#284 証明要求、あるいは傷跡の弁証法


 床に肘を立てて起き上がる。いつの間にか自室で眠ってしまっていたようだ。レフィは何処に行ったのだろう。そう思って顔を上げた瞬間であった。


「やっと起きたわね」


 声にもならない恐怖。無理な体勢で後ずさりしようとして肘と頭を強く打ち付けた。血の引いたえずきを堪えながら、そこに立っている存在に焦点を合わせる。

 黒髪のポニーテール、オブシディアンブラックの瞳がこちらを冷ややかな眼差しで見つめている。その服装は学園の誰も着ていないような黒のワンピースだった。

 その顔を俺は一度見たことがある。


「アレス・シャルだな」


 シャルは首を傾げて、どう答えようかと勘案していた。ややあって、彼女はただ頷くだけで応答した。言葉を弄するのに意味はないと判断したようだった。


「何故、ここに居る。レフィはどうした?」

「大丈夫よ。私は浅上慧みたいに簡単に他人を傷つけたりしないから」

「なんだと?」


 自分の大切な存在を侮辱された気がして、頭に血が上ってきた。だが、良く考えれば目の前にいる可憐な少女はウェールフープで俺達を抹殺しようとした人間だ。それを思い出したせいで俺はシャルに絶対的な反抗を赦されなくなった。いずれにせよ、シャルはレフィには危害を加えていないらしい。

 シャルはため息をついて、壁際に身を預けて腕を組んだ。


「あなたこそ、なんでこんなところに居るのよ」

「シャリヤを救い出すためだ、それ以外に何がある」

「ふーん」


 シャルはただそれだけで答えた。大して俺がここに居る目的には興味が無いようだ。


「それで、どうだった?」

「……シャリヤの記憶を消したのはお前なんだな?」


 詰めるように言うと、シャルは鼻で笑ってみせた。


「記憶なんて全部偽りなのよ。それなのに皆、真面目にそれに従って苦しんでも手放そうとはしない。好きなように忘れて、好きなように幸せな記憶を埋め込めば良いじゃない。私はそうしただけよ。彼女に両親をあげて、学園内での地位を与えた」

「……これまでのシャリヤを殺したのと一緒だ」

「じゃあ、あなたは彼女の欠落を埋め合わせできていたって証明できるわけ?」


 カチカチと壁掛け時計の秒針の音が聞こえる。窓から見える外はもう日も沈んで暗がりに落ち込んでいた。


「両親を失った彼女の傷跡は治らないのよ。それを解決する方法は唯一つだけ『死』なの。分かる?」

「筋道は納得できるが、お前が気に入らない」


 シャルはまた俺の言葉を鼻で笑った。首を振って、「こいつはもう駄目だな」とでも言いたげに深い溜め息をつく。


「まあ、あなたが本当にシャリヤの傷跡を埋め合わせていたというなら方法は無いわけではないわ」

「……記憶を取り戻す方法か」


 シャルはこくりと頷いた。


「憶えというものは繊細で、忘れるというのはオン・オフみたいに掻き消すことが出来るほど単純なものじゃないの。記憶それ自体を消すことが出来ても、消したという事実とその痕跡はその人と世界の間に残り続ける。そういった無限に続く消せない轍が誰かと何かの存在を肯定し続けているのよ。この肯定は絶対的で抹消することは出来ないの」

「……難しい話だな。結局何が言いたいんだ」

「記憶自体が消えても、記憶の轍は消えない。あなたが自分をシャリヤの一部だと証明するなら、あなた自身が轍から彼女に還元されなければならない。そうしたら、彼女もその記憶を見出すのかもしれないわね」

「はあ……」


 シャルの口調は全てを知ったようなものだったが、いかんせん具体的な話が全く見えてこない。そんな俺の感想を読み取ったが如く、彼女はこちらにゆっくりと顔を向けた。


「まあ、そう簡単には行かないってことよ。それに……」


 シャルはこちらに歩み寄って言う。


「あなたにも記憶の轍は掛けられているのよ」

「どういうことだ」

「レシェール・フィネーイユ、彼女がどうなるかはあなたに掛かっているんだから」

「……」


 沈黙がこの場を覆った。


「チートハーレムを実現したいと最初に言ったのはあなたよ。アレス・シャリヤだって革命に巻き込まれず、両親が戻ってくるなら、それほど幸せなことはない。あなたと彼女は対照的に同じだということを忘れないことね」


 そう言って、シャルは玄関のドアを開け放ち、外に出て行く。俺は無性に追いかけたくなって、靴も履かずにシャルの背を追った。背を向けたまま寮の階段の踊り場に立ち止まるシャルに声を掛ける。


「おい、レフィはお前が用意した人形の一つじゃないのか。夕張は作品だの何だのと言っていたが、そういうわけじゃないのか」

「用意だとか、作るだとかあの人は言うけど、私はそうは思っていない」

「はあ、つまりどういうことだ」

「私達は選ばれている。常にここに召喚されている。他人のために、不可抗力によって明るみに出されている。それを認められないから、そう言って足掻いてるだけ、そう思わない?」


 シャルが振り向いたのはそれが最後だった。俺が答えられないでいると、彼女はどこかへ歩を進めていった。いつの間にかシャルの姿は目の前から消え去っていたのであった。

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