#31 幻覚だったのかな
ベッドに身を投げ込む。
あれから結局のところ、掃除は数時間続いたものの全く汚れが落ちないので中断。部屋中に染み付いた黒い何かは、台所でその元凶と思わしきものが見つかった。鍋の上に炭化した何かが30cmくらい積乱雲状に膨らんで固まっていた。一体何をどうしたらこんなことが起きるのか。料理が全くと言ってもいいほどできない翠であれ、理解が難しかった。
数時間の掃除を中断したのち、時計を見ると既に午前の二時半になっていた。夜型生活に慣れている体質らしい翠としてはそこまで気にならなかったが、シャリヤもエレーナもフェリーサもうとうとしていた。レシェールは掃除の中断に乗り気ではなかったが、いい加減キリがないので無視して行ってしまった。悪く思ってないといいけど……。
(……。)
シャワーの音が聞こえる。
部屋に併設されている小部屋はトイレ、洗面台、バスタブを同室内に設置する西洋式だ。異世界とか水道やトイレの環境が酷いかもしれないとも思っていた。ヨーロッパはそのあたりの歴史が酷いことになっていて、街道に垂れ流しになっていた時期もあるという。ただ、この異世界はそういうこともなく、上下水道の整備がちゃんとしているらしい。
シャワールームに入っているのはシャリヤだ。お疲れの様子であったから、同室のカマラードを優先した結果だ。シャワーと言えばこの三日間朝にしか浴びてなくて、そういうものかと思っていたのが特に一般的に浴びる時間というのがあるわけでもなさそうである。
今日も朝から色々あってラッキースケベなど望むまでもない。そもそも併設されたその別室の空間が割と広いので、着替えなどはその中でやっていれば見えないわけで、まあそういった展開はない。逆に報酬をくれるなら疲労を解消してくれる薬でもくれって感じだ。
(はあ……)
ふと外の風景を見てみる。
黒で塗りつぶされた漆黒の空。止まって水が溜まったままの噴水らしきモニュメントの水には月の光が写し取られている。街灯などがあまりないのでほぼ純粋に月の光を受けて輝いている。人影は居ないと思われたが、がさごそと茂みから音がする。
多分小動物か何かなのだろうと理性的に自己解決してしまう。でも、自然にそっちのほうに目がいって、気になってしまう。なんだろう、リスだろうか、それとも鳥?
だが、そこに見えたのは小動物でも鳥でもなかった。見覚えのある栗毛色のミディアムの髪、少し高めの背。黒のコートと特徴的な褐色の肌。
「インド先輩……?」
あまりに見覚えがありすぎるその姿にはさすがに驚いてしまう。見まがうこともない。言語学の知識を翠に教えてくれたその張本人――浅上慧だ。
ベッドから飛び起きてそれを確認する。寝ぼけ眼をこすり、よく見る。記憶の中に強く残っているその姿と相違ない。
浅上はというと、窓から乗り出して確認しようとする翠の姿を見て、ゆっくりと焦る様子もなく背を向けて進み始めた。夜風に黒のコートがなびく。昼の気温があんなに高かったのに、窓から外の夜風がこれまでかというほどに冷たい。
というか、こんなことをしている場合ではない。インド先輩が、浅上慧がこの異世界に居るということはどういうことなのか。
(待て、浅上って……誰だ?)
またもや思考の最中でいきなり出て来るイメージ。良く分からないが、これもボトルネック式記憶のせいで出てきた記憶なのだろう。インド先輩の本名はきっとその浅上慧とやらだ。
考えるより先に体が動いていた。上着に手もかけずに、部屋のドアを突き飛ばすかのように開ける。開いたままのドアを閉める暇なんてない。浅上に追いつけなければ。追いついてなんでこの世界に居るのかを聞かなければならない。そうすれば、記憶がない理由とかどうやって異世界に転生してきたのかということも分かるかもしれない。
(待ってくれ!)
階段を駆け下り転びそうになりながらも、その影を確認できた。ゆっくりゆっくりと翠に背を向けて歩いている。近づいて分かった。やはり間違いなくインド先輩だ。
「待って!待ってください!」
翠の必死の呼びかけには全く応じない。聞こえないかのように振舞っている。これだけ近くにいるのに全く反応しないとは。
翠は浅上を捕まえて答えさせようと浅上の方へ向かう。だが、触れられるすんでのところで走り出し始めた。
(俺から逃げ……てる……?)
何故?何故逃げる必要があるのか。
走り出したを追うために翠も走り出す。体力に自信があるわけじゃない。でも、ここで追いつけなければなんでインド先輩までこの異世界に来ているのかが分からなくなってしまう。
一本道を駆けていく。レトラの街は思ったより大きく、いくつもの建物の間を通過して走る間が永遠にも思えた。転倒しそうになってもひたすらインド先輩が止まるか追いついて捕まえられることを望んで走り続ける。激しい呼吸の音が聞こえても、走る疲れより何故インド先輩がここに居るのかという疑問に頭が支配されていた。
インド先輩からは距離もあるだろうが呼吸の声も、走る足音の一つも聞こえなかったも不思議に思えた。
十分以上走ったところで、目の前に右折路が見えてくる。見失う前に追いつこうと意気込むと路上の舗装がまともじゃないところに足を引っかけて盛大に転びかけた。体勢を立て直し、追いかけて右折したところで突き当りに当たった。
これでインド先輩を捕まえられると思い安堵した瞬間、そこには人一人の姿も見えなかった。
息苦しさとうるさい呼吸音が思考を乱す。
行き止まりは高いバリケードとドアも窓もない建物の側面で構成されていて簡単には外部には出られない。右に曲がったと見せかけて行き止まりに翠を駆け込ませて、反対方向に逃げたのかと周りを見渡すが誰も居ない。気配も、何も感じられなかった。
「……。」
あの時見たインド先輩は確かに見たまんまで記憶通りの存在だった。物陰から出てきたとき、確かにこの世界で見た何者よりも現実感がある存在。それと追いかけっこをしていたら、あらぬところで跡形もなく消え去ってしまったなんて一番現実的じゃない。
「疲れていたから……か……?」
息が整い始めると段々と思考がクリアになってくる。
そうだ。インド先輩がここに一緒に転生してくるなどあり得ない。お友達を道ずれサービスしてくれる神様なんて、都合よすぎるじゃないか。そもそもこの世界で一番現実感がある存在って、それはつまりこの世界で一番現実感が無い存在じゃないか。
幻覚だ。茂みのざわめきはきっと小動物か虫か鳥か。本当にそのあたりで、インド先輩が見えたのはきっと幻覚を見たに違いない。危ないヤクとかそういうのをやっているわけではなくて、疲れすぎたために幻覚を見た。三日間普段やるはずもない未知の言語の解読に脳を酷使していた。だから――
"Fanstelac voklisestan ol mi reto."
「うわぁっ!?」
思わず大声が出てしまう。気配も何もないのに異世界語が聞こえたからだ。こんな奇妙なことがあった後の静寂でいきなり声が聞こえたら、誰でも驚く。たぶん近くの建物の話し声が聞こえたんだろう。
息を整えて、乱れた服装や髪を整える。部屋に戻ろう。そして、無限に寝よう。
翠はシャリヤの相部屋に戻るために踵を返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます