#32 なんて勘違い野郎だ、もう助からないゾ♡


 シャリヤとの部屋の建物まで帰ってくるまで結構な時間が掛かった。

 レトラの街は非常に広い。インド先輩らしき幻を追いかけているうちに街の端にまで来ていたらしい。

 建物の中の階段に掛けられた時計は既に午前三時を指していた。いくらなんでも遅すぎる。いい加減に部屋に戻って、すぐ寝よう。また幻覚を見たりしたらとんでもないことになりそうだ。


 階段を上がってドアに手を掛ける。

 シャリヤは寝ているだろうし、静かに入ってすぐ寝よう。奇妙なことがあったと説明できるほど語彙力があるわけでもないし、気持ちよく寝ている人間を叩き起こしてまで言うべき出来事でもない。


「ただいま……ってうわっ!」


 ドアを開けて、いきなり抱き着いてきたシャリヤに驚く。銀髪の頭は震えて、翠の胸に引っ付いている。

 いきなりの出来事であまり理解できていなかったが、顔を押し付けられている胸から嗚咽し、震えた声が聞こえたのでやっと理解できた。


(泣いている……のか?)


 地面に水滴が落ちる些細な音、嗚咽するシャリヤの声、震える体。何か尋常でないことが起きていることは確かだが、泣きつかれるまでのことを翠がした覚えはない。

 とにかくこの状況では何が起こったのか聞くこともままならない。相当にリネパーイネ語力が溜まってきた今、ここで使わないでいつ使うのか。


"Xalijastiシャリヤ, lkurf mol harmie何があったのか言ってくれ."


 シャリヤが顔を上げて、翠を茫然と見上げる。大粒の涙が頬を伝い、目は涙で満ちている。息もできないほどに感情が昂って泣いてしまったためか、浅く激しい呼吸を繰り返している。

 結果的に更に翠の庇護欲を掻き立てることとなった。


"Cenesti......mi es私は cerke'i ……である pa nilirs edixa......"


 良く分からない。良く分からないが、悲しんでいる人には良く分からないなりに対処してあげるべきだ。言葉が分かっても他人が悲しんでいる理由を自分が理解し、完全に分かってあげることが出来るとは限らない。ならば、自分には出来る限りの慰めを与えることしかできない。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 何が大丈夫かなんて良く分からない。

 でも、大抵生きていれば何かいいことが時々どんな小さいことでもやってくる。シャリヤが絶望のどん底に居たとしても、いずれ這い上がってこれる。

 そして、今それを手伝えるだけ手伝うのが翠の小さな恩返しになる。


 日本語でやさしく呼びかけながらシャリヤの頭を撫でていると落ち着いてきたのか、ふらふらとシャリヤはベッドに戻っていった。翠も着替えてベッドに入る。疲れたのでシャワーは明日の朝で良いだろう。

 結局泣いて抱き着いてきた理由は良く分からなかったが、翠に話す気力が削がれるほどの出来事だったのだろう。無理にとは言わないが、詳しい理由を知りたかった。でも、翠の語彙力も文法力もまだまだ全くないに等しいほどだ。この世界がどんな様子で、紛争中の相手は誰で、シャリヤの親がここに居ないのは何故で……などという感じで疑問はどんどん増えてゆくものだ。そんな現状で彼女の悩みを理解することは可能なのか?


 隣で寝るシャリヤの寝顔を確認する。

 髪で口元が隠れているが、顔を見るに安心して眠りについている。まるで北欧のお嬢様みたいな感じだ。いや、いきなり「私は北欧のギムリー出身で――」と年若くして外国人に、それも今まで異世界語を喋ってきたシャリヤにべらべらと日本語を喋られたら卒倒して死んでしまう。というかギムリーなんて国は北欧にはない。それはカナダの空軍基地ととあるグライダーの名前だ。一体何と勘違いしたんだ……?

 それはさておき、寝顔が可愛いのはポイントが高い。悪戯したくなる衝動を増幅させるというエネルギーがそこに存在する

 涙の跡が頬に残っている。相当何かがショックだっただろうと思ったが、翠は一つ自分に非があるのではないかと思った。


(もしかして、俺が遅く部屋を勝手に出てしまって心配させてしまったのではないか?)


 帰ってくるまでシャリヤが自分のことを待っていたということもそれなら確かにつじつまが合う。だとしたら、"Cenesti, mi es私は cerke'i ……である"の"cerke'i"は「心配な」という意味の形容詞だろう。

 その後の"pa nilirs edixa"は良く分からない。どっちも聞いたことが無いし習ったことはない。シャリヤの迷惑にならない限り、もっと積極的に単語を学んでいくべきだろう。言語学習のやり方というものは良く分からない。インド先輩は、語学を趣味としてやっている人間も色々な種類が居るからそういった感じで全ての人を一括りにしてどの学び方が良いとか言うことは言えないから自分に合った学び方をしたらいい。と言っていたし、無理のない限り、異世界人の言葉であるリネパーイネの会話に傾注して、楽しんで学んでいけたらいいな。


(楽しく、楽に……チーレムのために……。)


 そんなことを思って翠の異世界生活三日目は終わった。

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