#184 イヴァネとシェレウル
診察室の中に入ると白衣の男が一人佇んでいた。左の目元から頬の端にかけての火傷痕が痛々しい。髪は灰色で青年より少し年上だが、まだ若者と言えそうな顔立ちだった。気だるそうな半目は入ってきた自分たちにゆっくりと目を向けた。
"
翠が問いかけると男は口を開くのもだるいのか、少し頷いただけだった。イヴァネはシャリヤと翠を連れてきた白衣の青年に向かって、何やら手を動かし始めた。最初はジェスチャーの類かと思っていたが、後ろの青年も話しながら手と顔の動きで答えるのですぐにそれが手話だと分かった。手話も口頭言語も文章言語も構成する最小単位が違えど、同じ言語である。この異世界に手話が無いなんてこともないのだろう。
白衣の青年は手話で状況を説明しているようだった。
"
彼はイヴァネの手話での返答をすらすらとシャリヤに告げた。惚れるような手話通訳力だった。青年は手話でイヴァネに話しかける時も常に口頭言語を話しているから聴者である自分たちにも話の流れが伝わる。スムーズなコミュニケーションになっていた。
"Vakkom g'is ixen,
シャリヤもイヴァネに向かって淡々と何かを話していく。青年の手話通訳力に安心できているからこそ、言葉を任せることが出来る。
"...... karse."
とも思えば、イヴァネの口から音声言語が漏れた。シャリヤも驚いていたがなされるがままに靴を脱いで挫いた方の足首を見せた。どうやら口頭言語を話すことも出来るようだった。
"
"
イヴァネはため息と共に面倒臭そうに青年からカードのようなものを受け取った。裏面のフィルムを剥がして、シャリヤの足首に丁寧にそれを貼り付けた。
シャリヤはといえば痛むのか少し顔を歪ませながらも、貼り終わると安堵の表情になっていた。
"Achkarj malystino a
イヴァネの手話をまた青年が通訳してくれた。恐らく"
そんなことをしているうちにイヴァネは気分悪そうに手で追い払う仕草をこちらにしていた。早く外に出ていってほしいらしい。そのまま書類だらけの机の上に突っ伏して寝始めるイヴァネの様子を見ながら、白衣の青年のほうはニコニコと笑みを浮かべていた。
"
言われるがまま待合室に戻ってきてしまった。イヴァネ医師はまだ突っ伏して寝ているのだろか、無料で医療を提供するなんて慈善事業をやっているのに性格になんだか違和感しか感じなかった。
"Lirs,
青年に訊いていたのはシャリヤだった。そういえば、この白衣の青年の名前を聞いたことが無かった。シャリヤも世話になった人の名前は聞いておきたいのだろう。
青年はといえば、名前を訊かれて困った表情になってしまっていた。頬をかきながらこちらに目を向ける。
"
"
"
青年は困ったような音を上げたまま、また奥の方の部屋へと行ってしまった。とおもったら、ドアがすぐに開いた。
"
理解する間もなく、腕を引っ張られて奥の方の部屋へと引っ張り込まれてしまった。青年は一息ついたという感じでため息をして、翠に紙切れを押し付けてきた。
"
何のことかさっぱり分からなかった。こんなに長い名前のものを探しているのだろうか。
"
青年はそう言って金属棚に置いてある箱を一つ一つ確認し始めた。イヴァネがくれたものと言えば、シャリヤに貼った湿布のようなものだろう。そうすると、"malystino"は「湿布」のことを指しているのだろうか。その文脈だと、"
青年と向かう合う形で金属棚の反対側にそれらしいものが無いか探していた。中々見つからず結構な時間が経って、気まずい雰囲気になっていた。
"
ぽつりと零すように白衣の青年、シェレウルは言った。気まずい雰囲気を打破するためか、それともさっきシャリヤに訊かれたのに答えられなかったことへの罪滅ぼしかは顔がはっきり見えない棚越しからは分からなかった。
"
"
青年の声色はさっきとは打って変わって悲しそうだった。
過激な集団や組織とは関係なく"Xelken"と名前の付く人々が居て、その人達が集団としての「シェルケン」と勘違いされ、イェスカやユミリアの教会主導で殺されたという過去があったのだろう。ヒンゲンファールも自分の名前は「ヒンヴァリー」と呼んで欲しいと言っていた。あれは教会から見て異教徒に見える名字を使わないようにするためだったのだろう。教会との繋がりがあったとしても市民にそれが波及しているなら、迫害される危険性が現れる。彼女の心配も分からなくはなかった。
"
"......
思わぬところで思わぬ話を聞いてしまった。あの愛想のない医師は慈善事業として無料で医療を提供するだけでなく、その前には人を一人助けていたということだ。俗に言うツンデレというやつだろうか?
"
エウルバイユはさっきまでの調子に戻って、何枚か湿布を持ってこちらに来た。
それからあと話は早かった。シェレウルは日が暮れているというので、泊まっていけばいいと言って病院の待合室に寝泊まりすることになった。イヴァネは「まだ帰っていないのか」、「一晩だけだぞ」と不満を漏らしながらもそれ以上何も言うことはなかった。
ただ、シェレウルはそわそわしながら窓から外を眺めていた。ともすると、翠を捕まえて窓の外を指差した。
"
シェレウルはそういうとまた違う部屋へと入って、一瞬で白衣からカジュアルな服に着替えてきた。
シャリヤも同行したそうにしていたが、イヴァネが出てきてダメだとばかり言うので安静にしてもらうことにした。イヴァネは奥の方に引きこもったまま出てこない様子だし、シャリヤは退屈になってしまうだろうと思ったが彼女は「大丈夫だよ、行ってきて」と優しく微笑んでくれた。というわけで翠が祭りに行ってくることになるのだが、こんな相棒で大丈夫なのだろうか……?
不安になりながらも、病院からシェレウルと共に出てゆくことにした。
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