すると思うか?」


「……」


──それは、いつか、俺が康太に言ったことだった。


黙っている俺に、康太は言った。


「言いたくなかったら言わなくていいけど……でも我慢はすんな。しんどいだろ」


そう言うと、康太は俺の頭にぽん、と手を置いてきた。


「置くなって……」


「……」


康太は何も言わず、俺の頭をぽん、ぽんと二回叩いた。


俺は何も言えなくなって、代わりに……。


「……っ、う……ぅっ……」


気が付いたら泣いていた。


きゅっと閉めていた蓋が押し上げられて、どんどん溢れてくるみたいだった。

康太は俺を引き寄せて、しばらく胸を貸してくれた。ずっと遠くで予鈴が鳴った。


どのくらい経ったかな。

俺は康太の胸から離れて、言った。


「……皆がいるのに、ごめん」


「誰もいねえ。もうホームルーム始まってるし」


「……戻らないと」


「戻れるのか?」


「……」


今は戻りたくなかった。

でもそんなわけには──そう思っていると、ふいに、康太が言った。


「……今日は学校、出るか」


「……出るって?」


首を傾げる俺に、康太はさらにこう言った。


「サボり。二人で」


俺がえっ、という間に、康太はもう、俺の手を引いてベンチから立ち上がっていた。

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