#191 ナイフ一本
どうせ開かないドアノブを捻るのは早々に止めた。背後から何人もの使用人がゆっくりと、それでも確実に追いかけてきている。ビェールノイ本人が追いかけてこないということが更に不気味だった。
「くそっ……!はなからそのつもりで……!」
今頃気づいたことを吐き捨てるように翠は言った。
海外旅行で睡眠薬を盛られて強盗にあうなんてことは良くあることだ。豪邸を持っていて、使用人が大量に居るのだから、そんな事をする必要は無いだろうと完全に気が抜けきっていた。だが、睡眠薬を盛られているうちに部屋で見た少女たちのような奴隷のような姿になるなんて考えられようもない。
使用人たちが追いつく前に廊下を曲がる。ここが死角であるうちに逃げ切る必要がある。そんな事を考えていると真左に半開きのドアがあった。彼女たちが翠に追いつくのも時間の問題で、その部屋に入る以外方法が無かった。睡眠薬の影響で体の動きは精細を欠いていた。半ば押し破るようにドアを開けると、そのまま勢いで床に体が叩きつけられた。言うことを聞かない体を引きずりながら、すがりつくようにして必死で閂を閉めた。そのままドアに背を任せるようにして座り込む。
"
背後からビェールノイの声が聞こえた。その瞬間、最悪のシナリオが脳内に想像される。確かに良く考えれば使用人にも、奴隷のように扱われていた子供たちの中にも男は居なかった。彼らは翠を最初から生かしておくつもりではなかったのだろう。そして、シャリヤのことも心配だ。早く抜け出して彼女を助け出さなければ、使用人の少女たちと同じようにビェールノイの人形にされてしまうだろう。それだけは許されない。せっかく危機を抜け出してきたというのにこんなところで離れ離れになるなど。
(だが、どうすれば……?)
恐らく、背後のドアの周辺には使用人たちが翠の出てくるところを待っているだろう。そうでないにしろ、丸腰でシャリヤを助け出すなど不可能だ。睡眠薬の影響で体が思うように動かないこと、意識がはっきりしないことも問題だ。
顔を上げて部屋の中を見渡す。テーブルの上にかごが一つあった。テーブルまで這いつくばってその中身を確認する。数個の瑞々しい果物とナイフが一本――ナイフを取り上げて思いついたことは一つだけあった。時間はない。実行する他に選択肢は無かった。
「ぐぁっ……!痛っ……」
ナイフの刃を左腕に刺していた。こうでもしなければ、本当に眠ってしまう気がしていたからだ。レトラに移動する時に撃たれた痛みに匹敵するような痛みが体中を奮い立たせる。瘧にかかったかのような震えが全身を痙攣させると、頭の中が幾分かすっきりした。左腕からナイフを抜くと、白銀色の綺麗な刃に鮮血が滴っていた。服の上から刺したので傷口が見えないのが幸いだったが、血が腕を伝うのが不快だった。
それはともあれ、これで少しは動けるようにはなった。もう一つの問題は使用人たちをどうやって避けるかということだ。
(どうやらドアの真ん前には居ないようだ)
鍵穴から人影は見えなかった。それでも真横にいる可能性は捨てきれない。この異世界で銃なんていくらでも見てきたが、使用人たちは翠を追いかける時には銃を用いなかった。近接武器しか持っていないのであれば、あれだけ華奢な少女たちなど突き飛ばせば……
(いや、単純過ぎるだろ……)
どれだけ使用人の少女たちがどれだけ華奢であろうが、ゾンビ映画のように大量にたかられれば、四方八方からナイフでめった刺しにされ勝ち目はない。静かに忍び寄って背後から一人ずつナイフで斃していくというのにも抵抗がある。彼女たちはおそらくビェールノイの人形に過ぎない。彼女ら自身の意志、感情などは全く見えてこない。それなのに殺すなんて可哀想だ。
他に抜け道がないかと周りを見渡すと通気口らしき隙間が天井あたりに存在していた。翠一人がやっと入れそうなくらいの幅の穴がぽっかりと開いている。テーブルをその下まで動かしてその上に立って中を覗くと、そのままシャリヤの部屋の方へと繋がっていた。
"Lu
背後、ドアを強く叩きつける音が聞こえた。半ば怒りのこもったようなノックの音と使用人たちの口調が噛み合わなさすぎて、不気味すぎた。ともあれ、ノックに応じてやるつもりはない。
翠は繰り返す使用人の声を無視して、通気口の中へと入っていった。
通気口の中まではどうやら掃除が行き届いていないようで埃が体中に付いてしまった。頭をあげようとすれば上の鉄板にあたり、擦れて落ちた埃やら錆が降り掛かってきた。やっとの事で隣の部屋に繋がる光を見つけた。希望と共に通気口からやっとのことで抜け出す。そこは予想通り、シャリヤと翠が最初に案内された部屋だった。内装も何も変わりがなかったがシャリヤのみがベッドの上から忽然と姿を消していた。
(……)
ビェールノイがもう既にシャリヤを連れて行ったとすれば、翠が奴隷のように扱われていた少女たちを目撃したあの部屋が一番だろう。もはや時間的猶予は残されていない。
ナイフを握る片手に強い力がこもる。シャリヤを助け出すためには多少の傷も覚悟しなければならない――そう決意して翠は部屋のドアを開け廊下に出た。
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