#107 Vasperlkurf
「何か方法があるはずだ……どうにか出来るはずなんだ……」
テーブルに肘を立てて、頭を抱え座りながらぶつぶつとつぶやく。呟いている間に時間は過ぎていっているというのに、目の前にある重圧に慣れるには時間が全く足りていなかった。
結局、イェスカが何処かに行ってしまった後、シャリヤの元に戻ることが出来なかった。彼女は寂しがっているだろうに、傍に居てあげなければならないのに、彼女の言う通りイェスカと話した意味はただ単にシャリヤが自分の人質にされているという事実の理解と選択の期限を知ることだけだったから、あわせる顔が無かった。このまま帰ってシャリヤと共に居ることは現実を丸々受け入れることに等しいとも感じた。
とてもじゃないが帰れない状況で、ふらふらと立ち寄ったのが図書館だった。ここの第三階はいつも通りの様子で、安心感があった。このままこの安心感に浸っていたいと思っていたがそれではただ単に問題から逃げていることにしかならない。だから、頭を抱えて悩んでいた。
(結局どっちを選んでも引き離されるんだよな)
イェスカが出してきた選択肢は二つだ。
「翠がイェスカの教会に参加することによってシャリヤを軍役から外す」と「翠がイェスカの教会に参加しないことでシャリヤが前線に出される」だ。
イェスカの教会に参加した翠はどういった扱いを受けるのかわからない。リパラオネ教を全く知らない人間がへまを犯せば自分こそ殺される危険性があるし、シャリヤと二度と会えなくなることも考えられる。だからこそ容易にこの選択ができない。この先のことがさっぱり見えてこないからだ。
かといって、シャリヤを見殺しにすることはできない。犠牲になるかもしれない大切な人の命を賭けて、自分だけ面倒から抜け出るなんて狂ってる。この選択はそもそも出来るはずもない。
どうすればいいのだろう。
例えば、イェスカを政治的に没落させたら、権威を失ってその命令も無効になってシャリヤは自由になれるだろうか。裏からありもしない宣伝工作を繰り返せばイェスカの威信は地に落ちるだろう。最低でもレトラから追い出せば、シャリヤの身の上の危険は振り払えるはずだ。
(……いや、ダメだろ)
頭を振って、一度考えた思考を否定する。
レトラは一度フェンテショレー、つまり敵対する異教徒に襲撃を受けた場所だ。敵対勢力に敵の居場所だと知られているのにイェスカを追い出して、自ら敵を増やすのは更なる死傷者を産むことになる。シャリヤを一時的に戦乱から遠ざけ、一緒に居る時間を増やせたとして、その先に待っているのは更なる面倒だ。自分が首謀者と断定されれば、真っ先に命を狙われるし、そもそも一日、二日で出来る話じゃない。
シャリヤだけが助かってもいいのではないだろうか。
自分が死んでも多分次の転生地にでも飛ばされるだけだろう。シャリヤがわざわざ惨い戦場にまで出ていく必要はない。ならば、自分が教会に行ってしまったらいいのではないだろうか。シャリヤにはエレーナやレシェール、フェリーサなどの知り合いが居る。自分が逆に生活の足手まといになっているほどだろうし、居なくなった方が――
(……)
再度頭を振った。
何を考えているのだろうか。シャリヤの隣に居ると誓ったのは他でもない自分ではなかったのか。彼女が「どうせイェスカの教会へ行ってしまう」という憶測をしていたのを否定したのは誰だったのか。約束をふいにして、彼女の孤独を引き戻し、その上自分のために翠は死んだという重荷を背負わせることになるなど、悪行の役満である。馬鹿は休み休み言え、一体誰のためにこの問題を考えているのかという気分になって来た。
「何か方法はないのか……どちらもしなくていいような何かが……」
方法、方法。
頼みの綱となるようなものは一つもない。しかし、シャリヤと翠を引き離すべく現実は恐ろしい速さで背中を追いかけている。書架を見つめるだけでは、答えが出るはずもなく。今まで出た考えも非現実的なものだった。
数分経つと考えているというより、椅子に完全にもたれて、天井を見て途方に暮れているという感じだった。
途端にガチャリとドアが開く音がする。
誰が入って来たか興味はなかったが、無意識な反応で顔がそちらに向いた。
"
先日喧嘩別れしたフェリーサがそこには居た。ベージュのポンチョらしき上着に紺のズボン、あどけない顔は申し訳なさそうな表情だ。目は以前のような紅色ではなく、黒に戻っていた。
"
"
凄く気まずい。こちらも怒鳴ってしまった相手を前にして、バツが悪い思いをしている。
"
"
"
"
フェリーサがうるうるした目でこちらを見つめる。何かを請うような表情だったから、前日のことは不問にして赦そうと思っていたが語彙力の無さのせいで凄い曖昧なフォローになってしまった。
それにしても"
pan
【
:
辞書を閉じた。多分、"pan"という単語は「赦す」らへんの意味に当たる単語なのだろう。つまり、フェリーサは「自分を赦してくれる?」と訊いているのだろう。
"
"Luarta!"
フェリーサは嬉しそうに飛び上がっていた。その笑顔はまぶしすぎて、苦境に追いやられている現在の翠では直視することが出来なかった。フェリーサはそのままこちらに抱き着いてきた。笑顔の概念の実体化したものが、こちらに突進してくるような感覚を覚えて生理的に恐怖を感じた。
「うわっ、ちょっ、恥ずかしいから離せっ……って!」
"
抱き着いてくるフェリーサを引き剥がそうとするが、磁石のように引っ付いてきて遠ざけることが出来ない。可愛いことは可愛いが、ヒンゲンファールやらレシェールやらにこれを見られたあと、ただのじゃれ合いをどのように彼らが解釈することかなど決まってる。これ以上面倒が増えるのはごめんだった。
"
「シャリヤの真似事かよ……」
どうやらシャリヤとの会話を大分深いところまで覚えているようだった。本人に悪気はなさそうだが、状況が状況でため息が出る。
自分のフェリーサの間に隙間が出来て、彼女をやっと引き剥がすことが出来ると思った。その瞬間、いきなりフェリーサが引っ付いてくるのをやめたから体勢を崩して、そのまま本棚にぶつかって座り込むように転んでしまった。
"
上からフェリーサが不思議そうに覗き込んでくる。今回の謝罪は軽いものだった。
フェリーサを制御するのでさえこの様で、シャリヤを救うことなんて出来るのだろうか。全部、もう運命に任せるべきなのだろうか。
全部がグレーな思考に支配されていく。とりあえず、立ち上がろうと思ったが、なかなか足に力が入らなかった。
"
フェリーサの心配そうな顔に答えると、上から一冊の本が頭に落ちてきた。直撃で頭がくらくらする。表紙を下にして落ちてきたから良かったにしろ、角が当たってたら今頃フェリーサの足元をもがいていただろう。
(みっともない姿を見せずに済んだがな)
フェリーサは興味深そうに、翠は忌々しげに本の表紙を覗き込んだ。本の表紙には"
良く分からないが、表紙を見るあたり面白そうな内容に見えてくる。
「なんなんだ、この本、
"
"
翠の問いにフェリーサは頷いた。
"lkurf"は確か「話す」という意味の動詞だった。"vasperlkurfo"もそれに従えば何らかの「話す」ことに関する動詞"vasperlkurf"から来ているのだろうか。気になってきた。
"
"
フェリーサは少し笑って、こちらに尋ねてきた。イェスカのように"vasperlkurf"することは彼女にとっては少し可笑しいことなのかもしれない。翠は好奇心に釣られて、首を振って肯定の意を表した。
フェリーサはそれを見ると、うんうんと感心したように頷いて一つ椅子を引き抜いてその上に乗った。息を吸い込んで、訴えかけるように拳を突き出す。
"
意志のこもった声なのか、それを真似ているの分からないがいつもより変に低めな声はおかしく聞こえた。しかし、フェリーサは腕を振るいながら、更に絶妙な間を置いて訴えるような声を続けていた。時には静かに、時には具体例を挙げ、繰り返し、重点を高らかに言い放ち、それをゆっくりと民衆に理解させるように。
フェリーサの話し方に、翠は魅了されてしまった。"vasperlkurf"というのは多分「演説する」という意味の動詞だったのだろう。先程の本はつまり、何かの演説集というあたりだろうか。
フェリーサはイェスカの演説の真似を終えると疲れた様子でこちらに首を傾げて感想を欲しがっていた。
"
フェリーサはそれを聞いて両手を挙げて喜んでいた。時と場合によっては煩いと感じるが、彼女の体全体で喜んだり悲しんだりする幼さは逆に分かりやすくて対応しやすかった。
知的好奇心が満たされ、人も喜ばせることが出来た。ただ、シャリヤの問題はさっぱり解決に前進していないことに精神が引き戻されてしまった。フェリーサと話していたことは問題の解決に一歩も寄与していない。悲しい現実に引き戻されるだけだった。演説なんかに時間を使っている余裕なんかはないのに。
(演説なんかに……?)
決まり切った思考を排して考え直す。演説と今の問題への解決策を結び付けられる。レトラに来て、起こったことを全て考え直せば、全てを利用すれば、政治や無茶な行動を起こすよりも確実に、そして早く、人に変革を与えることが出来たじゃないか。
なんでこんな本質的なことを見落としていたのだろう。答えは目の前にあったんだ。今まで自分がやってきたこと、実感してきたこと。〝言葉の力〟を利用すればいい。
「演説……これだ!」
翠のいきなりの閃きの声に、両手を挙げて陽気に喜んでいたフェリーサは手を挙げたままきょとんとこちらを見てきた。
"
"
フェリーサは言っていることがさっぱり理解できていない様子で首と掲げた両手が連動するように傾げていた。解決方が見つかった解放感からか、その可笑しさに自然に笑えるようになっていた。
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