#55 勝手な期待
町民の様子がおかしい。というか、自分に視線が注がれている気がする。こちらを見てこそこそと話をする者もいれば、明らかに嫌そうな目でこちらをにらんでくる者もいた。歩いていくたびに注目を受けていることをひしひしと感じることが出来た。何故注目を受けているのか?街を危機から救ったとかそういう英雄的行為によるものではないことは分かっている。では何か、確実に思い浮かぶものがあった。未だに自分が"
そんなことを考えていると後ろから何かを投げつけられた。振り向いても誰が投げつけたのか分からない。本当に投げつけられたのか、事故なのかも良く分からない。でも、道端の人の様子が自分を嘲笑っているかのように見えたし、何か大声で煽ってくる者さえいたので確信した。未だに彼らは翠のことを敵のスパイか何かなのだと信じているのだろう。だが、こんなことでは八ヶ崎翠は挫けない。不当嫌疑を完全に払拭してこそ主人公であろう。
背中に当たったと思われる紙屑が下に落ちている。嘲笑う声もまだ聞こえてくる。だがレシェールもヒンゲンファールも自分のことを敵ではないと信じてくれているはずなのだ。シャリヤもきっとそのようであるはずだ。心配しながら自分が戻ってくるのを待っているはずだ。すぐに戻らなければと心が急いた。
(ん……水……?)
同居地まで戻ろうと再度決意したところで気づいたことはぽつぽつと雨が降り始めていたことであった。こんな状態ではのろのろ歩いていたら雨に濡れてびっしょりの状態になってしまう。そんな姿で会いに行けば、更に心配を掛けることになるだろう。傘を借りようか、今直ぐ走って帰っていくか迷ったが急いで走って行っても濡れることには違いないので近くの店で傘を借りようと思った。
みんながみんな自分のことを敵側の人間であると思っているわけがないし、傘を貸すくらいのことはしてくれるであろう。八ヶ崎翠は異世界転生物の主人公なのだから都合のいい時に皆、都合のいい行動をしてくれるに決まっている……くらいに思わねば。
(……行こう。)
手元にはレシェールが独房まで持ってきてくれたメモ帳とペンがある。メモ帳のページをめくり、そこに傘を射す人の絵を描く。
この道は商店街のように店が連なっている。一回貸してもらえなかったとしても二、三回試行できるに違いない。とはいえ、最初から失敗を考えていてもどうしようもないから、意を決して絵を見せて話しかけることにした。
"
"
シッシッと言って動物でも追い払うように追い返されてしまった。うむ、多分きっと傘を既に別の客に貸していたのだろう。いきなり降った雨だし、天気予報のようなものがあるとは聞いたこともない。多分いろんな人が店に立ち寄って、傘を貸してもらって行ってしまったのだろう。
しょうがないので次に行くしかない。横の店の人に同じく絵を見せる。
"
申し訳なさそうに謝る様子を見るとこちらも傘を持っていない様子だった。ここら辺は人も多そうだし、いきなりの雨で全部持っていかれたのかもしれない。雨を避けながら商店街を進んで、ちょっと行ったところの店は人気が少なそうだったのでそっちの方に訊いてみるしかなさそうだ。
見てみたところ傘立てに傘が数本立てられていた。
"
"Snusest zu lodiel cege'c
「え……?でも……。」
通じないと思っても衝撃を受けたときはついつい日本語が出てしまう。無いと言われながら差し出されたのは壊れた傘だったからだ。雨を防ぐ布の部分が二か所ほど破れており、一か所骨が折れている。しょうがなく受け取ると店員は店の奥の方に行ってしまった。結局壊れた傘を射しながら、シャリヤの元に向かうしかなくなった。
壊れた傘の隙間から滴る雨で結局のところ袖が濡れてしまっていた。どっちみち分かってしまったことは多くの人間が自分に悪意をもって接そうとしているということだ。まあ生きづらくなったものだとは思うが自分にはレシェールやヒンゲンファール、それにシャリヤやエレーナ、フェリーサと多くの知り合いがいる。たかが傘を借りれなかったくらいで、命に危害はないし、十分彼ら彼女らとの親睦と信頼を深めればこの先もこの街で生き続けることは可能だろう。
(……あれ?)
シャリヤが荷物を引きながら歩いている。
丁度いいところで出会ったので無事を伝えようとしてと近づこうとして"
「えっ?なんで」
一瞬何が起きたのか理解できず、その次は何も考えず追わざるを得なかった。何故逃げ出すように走り去ろうとするのか理由を訊きたかったからである。傘を持ちながら走るなんてまどろっこしいことは出来ない。市民の悪意の象徴である壊れた傘を投げ捨て、シャリヤを追いかけ続ける。
シャリヤは動きやすい服装とは言えず、荷物を片手で引いて傘を持ちながら走っていたので翠はすぐにそれに追いつくことが出来た。何も考えられなかったが、とにかく理由を知るために、そこに留め置くためにシャリヤの手首を掴んだ。
「なんで、なんで逃げたんだ。一体何があったんだ、ねえシャリヤ――」
混乱の中では冷静な考えが浮かばなくなる。異世界語を話そう、意思疎通をしようなんて自分がどうにもならない状態に陥らない人間だけが考えられる出来事だ。これまで挫折してこなかったのがむしろ珍しいだろう。だから、この瞬間翠は初めて挫折した。異世界語を話そうとしては、声が出てこなかったから、日本語で心からの疑問を呈する他なかった。
刹那、翠の手は強い力で振り払われた。翠の声はシャリヤが手を振り払ったという拒絶の意志を感じてしまったことで止まってしまった。翠が衝撃を受けていることを感じ取ったシャリヤは得も言われぬ表情になって翠を見つめていた。
"――
謝罪の言葉を述べてその場を去るシャリヤに何と声を掛ければよかったのか、どう説明すればよかったのか。翠の頭ではまともに考えつくことはできなかった。少なくとも、頭に浮かぶことは「言葉なんか理解できなければよかった」という非論理的な後悔のみであった。感情的で、後先考えていない思考であることは翠にも分かっていた。けれども、それだけシャリヤを信じていたのに理由も分からず期待を裏切られてしまったということは強く心に傷を残したのであった。
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