第四章

#325 祈りと熱


「おはよう、僕だよっ」


 玄関ドアの覗き窓から、覗くとそこには谷山が立っていた。上品なスーツ姿、顔はなにか良いことでもあったのか、紅潮している。現在の時刻は5時46分。元気なのは良いことだが、それにしても非常識な時間だった。シャリヤも先日から続く緊張状態ですっかり疲れて、寝込んでしまっている。

 俺は片手で目をこすりつつ、ドアを解錠した。


「こんな朝早くからなんですか……」

「これ見てよ、これっ!」


 谷山がそう言って差し出してきたのは分厚い本だった。眠気まなこの視界にリパーシェが映って、引いてしまう。前の日の帰りに既に谷山は奪われた訳文と同じ文書を俺に渡していた。


「この分量はすぐには訳せませんよ」

「違うよ! よく表紙を見てみて?」


 試すような表情の谷山はそういって、本を突き出した。よく見ると高級感のある装丁だった。表紙は茶色の革で、小口の上下には金の光が見える。それを受け取り、俺は目を細めながら表紙の題をよく見てみた。


"Dytysn新しい lineparine'dリパライン語の levip辞書...... って、辞書?」

「ああ、また偵察部隊の奴らが持ち帰ってきたんだよ。厚くて紙自体は薄く、内容がゴリ押すように小さな文字で書かれていたから辞書だと思ったんだ」

「よく持ち帰れましたね」

「まあね、それで君の役に立つと思って渡しに来たんだよ」


 ページを捲りあげてみる。小さい文字でリパーシェが並んでいる。表記されているものは、確かに単語と語釈のようだ。


「ありがとうございます、助かります」

「それなら良かった、昨日渡した文書の翻訳も頼んだよ」

「ええ、はい」


 適当に相槌を打って、谷山が去るのを見届ける。そのあとも何か言っていたような気がしたが、眠すぎてよく覚えていなかった。俺はそのままドアの施錠を確認し、谷山から受け取った辞書を適当にテーブルにおいて、ほぼ無意識でベッドへと飛び込んだ。

 本当に眠くてたまらなかった。



 アラーム音が耳に響いていた。手だけで時計を探して、止める。なんだか不格好な朝だった。

 変な寝方をしていたからか、首が痛い。さすりながら起き上がり、既にベッドを抜け出ていたシャリヤを探した。


"......"


 彼女は静かに窓の外を見つめていた。左手は右手首を掴んで、右手は自分の前の空間を掴むような仕草をしている。そして、目は瞑っていた。


(祈っている……?)


 最初の印象はそんな感じだった。なんとなくだが、邪魔してはいけないような雰囲気を醸し出していた。そんな彼女の後ろ髪を朝の光が流れ落ちていく、そんなシャリヤの後ろ姿は絵画に描かれそうなくらいには神秘的だった。

 しばらく、その背中を見つめていると、彼女はいきなり振り返ってこちらを向いた。


"Arあら, Edixa co pen起きてた xelerl jaのね, salaruaおはよう."

"Salaruaおはよう, edixu co 何をして es harmie'iいたんだ?"


 俺がそう尋ねると、彼女は少し考えるような顔をしながら視線をそらす。答えたくないことなのだろうか、と一瞬思った。しかし、シャリヤは再びこちらに視線を戻してくれた。


"edixu mi tydiest長い間フィ niv fi'anxa falアンシャに行っ loler liestu magてなかったから mi tvarcar祈っていたのよ."


 どうやら、祈っていたのは確かなようだ。リパラオネ教徒であるシャリヤは、その仕来りで数日に一回はフィアンシャ――リパラオネ教の礼拝堂に通うのが普通だった。だが、今になってはそれも出来ない。日本にリパラオネ教徒は居ないし、フィアンシャが立つことも無いからだ。

 だからこそ、今彼女は祈りを捧げることしか出来ないのだろう。


"Cene co kanti俺にも祈り方 elx tvarcarvelを教えてくれ mi'l atないか?"

"Joppえっと...... Harmie seleneどうして翠は co qune la lexそれを訊きたいの?"

"Merえっと......"


 シャリヤの視線が少し奇妙なものを見るようだったので、答えに物怖じしてしまう。しかし、そんな俺の気持ちを透かして見るように彼女は優しく微笑んでみせた。


"Es xale mi私みたいにしてみて, jaいい?"


 こくこくと頷くと、シャリヤはさっきの姿勢に戻った。そしてまた、目を瞑り、無言のときが続く。俺も彼女に寄り添って、その仕草を真似して祈る。日本人にしてみれば、アレフィスも八百万の神の一柱だ。願えば叶えてくれることもあるかもしれない。


(どうか、シャリヤとこれかも平和な日々が過ごせますように)


 くしゅん。


 そんな真摯な祈りを中断するくしゃみの音に疑問を抱く。そっと目を開ける。その瞬間、シャリヤがこちらに倒れ込んできた。


「シャ、シャリヤ!?」


 彼女は目を瞑りながら、息苦しそうに熱い吐息を深くはいていた。受け止めた身体が火照っている。俺はすぐに彼女の額に手を伸ばした。発熱しているのは明らかだった。


"C, cenesti, mi m'es vynut私は大丈夫よ, ekce riopaすこし……......"


 そういって、俺の腕を掴んで立ち上がろうとして、彼女はまた倒れ込んできた。完全に体調を崩している様子だった。


"Mili ekcej少し待っててくれ. Mi klieすぐ戻ってくる."


 そういって、俺はPHSをとりあげて連絡先から谷山の名前を探した。

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