#88 彼女は異教徒を殲滅するつもりだ
大通りは人であふれていた。銀髪と黒髪の人々が道の脇で何かを待つように待機していた。上から見下ろせば囲碁の石がでたらめにばら撒かれたように、大通りはそれほど混雑していた。
ヒンゲンファールがいきなり図書館から去ってしまったから、やることも無くなってしまった。そのまま居座ってイェスカやヒンゲンファールの勧誘に関して深く考えようかとも思ったが、シャリヤに日本語を教える約束を思い出した。そうして家に向かっている途中だったが、大通りの混雑が酷すぎて全く前に進めなかった。
道のわきにあるベンチが空いていた。シャリヤと約束した時間よりも二時間ほど早くヒンゲンファール先生の講義が終わったため、それほど急いで帰る必要もなかった。目の前を覆いつくす民衆を眺めながら、シャリヤに日本語でまず何を教えるべきだろうかということを考えていた。
(祭りか何かなんだろうか。)
そんな平和ボケした問いは民衆たちの喧騒にかき消された。
民衆たちが道を開けるように大通りの脇に集まってくる。その道の中心には隊列を組んで兵士たちが大量に歩いてきていた。くすんで光沢を失ったり、所々へこんだ灰色のヘルメットを被り、小銃を持って少しづつ規則正しく前進する。いつも街中で見るような民兵の勢力の数十倍の人員が決意のこもった顔で真っ直ぐ前を見据えて進んでゆく。その行進に狂いはなかった。
どこからか拍手が巻き起こった。"reto
一瞬体が瘧にかかったかのように震えた。悪寒、後に何か恐ろしい事が起きようとしていると脳がじわじわと警告している。とりあえず落ち着いて情報を集めたいと思った。そこで翠はバッグに入った辞書を開いて"reto"について何と書いてあるか確認することにした。
reto
【
:
「殺す……なのか……?」
『私は戦いたくない。でも、彼女――イェスカは異教徒を皆殺しにするつもりよ。』
理解にヒンゲンファールの姿が重なる。深刻そうな、助けを請うような声色が記憶から蘇る。
『シャリヤを救ったように、あの時のように皆を救ってほしい。』
しかし、何故自分なのか。何故皆何も知らない、リネパーイネ語もろくに話せない自分に救いを見出すのか。
『君はみんなを助けることが出来る。』
頭の中に反響するように残るヒンゲンファールの意思が、繰り返し想起されるたびに息苦しさを感じた。シャリヤもエレーナも、フェリーサもレシェールも、ヒンゲンファールもイェスカも戦争の終結を望んでいるはずだ。自分がそのカギになるのか。ベンチで考えていても答えは出なかった。
反響する声を振り払うように頭を振って、家に向けて歩き出した。ヒンゲンファールやイェスカのことは一旦忘れることにした。後回しにして、シャリヤと楽しい時間を過ごして、それから考えることにしよう。大丈夫、多分、時間はまだいくらでもある。自分が何もしなくてもきっと誰かがそのうちになんとかしてくれる。
シャリヤに日本語を教える――と一言で言っても自分は外国人に日本語を教えた経験なんか一回もない。シャリヤと少し日本語での会話が出来れば確かに楽しそうだが、一体何を教えればいいんだろうか。
(最初は挨拶からかな。)
そんなことを考えながら歩いているといつの間にか混雑と喧騒は無くなっていた。
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