三日目

#22 希の国の標語


(おかしい、思い出せない。)


 朝の目覚めは至って良好、シャリヤはまだ寝ていたので、翠はベッドの上でこの世界に来た時のことを回想していた。

 典型的な異世界転生ものの主人公たる八ヶ崎翠のここまでの人生は至ってそういう普通の人生を歩んできている。ただ、知り合いにアメリカ帰りのスーパースター……ではなくインド帰りの言語マニア――インド先輩が居るくらいである。至って普通だったその日常が、思い出せないのである。ただ、普通だったということは覚えている。

 忘れるというのは、人間の強い力だという。記憶力が最強であれば、どんなに勉強が出来るやらと考えることはあるだろうが、翠には楽しいことも、苦難も、トラウマになりそうな出来事も何回も想起されて反復されて冷静に生活するのは難しそうに思える。


(でもなあ……。)


 詳細な記憶が一つもないというのはおかしいではないか。あまりに記憶力が無い人でも、病気や生まれ持った特性でない限り、今朝食べたものを思い出すくらいのことはできるし、それくらいに日常に何があったかは思い出せるはずなのに、自分が通っていた高校の名前すら出てこない。

 きっと、これが「異世界転生」なのだろう。

 転生、転生と言ってきたが、今までのを見て来るとどう見ても異世界転移だった。日本語は覚えてるし、常識もある。インド先輩とかいう変人の知り合いの言ってくれていたことも覚えている。日本での人に対する振る舞いも知ってるし、体は赤ん坊の身体のままこの世界に投げ込まれたわけではない。

 でも、八ヶ崎翠はこの異世界に来る代わりに記憶の一部を代償にしたのだ。記憶を代償に、翠は目的を果たすための片道切符を渡されたのだ。もしそうだったら、それは異世界転生と同じようなものだ。八ヶ崎翠という人間が最初から最後まで貫徹する目的たるチート使いとハーレム構築の日はこの世界でゼロから始めれば、面倒な現世との繋がりが絶たれた今なら、必ず来る。その為に女神にトラックに轢かれて転生させられたのだから。


(女神……?)


 考えの流れで自然に出てきた言葉にまた違和感を持つ。そういえば転生した当初の記憶も思い出せていなかった。女神だの神だのが、転生させたい奴を汎用異世界転生用装置主に貨物の運送に用いられる、荷台を備えた自動車、通称トラックを利用して轢く、殺す――というのが良くある典型的な異世界転生の流れであるのは、日本の崇高なる伝統文学作品群ライトノベルのテクストリーディングの結果より判明していることであるわけだが、記憶を代償に異世界転生したのは良いが、女神や神と会った時の記憶までないというのは、おかしい。

 いや、そもそも女神や神というものに会っていないかもしれない。

 崇高なる伝統文学作品群の中であのように書かれていたとしても、それがそのまま現実に適用されるわけがない。文字を見ただけで数秒で言語理解できるひきこもり兄弟が存在したり、異能持ちが居る社会でそれを統制するために戦う人間が総じて粗末な能力持ちしか居なかったり、出会ったヒロインが超有名な探偵の子孫だったり、こういうことが日本で集中して起きているるわけではないのは明白で、フィクションという概念を理解できない人間を除いて、書かれていることをすべて現実として飲み込むということはない。つまるところ、伝統作品群に対して翠の成り行きはイレギュラーとなることを達成したのである!


"Nnn......cenesti......"


 横に寝るシャリヤが寝言を言っている。

 どうしても、シャリヤは目的チーレムの対象には思えない。恩人であり、最初にあった異世界人に対してそんな承認欲求を満たすだけの役目を着せることはできな――――というか、何か重要なことを忘れているような気がするけどなんだろう。何か昨日やりわすれて、そのまま眠ってしまって……。


(あ、cenestiのことか)


 寝言ですら、セネスティと言われてしまっている。

 名前を間違えられる主人公とかさすがに不格好すぎる。早く叩き起こして、正しい名前を教えなければ。

 ベッドから出て、シャリヤのベッドに近づこうとするが翠は寝ている女の子を叩き起こすのも悪い気がして一時思いとどまることにした。しかし、やはり異世界語の話を聞くにはシャリヤ以外の信用できる人間に居ない。


(死か、叩き起こすかだ。)


 じりじりとシャリヤの元に近づく。ベッドに乗ってもシャリヤは気づかないで寝ている様子であった。女の子に寝起きドッキリするほど、根は腐っていないのでどうせどこか触って、起こすという方法を取らざるを得ない。だが、触るところをミスれば、レシェールたちに報告されて敵前逃亡した敗残兵と共に丸太に括り付けられて、銃殺刑を受けることになる……かは知らないけど、多分良くないことが起きることは当然である。

 体勢に気を付けて、シャリヤを見下ろすような状態になるが肩をちょっと触れてみる。全然起きないばかりか、くすぐったそうな反応をして寝返りをうってしまった。これはこれで面白いが、用事に対して起きないのは面白くない。


「これでは埒が明かない……」


 シャリアは寝ているときは鈍感すぎるらしい。これはもう肩を掴んで、揺さぶって起こすほかないだろう。漢、八ヶ崎翠、これはもう覚悟を決めてやるしかない。

 シャリヤの肩を掴もうとして、手を近づける。なんか、不審者みたいな感じになっているが、これは学習意欲……そう健全なる学習意欲に基づくものなのだ。決して女の子と相部屋になったので触り放題やんけ!やったぜとかいう不純な目的ではない。


"Xalijasti!"


 翠がシャリヤに触れようとした瞬間、ドアが開いた。




 空いたドアの先に居た黒髪の少女のことをエレーナと存在を確認して、翠は人生がこの世界でも終了したことを悟ったのであった。

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