#66 生来の言語
結構な日にちが立ったと思う。正直シャリヤと出会ってから一週間のうちに色々なことがありすぎた。落ち着いて生活することもままならなかったし、彼らが喋る言葉も一言でも理解しようとすることに苦しんでいた。
今日、やっと異世界での生活は三週間目に突入した。未だに慣習や言葉が完全には理解できていないが、難しいことを考えなければ暮らしていけるだけの生活能力を手に入れることが出来た。レトラの街は自分を守ってくれるし、シャリヤやフェリーサのような仲間もレシェールやヒンゲンファールのような頼れる大人も居る。図書館やシャリヤたちの信仰が何かにも興味がある。一般的な異世界転生ものみたいな滅茶苦茶で仰々しい英雄譚的展開を想像はしていたが、現実に感じるのは充実した暮らしが出来ればなんということはない、ということだ。
時々自分の元居たところ――日本に帰りたいと思うこともある。一瞬でも心の隙に入ってくる懐かしさとか自分が一生ここで暮らしていかないといけないのかとか危機感を抱いたりすることもある。でも、戻り方とかは分からないし、記憶がないまま帰ってもどうしようもない。今までは転生者として威張っていたが、過去がない自分にとっては居場所はここにしかない。自分はここで生きていくしかないんだ。
でもそれは決して悲しいことではない。過去のつぎはぎだらけの記憶もシャリヤたちとの人間関係もある。毎日可も不可もない食事を食べられるし、図書館で暇をつぶせる。これ以上何を望もうか。何回も言ったことだ。しかし、インド先輩の幻覚を見てしまったのが不思議でならない。彼が自分にとって何だったのか、自分が何を思って記憶を捨ててまで異世界に来たのか、やはり日本に戻りた――
「はあ、ダメだ、ダメだこんなんじゃ。」
日記の最後の行を鉛筆でぐちゃぐちゃに塗りつぶす。目の前にある日記は今日から付けようと思っていたものだった。今までの生活を日記にして記録しようと思ったことはなかった。手帳はあれど、中身は頻度解析したときのメモやら単語や文法を教えてもらった時の絵などで埋め尽くされていたため、続けて日記を書こうという気にはならなかった。
紙は戦時中貴重品になるだろうから新しいノートが欲しいといってももらえないだろうと思っていたが、シャリヤが融通を利かせて持ってきてくれた古びた手帳が目の前にある。これにこれから一日一日の出来事を記録していこうと思って書き始めると止まらなくなってしまった。書いているうちに自分の心の中のことが見えて来るようで、何か気持ち悪いものを感じていた。
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いつの間にかシャリヤが真後ろに立っていた。興味深そうに手帳の中身の記述をのぞき込んでいる。
普通、常人なら自分の日記の中身を読まれることなんて恥ずかしがって嫌うものだが、今回翠は何も思わなかった。なぜなら、シャリヤは日本語が当然分からない。もし他にも転生者が来ていれば、何か足跡が残されてしかるべきだろうけど今までそんなことを感じさせることもなかった。一般的な異世界ファンタジーなら転生者とまで呼ばなくても召喚勇者だのなんだのという設定があって、意思疎通が取れるならその召喚勇者の言語を記した文章があってもおかしくはない。しかし、ヒンゲンファールさんの図書館の
つまり、多分この世界には他の転生者は過去に来なかったことになる。シャリヤには日本語の知識を教えたこともないので読めるはずもない。
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簡単な言葉でシャリヤに表す。リネパーイネ語で人に何かを伝えようと思っても、日本語と同じように上手くはいかないということは最近分かった。詳しく、細かく正確に表そうとすればそれだけの語彙力や語法力が要求される。一々話している間に辞書を引くなんてことはやらないが、話を出来るだけ繋げることが出来れば自信につながる。だから、会話の上では完璧になろうとしないで、話を続けられるようにすることを目指すようになっていた。もっとも、異世界人との会話は学校の英語のテストでもあるまいし、気を張ることもない。
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「自分が元居た国、世界の言語だ。」とでも言いたかったが、「国」とか「元居た」とか単語が分からなくて訳せないので事実だけ言ってみた。シャリヤはといえば聞き覚えの無いだろう
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シャリヤが訊いたうちの大体の単語は理解できたが一つだけ理解できなかった。"
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なるほど、最初の文章の"
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そう答えるとシャリヤはまた興味津々に翠の手帳を覗いてきた。興味に心躍らせ、目を輝かせて、無言で眺め続けている様子は芸術品を見ているかのようであった。机に手を置いて、じっと見つめている。
(別にそこまで字が綺麗なわけじゃないと思うんだけどなあ。)
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翠の書いた日記に見惚れながら、翠に話しかける。多分「君の文字、綺麗だね」とかそういうことを言われるのだろうと思っていたが、その次の瞬間に聞こえた言葉は予想とは反していた。
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