卅五日目
#186 呼び方
目覚めははっきりしていた。安全な場所で、落ち着いて起きる。そんな当たり前のことが、この世界に来てからは珍しいことになってしまっていた。シャリヤと翠の朝食は昨日のルーリア祭の屋台で買ってきた食事の残りだった。食べられるだけ感謝しなければならないが、シャリヤはあまり食べられなかったようだった。朝っぱらから高カロリー食であることは否めない。
シャリヤはいつの間にか挫いた足を回復していたらしく、自然に歩けるようになっていた。自慢っぽく歩いてみせる彼女の姿に翠もシェレウルも笑顔になっていた。どうやら湿布は痛みがなくなれば必要ないらしく、足にあった湿布は剥がされている。"
そんなこんなでゆったりとした午前中が終わると、シェレウルと別れなければならない時が来てしまっていた。
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シェレウルは寂しげに病院の出入り口に立つ翠とシャリヤを見ていた。イヴァネはソファに座ってマグカップを呷りながら、何を考えているのか全く分からないアンニュイな表情を向けていた。「一晩だけだ」と不満を漏らしていた彼も表情に不器用な心配を湛えていた。
そりゃあ、居れるのであればここで暮らしていたい。だが、イェスカやユミリアの後釜が自分たちを追っているのを考えれば一箇所に留まっているのは危険だ。シャリヤもそれを理解しているらしく、病み上がりながらここから発つことに同意してくれていた。それでも彼女は良くしてくれた彼らを名残惜しそうに眺めていた。
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「いつまでも」を表す単語がわからなかったので「全て」を表す"
ピジンじみた語法に感じた杞憂はシェレウルが深く頷いたところで無くなった。
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シェレウルの底なしの慈悲が感じられる言葉だった。後ろで座っていたイヴァネも否定はしない。マグカップを膝に、彼は気だるそうな目を向けていた。
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頷くとシェレウルは自分たち二人をハグして、階段を降りてビルを出ていくまで見送ってくれた。振り向くと見える宣伝広告にまみれた壁、クリーム色の階段、申し訳程度の白色の照明。昨日来たときと同じビルの中に彼を置いていくのには寂しさを感じた。だが、それでも自分のためにも彼らのためにもここに留まっているわけにはいかない。
シェレウルの見送りにお礼を告げると、シャリヤと顔を見合わせて先の逃避行を意識することにした。
町並みは相変わらず灰色のままだった。昨日のルーリア祭の賑わいは無く、人混みは少なくなっていたがまだ屋台はあった。そんな中をシャリヤと共に歩いてゆく。どこに行くのかはっきりはしていなかった。食べ物を貰うならフィアンシャに行けばいい話だ。屋台から買うのにはレトラの食堂があれだったわけでこの町の配給システムも厳しいものだろう。自分たちの存在がバレる要因にもなりかねない。
というわけで、一日の大半を暇つぶしに当てながら次のフィアンシャがある町へと渡っていくのが当面の目標であった。だが、その前にやっておきたかったことがあった。
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人混みを縫うようにして通りを進みながらシャリヤに話しかける。彼女は首を傾げた。
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当然、聞いたこともない単語にシャリヤは困惑していた。病院でシェレウルに兄として扱われ、ちょっとした遊び心で言ってみた。日本語も分らないうえ、しかもあの時寝ていたシャリヤにとっては何も分からないだろう――そういう甘い予想は彼女の鋭い質問で崩れた。
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(ぎくっ)
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バレている。まずい。何がまずいか分からないが、少なくともこの八ヶ崎翠のプライドが崩壊する――直感的にそう感じた。こんなことでシャリヤに変な人間だと思われたら、気まずい状態になってしまう。そうなってしまったら、この先の逃避行はじりじりと継続ダメージを受け続けることになる。最悪の結果だった。
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リパライン語で「兄」のことを"
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シャリヤの手を引きながら半ば強引に道端に落ちている複数の紙切れの方へと小走りで行く。彼女の柔らかく白い肌の手のひらが翠が掴む手を必死にそれでも優しく掴んでいた。
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