#26 バターの香り


 製菓材料のお店から帰ってきた。

 さすがにエレーナに材料を全て持たせるのも忍びないので、材料は翠が持っていた。そんなに重くないと思っていたら、昇ってきた日に当てられて怠くなってきた。風土は違うだろうが、夏の日差しに近い日がじりじりと肌を焼いている感覚があった。そうはいっても気温はそこまで高いわけではなかった。つまり、日差しで熱中症になったわけではなく、日光に当たって疲れてしまったというわけだ。


(昼夜逆転の生活を送ってた……のかな。)


 朝いくら思い出そうとしても思い出せなかったように転生してくる前何をやっていたのかについては、「そうであったかもしれない」という推測しかできない。自分が何を思って転生して来たのか、ということは誰だって興味を持つはずだ。記憶を代償にするほど、そこには何かがあったのかもしれないし、でも今の段階ではそれを調べるすべも何もない。

 シャリヤはといえば、宿舎に帰ってくると口元をほころばせて"Salarua.おはよう"と挨拶をして出迎えてくれた。既に着替えていて、青いノースリーブのシャツにキュロットを合わせている。銀色の髪は一面雪の銀世界かのような透き通った白で光を反射させている。異世界中世ヨーロッパファンタジーっぽくない異世界で、一番異世界らしいのは彼女である気がする。正直これで惚れてしまってもおかしくはないのだが。


(まだ、シャリヤのことは何も知らないんだよな。)


 シャリヤの家らしき建造物の中に翠が突然現れたときにシャリヤは誰も人を呼ばなかった。しかも、頻度解析にあれだけ長い時間を掛けておいて、シャリヤ以外の誰も翠に近づかなかった。これと偉大なる伝統文化的電子遊戯作品群の脚本から紐解くに、多分シャリヤとその親には何かの関係があるに違いない。翠がそれを解決することが出来たら、シャリヤへの最大の恩返しになりそうだ。


"Cenesti翠よ, Selene co knloan ietost?あなたは……を食べる?"


 シャリヤがコップを差し出しながら何かを訊いてきた。

 "ietost"を食べたいかどうかなんだろうけど、このコップに入っているものが"ietost"だったりして?コップに入っているのは普通に透明の液体、水だ。


"Mer, fqa es ietost?えっと、これは……?"

"Ja.うん"


 やはり、水のことを"ietost"と言うらしい。どうやら、飲み物や食べ物で動詞を使い分けることはないようだ。つまり、「食べる」と「飲む」を区別しないらしい。なんだか語法が奇妙にみえるが、そもそも"knloan"が「食べる」ではなく「口にする」くらいの意味だったのだろう。奇妙な語法といえばインド先輩が教えてくれたことにタミル語のசாப்பிடுという動詞についてのことがある。日本語では「薬を飲む」だが、タミル語では「薬を食べる(மருந்தை சாப்பிடு)」と言うらしいのだ。美少女に好まれて、ハーレムを作る上でこういった細かい語法を覚えることは重要だ。この地域の人間と何回も会話して、矯正していくのがよさそうだ。

 そして、こういった食べ物関連の単語は非常に重要だ。水くらい人に要求できるようにしておくべきだ。異世界に転生した挙句、干からびて死ぬとか無様すぎる。こちとら、年下の美少女の家に泊められて匿わせてもらってるわけでも、ゲームのプロで賭け事に勝ちまくって小銭儲けができるわけでも、圧倒的軍事力を見せつけて武器商人になったりしているわけでもない。いつそこらへんでぶっ倒れて「水をくれぇ……。」と延々と言い続けることになるかも分からない。サバイバル単語はできるだけ揃えておくべきと見た。


(そういえば「~がしたい」って言い方を知らないな。)


 そんなことを考えながら、シャリヤと共に部屋のテーブルに座って水を飲んでいた。エレーナはといえば、同じ部屋にある台所を使って何かを作りに行っていた。お菓子を作るのだと思うが、多分できるまで一時間は空きが出来るであろう。


(このうちに願望の表し方を訊き出しておこう。)


 さて、しかしどうやって願望を訊き出そう。"knloan"食べるを使って"Mi knloan niv nyey.私は本を食べない Mi knloan dijyk.私は林檎を食べる"だとか訊いたらいいのだろうか。しかし、それではシャリヤに「そりゃまともな人間は本なんて食べないわね」と言われてさらっと終わるかもしれない。屋外と屋内を交互にさして、"niv"いいえ"ja"はいを交互に言ったら察してくれたりしないだろうか。それではただ単に「外に行きたくない」に取られそうで、やはり願望表現を訊き出すことはできなさそうだ。

 難しいことだが、まだ手段は残っている。図を書いて分かってもらうという手段がある。昔から通じ合えないときは言語より図示したほうがよいということは、外国で筆談する人という存在によって証明されている。言語が通じ合わなければ、絵で通じ合ってやる。

 手元に手帳があったので開いてみる。コップに入った水の絵と以前単語帳をシャリヤに見せてもらった時に出てきたリンゴの絵を同時に書いておく。


"Xalijasti.シャリヤよ"

"Harmie?"


 ん?呼びかけで帰ってきた答えのハーミェは「何」だろうか。

 それはさておき、翠は手帳に書いた絵をシャリヤに見せた。それぞれ"fqa es ietost.これは水"と"fqa es dijyk.これは林檎"と説明しておいて、dijyk林檎の方に丸を付ける。それを強調するようにペン先で林檎の方を指してみる。


"Coあなた......felifel text dijyk林檎?"


 今シャリヤは"felifel text"と言った。でも、この句をそのまま鵜吞みにすることはできない。句を鵜呑みにして失敗したのは以前の"co'd lyjotあなたの文字"の件がある。「あなたは林檎が欲しい?」みたいなことをいっているのではなくて、「林檎はあなたのハートをキャッチか?お前は伝説の戦士か?」みたいなことを言ってるかもしれない。いや、絶対そんなことは言ってないだろうけど。まあ、「好き」くらいに捉えておくか。


 そんなことを考えていると現在までいろいろな風味と品質の改善が行われた香り高き油分を主成分とした……つまり、バターのいい香りが漂ってきた。エレーナが耐熱プレートに何かを載せて持ってきた様子であった。


"Mi私は fenxe lersene zu cossあなた…… <felifel text>好き!"


 食欲がそそられる香りに目が釘付けになった。

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